2017年03月01日 (水) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(10)


1 どんな実践方法があるのでしょうか?


自己実現に達しようとする人の自己は、
彼自身と異なったものではない。

それは、彼によって到達されるはずの
彼よりすぐれたものであるわけがない。

自己実現とは、ただその人自身の本性を
実現することなのだから、

解脱を求める人は、一過性のものと永遠
のものをはっきり見分けることによって、

またけっして自身の本来の姿から逃げ出さ
ないことによって、疑う余地なく例外なく、
自分の本性を実現できる。


これが、知識の実践として知られていることである。
これが、自己実現に導く探究である。

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2017年02月15日 (水) | Edit |
J・クリシュナムルティ 中川吉晴訳「瞑 想」星雲社より(9)


あなたが

瞑想をしようとこころみるなら

それは瞑想ではなくなってしまうでしょう

あなたが善良であろうとするなら

善はけっして花ひらくことはないでしょう

あなたが謙虚さを身につけようとするなら

それはなくなってしまうでしょう

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2017年02月01日 (水) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(9)


7 真実のグルの本性は、至高の主の本性であると言われて
いるのは、どのような意味なのでしょうか?

真実の知識の状態、あるいは神(イシュワラ)に至らんと願い、
つねに信仰に励んでいる人にとっては、その信仰が熟すと、
その人の内なる証人であり、その人自身と等しいものである
主がお現れになる。

主は、その弟子に祝福を与えんがために、慈悲深くも人間の姿
と名を帯びて現れ、主の三つの自然性であるサット-チット-
アーナンダ(存在-意識-至福)の助けを借りて、その人をして
彼自身の内に溶けこませるのである。

この原理によれば、グルは真実、主と呼ばれうるものである。

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2017年01月15日 (日) | Edit |
J・クリシュナムルティ 中川吉晴訳「瞑 想」星雲社より(8)


瞑想は

日常生活とはべつの何かではありません

部屋の隅にいって

10分間 瞑想をし

そこからでてきて肉屋にもどる

というようなものではありません

これは

比喩として言っているのではなく

実際にそうなのです


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2017年01月01日 (日) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(8)


1 本当の師(グル・サットグル)の特徴はなんでしょうか?

自己の内にしっかりと定住していること、
すべての事柄を平等の目で見ること、

いつでもどこでも、そしてどんな環境にあっても、
揺るぎない勇気を持っていること、などである。


2 最も熱心な弟子(サットシシャ)の特徴はどんなものでしょうか?

悲しみをぬぐい去って歓喜に至ることを激しく願い、
すべての種類の世俗の楽しみを激しく捨て去った者である。

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2016年12月15日 (木) | Edit |
J・クリシュナムルティ 中川吉晴訳「瞑 想」星雲社より(7)


瞑想的な心がうまれる土壌は

日常の生活のなかにあります

そこには

争いがあり

苦痛があり

つかのまの喜びがあります

瞑想は そこではじめられなくてはなりません

そこに秩序をもたらし

そこから果てしなく動いていかなくてはならないのです


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テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
2016年11月15日 (火) | Edit |
J・クリシュナムルティ 中川吉晴訳「瞑 想」星雲社より(6)


瞑想とは

愛がはたらくことです

それは

ひとりの人にたいする愛ではなく

たくさんの人にたいする愛でもありません

それは

だれもが どんな瓶からでも のむことのできる

水のようなものです


瓶が黄金でできていようと

陶器でできていようと

かまいません

それは尽きることがありません


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2016年11月01日 (火) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(7)


23 解脱を願う者にとって、本を読むことはどんな価値が
あるのでしょうか?

すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たねば
ならないと説いている。だから、すべての聖典の結論は、
心を静かに保つべしということである。

ひとたびこのことが理解されるなら、際限もなく本を読み
続ける必要は何もない。心を静めるために、人はただ、
自分自身の内に自己とは何かと問いつづけるべきである。

聖典を読むことによっては、この探究はできない。
人は自分自身の智慧の目で、自身の自己を知らねばならない。

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2016年10月15日 (土) | Edit |
J・クリシュナムルティ 中川吉晴訳「瞑 想」星雲社より(5)


より広い より深い超越的な体験を

たえず追いもとめていくのは

“あるがまま”の実際の現実から

逃避していく ひとつの姿にすぎません


“あるがまま”の現実とは

私たち自身のことです


わたしたちの条件づけられた心のことです

心が

めざめていて

叡智があり

自由であるなら

いったいなぜ

“体験”というようなものを必要とするのでしょう

どうしてそれを得ようとするのでしょう

光は 光です

それは もっと多くの光を

もとめたりしません


Meditation

is

the seeing of what is

and going beyond it.


瞑想とは

あるがままに ものを見ることであり

それを超えていくことです



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2016年10月01日 (土) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(6)


19 無執着とはどういうことでしょうか?

想いが起こったとき、その想いの根をあますところなく
完璧に消滅させてしまうこと、それが無執着である。

真珠採りは腰に石をしばりつけて
海の底に潜り、そこで真珠を採る。

私たちは無執着とともに自分自身の内に潜り、
自己という真珠を手に入れなければならない。

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