2008年08月30日 (土) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(50)


ニダガーはもう我慢ができず「お前さんは王様と象を見ている。
一つが上で一つが下だ。

それでもおまえさんは、『上』と『下』が
どういう意味か知りたいのかい?」とどなった。

「眼に見え、言葉でも教えたのに、それでもわからないのなら、
行為だけがわからせるだろう。前にかがみたまえ。そうすれば
すべてがすっかりわかるだろう。」

田舎者は言われたとおりにした。
ニダガーはその肩の上に乗って言った。
「よく見ろよ。私が上で王様だ。お前さんが下で象だ。
これでよくわかっただろう?」


「いや、まだです」田舎者が静かに答えた。

「あなたは王様のように上におり、私は象のように下にいる、
とあなたはおっしゃる。王様、上、下、それについてはわかり
ました。だがお願です。どうかその『私』と『お前さん』が
何を意味しているのか教えてください。」

ニダガーがこの「私」とは別の「あなた」を定義する大問題に
直面させられたとき、突然彼の心に光が差しこんできた。

彼はただちに肩から飛び降り、マスターの足もとにひれ伏して
言った。

「わが尊敬措くあたわざる師、リブーの他に誰が物理的存在の
表面性から、真実の自己存在へと心を引き戻すことができまし
ょう。おお、慈悲深い師よ、どうか祝福をお与えください。」

つまり、あなたの目的はここで今、アートマ・ヴィチャーラ
(自己探求)によって、物理的存在の表面性を越えることにある。

それなのに、ただ身体に属するものにすぎない「あなた」と「私」
を区別することにより、どんな展望を持とうというのか。あなた
が心を内部に向け、想いの源を尋ねるならば、どこに「あなた」が
あり、どこに「私」があろうか。

あなたは求めつづけ、そしてすべてを含む自己であらねばならない。

弟子 しかし、「私」が「私」を探さねばならぬということは、
おかしなことではないでしょうか?「私は誰か」という問いは、
結局は空虚な形式になってしまうのではないでしょうか?

それとも私は、それをある種のマントラ(真言)のようにくりかえし
ながら、終わりなく自分自身に問いつづけなければならないのでし
ょうか?

マハリシ 自己探求が、空虚な形式でないことは確かだ。それは
また、どんなマントラのくりかえしよりもすぐれたものである。

「私は誰か」という問いが、単なる知的な質疑であれば、それは
たいした価値はないだろう。自己探求の目的そのものは、すべての
心をその源へ集中させることである。だからそれは、ひとつの「私」
がもうひとつの「私」を探し求めることではない。

自己探求は、すべての心を純粋な自己自覚の内にしっかりと釣り合
いを保って確立すべく、激しい活動性を伴っているので、空虚な形
式などではありえない。

自己探求は、あなたが本来はそれである、制限されない絶対の存在
を実現するための、ひとつの失敗することのない方法であり、唯一
の直接的な方法である。



次回につづく


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テーマ:宗教・信仰
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
南無阿弥陀仏を唱えていたら救われる
自己放棄が出来た人が、南無阿弥陀仏を唱えるのであれば
救われるのだと思います。師を完全に信じることが出来た人が
物理的存在の表面性を越えることに成功するのでしょう。


「念仏踊りとか、南無阿弥陀仏を、唱えていたら、救われると
いうのは、悟った方が、迷える人々を幸せな境地へ導くために
考案された、一つの方法なのですね。」

多くの人にとって、今で言うレジャー、に近いものだったのでは
ないでしょうか。

お正月、お盆やお祭りも、宗教行事である同時に気分転換のような
ものだったのでしょう。もともと日本人は宗教心は希薄だったのじゃ
ないかな~と思ってしまいます。

現代人の私たちのように自我意識に悩むこともなかったと思います。
そういう意味でラマナ・マハリシは、今後いよいよ評価されるようになる
のではないでしょうか。


2008/08/30(Sat) 21:08 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
マントラ
私はマントラを唱え続けても自己実現することはできないと
考えています。


弟子 それとも私は、それをある種のマントラ(真言)のように
くりかえしながら、終わりなく自分自身に問いつづけなければ
ならないのでしょうか?

マハリシ 自己探求が、空虚な形式でないことは確かだ。それは
また、どんなマントラのくりかえしよりもすぐれたものである。


私は誰か、私は誰か、私は誰か、私は誰か、私は誰か、私は誰か、
私は誰か、私は誰か、私は誰か、私は誰か、私は誰か、私は誰か、


自己探求は、ある種のマントラを唱え続けることで陥る、空虚な
形式のくりかえしではありません。

マントラを唱えるということは、心を一点に集中させるにはよい
のですがそれだけです。自己探求とは違います。

「自己探求の目的そのものは、すべての
心をその源へ集中させることである。」

「その源」とはなんでしょうか?


2008/08/30(Sat) 19:54 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ああ、そうかあ・・
念仏踊りとか、南無阿弥陀仏だけを、唱えていたら、救われる・・・というのは、悟った方が、迷える人々を幸せな境地へ導くために考案された、一つの方法なのですね。

そして、日本中にある祭りなども、余計なことを考えずに、別世界で、夢中で過ごすことで、心が洗われる行事なのかもしれませんね。

やまんば、お片付けをしながら、ふと、それを感じてろくろくさんに聞いていてだきたくて、ここにやってきました。
2008/08/30(Sat) 11:43 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
自己探求の道
感動しました!
自己探求の目的は・・・すべての心をその源に集中させること。      物理的存在の表面性を越えること。 

自己探求は、すべての心を純粋な自己自覚のうちにしっかりと釣り合いを保って確立すべく、激しい活動性を伴っているので、(この激しい活動性を伴う・・というところが特に気に入りました^^)空虚な形式などではありえない。
なるほど~~~。「集中する」
自分の行動を実況中継する。
呼吸や音に集中する。
マントラを唱える。
  
一生懸命仕事をする。
なんらかの創作活動をする。
スポーツをする。
楽しく夢中に遊ぶことは、全て「思考のない世界」にいることなのですね。そこは、きっとエネルギーの源で、一瞬でもそこにふれると、みんな元気になれるし、心がリフレッシュしてるのだなあと思いました。

やまんばは絵を描いていこう。私が思考のない世界へいける唯一の道かも知れない。

ろくろくさん、コメントありがとうございます。
「至高の私(自己)だけが、在る」ということを足がかりにして自己洞察をすすめなさい。といってるのだと思います。というコメントの箇所・・・やまんばは自己洞察などという難しいことは出来にくいですが、絵を描いていると時間の感覚がなくなり、雑念から離れていた・・と時々後から感じることがあるので、とにかく創作活動を続けていこうと思います^^^^^

ありがとうございました。
2008/08/30(Sat) 09:15 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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