2008年08月27日 (水) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(47)


弟子 どうすれば平和が得られましょうか? 
ヴィチャーラ(探究)をとおして、平和を得ているとは
私には思えません。

マハリシ 平和はあなたの自然状態である。
その自然状態を妨げるものは心である。
あなたのヴィチャーラはただ心の中でされてきたのだ。

心とは何かを尋ねよ。そうすればそれは消え去るだろう。
想いと別の心というものはない。それなのに思いが湧き
起こると、あなたは、それが起こったところに何ごとか
を推量し、それを心と名づける。


あなたが、それは何かと尋ね入れば、そこには心と呼ばれる
何ものもないことが見いだされよう。そのようにして心が
消え去ったとき、あなたは永遠の平和を実現する。

弟子 詩や音楽、ジャパ(唱名)やバジャナ(賛歌を歌うこと)、
美しい景色を見ること、霊的な言葉を読むこと等々により、
人はときどき真実な全的結合の感覚を経験します。

その深い至福に満ちた静けさの感じは(そこには個人的な自我
は入る余地がありません)、バガヴァンが言われるハートの内
に入ることと同じものでしょうか? 

これらのものの実修は、より深いサマーディへと導き、やがて
は実在の全的なヴィジョンへと導いてくれるでしょうか?

マハリシ 心に同意されるものが贈られれば、そこに幸福がある。
それは自己本来の幸福であり、その他に幸福などはない。
幸福は異郷のものでもなければ遥かなものでもない。

そのようなときあなたは、喜ばしい思うその自己の内に潜って
ゆけばよい。そうすれば自存する至福に到る。

けれども、考えごとにふけっていると、実際にはあなたの内に
ある至福を、他の事物やできごとと思い違えてしまう。

そのような場合には、無意識にかもしれないがあなたは自己に
潜入しつつあるのだ。

もしあなたが、自分は自己そのものであり、唯一の実在である
幸福と同一のものであるという、経験から来る確信をもって、
意識的に潜入するならば、それを実現と呼ぶ。

あなたが意識的に自己の内へと潜りこむこと、
つまりハートの内に潜りこむことを願う。



次回につづく


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ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
やまんばさんへ
ろくろくさんへ質問
昨日のコメントで 死後の世界はない とかかれていましたが、
同じく昨日の言葉の中に「ある人生でモクシャ(解放)に到る人々は 
その前のいくつかの生ですべてのイニシエーション(通過儀礼)を
通っているにちがいない」ともかかれています。どう解釈したら
いいのでしょうか?


質問にお答えします。

「その前のいくつかの生」は「死後の世界」ではない、
とも取れますし、翻訳の仕方の問題があるかもしれません。

マハリシさんは「再生は、無知があるかぎりにおいて存在する」
と述べておられます。

ということは「無知があるかぎりにおいて」死後の世界もある
ということだと捉えることが出来ます。

自己を実現し、悟りを開いた人にとっては、死後の世界は意味を
なさないのだと考えますがいかがでしょう。

凡夫にとっては、死後の世界があり、覚者にはないということで
あれば、両方とも正しいのだと思います。


自分が自己そのものであり、不生不滅である
と実際に体験し確かめることができれば一番
よいのですけど・・・・・・



もしあなたが、
自分は自己そのものであり、
唯一の実在である幸福と同一のものであるという、
経験から来る確信をもって、
意識的に潜入するならば、
それを実現と呼ぶ。



2008/08/27(Wed) 18:56 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
すでに自己実現している
そうなのです。私たちはすでに自己実現している存在なのです。
そうであることに気がつかず、どこか別のところに幸福の青い鳥を
探してさまよっているのです。

思考や感情の雲がきたら、ただ観ていればいいのですが
日常生活にまぎれてそれができていないことがほとんどです。
それでもよいのです。

一生懸命に生き、その至福の中にあることは素晴らしいですが
ちゃらんぽらんに生き、もだえ苦しむのもまたよいのです。

思考が消え去り、自己そのものの中に静かにあることが出来れば
最高ですが、おのが命のままに、良かったり悪かったりしても
よいのです。


2008/08/27(Wed) 18:49 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
感動!
自己実現・・・実現・・・・もし、あなたが・・・自分は自己そのものであり・・・・唯一の実在である幸福と同一のものであるという・・・経験から来る 確信 を持って意識的に潜入するならば・・・・・・・それを「実現」と呼ぶ。

そのようなときあなたは、喜ばしい思うその自己の内の潜ってゆけばよい。そうすれば自存する至福に至る

私たちは今のありのままですでに自己実現している存在なのですね。そうであることに気がつかず、どこか別のところに幸福のありかを探して彷徨っている^^思考や感情の雲がきたら、ただみているといいのですね。
一生懸命に生きることは、その至福の中にいること。
思考から離れ、自己そのものの中にいることが出来ること!なのですね。思考の林に立ち入らず、ただ生あるかぎり良いも悪いもなく、なぜとも問わず生きること・・
鳥になり花になり、ざわめきそのものにもなる^^^^

ろくろくさんへ質問
昨日のコメントで 死後の世界はない とかかれていましたが、同じく昨日の言葉の中に「ある人生でモクシャに到る人々は その前のいくつかの生ですべてのイニシエーションを通っているにちがいない」ともかかれています。どう解釈したらいいのでしょうか?
2008/08/27(Wed) 10:01 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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