2006年04月08日 (土) | Edit |
五木 寛之 著「他力」講談社文庫より (3)


やさしく往生する道がある、
それはひたすら念仏することだ。
と法然は語りますが、

親鸞はその言葉に帰依しつつ、
さらに一歩、
深いところに歩きだします。

ただ口に念仏を唱えることはやさしが、
赤子のように素直に、
無心に仏に〈帰依する〉ことは、

そう簡単なことではない、
と考えるのです。


無心とは、これまで身についた
さまざまな知識や感覚を捨て去ることです。

赤子のように素直になる、
それはなかなかできることではない。

さらに〈帰依する〉とは、
自分で決心し、努力するのではなく、
むしろおのずと「大きな力」によって、
自然に引き寄せられることなのではあるまいか。

「わがはからいにあらず」
という言葉がそのことを
見事に表現しているように思います。

「南無阿弥陀仏」と、
念仏する。

それは仏の前にぬかずいて、
あなたを信じますと、
誓うことではない。

これまでの自分を捨てようと
がんばることでもない。

そうせずにはいられない、
というところへ人はおのずと
引き寄せられるのだ、と考えるのです。


法然という偉いお坊さんがいるそうだ、
という噂を人から聞く。

それがすでに「みえない力」に
働きかけられたことになる。

噂は耳にしていたが、
なかなか自分で出かけて行って
話を聞く機会がない。

ところが親しい友人か家族のだれかが、
きょう法然さまの話があるそうだ、
一緒にいってみないか、と誘ってくれた。

それも「向こう側から」やってくる
力かもしれない。

そして法然の声を聞き、表情を見、
なぜか理由もなく、
その人の言葉に感動する。

この人についていこう、
と湧きあがってくる衝動を
おさえることができない。

それは自分がそうしようと
努めているわけではなく、
人の言葉に説得されたわけでもない。

そういう機会に出くわしたということが、
「見えない光」に照らされた
ということではないでしょうか。

〈自力〉から〈他力〉への
大きな転回がここに生まれます。

「わがはからいにあらず」という言葉が、
私の頭の奥にいつも響いて消えません。

「なるようにしかならない」
と思い、さらに、

「しかし、おのずと必ずなるようになるのだ」
と心の中でうなずきます。

そうすると、不思議な安心感が
どこからともなく訪れてくるのを感じる。

さっきまで心臓が苦しいほど焦っていたのが、
少しずつ落ちついてくることもある。

ジタバタしながら、
そのジタバタにとことん
打ちのめされることがない。

「わがはからいにあらず」
と、親鸞の静かな声が
聞こえてくるような感じがするのです。


次回につづく


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テーマ:仏教学
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
みみず、バッタ
おいしい時もあれば苦いときも、そして、
難しいときもあるかもしれません。
できるだけわかりやすくするのを心がけています。
どうぞよろしくおねがいします。
2006/04/09(Sun) 14:33 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
わがはからいにあらず
わがはからいにあらずと、
こころの中で唱えると
確かにとても安心します。

ろくさーん、またもや、
ありがとうございます。
2006/04/09(Sun) 09:07 | URL  | こころこ #-[ 編集]
「向こう側」からやってくる。
たくさんあるブログの中から、やまんばは、ろくろくさんのブログに入った。なんとなく気楽で、心が落ち着くのです。これも「見えない光」に照らされたということでしょうか。ニコニコ。これからも、ろくろくさんの紹介される言葉の数々を、小鳥が母鳥の運んでくる餌をまつような気持ちで、待ってます。ある時は、みみず。またある時は、バッタ、おいし時もあれば苦いときもある。感謝。
2006/04/09(Sun) 06:36 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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2006/04/08(Sat) 20:27 |   |  #[ 編集]
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