2008年07月30日 (水) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(39)


アジュニャーニ(無知者)は、スシュプティの内に長くとどまる
ことはできない。彼は自分の性質そのものによって、
そこから出てゆかねばならないからである。

無知のエゴは死なずに、何度も何度も立ち現れてくる。
けれどもジュニャーニは、そのエゴをその源へと打ち砕く。

ジュニャーニにあっても、ときにはプラーラブタ(因縁)に
よるもののように、エゴが現れてくることもある。

ジュニャーニにあってもアジュニャーニと同じく、
すべての外面的な目的のためにプラーラブタが、エゴを保ち、
支えているように見えるかもしれない。

しかしながらそこには根本的な違いがある。


アジュニャーニのエゴが現れるときには(事実それは、深い眠り
にあるときを除いてはけっして静まることはない)、その源に
ついてはまったく無知である。

別の言い方をすれば、アジュニャーニは、夢の中と目覚めている
状態においては、自分のスシュプティに気づかないでいる。

ジュニャーニにあっては反対に、エゴの現れや存在はただ表面的
なものである。彼は、エゴが表面的に現われ存在していても、
自分の注意(ラクシャ)をつねにその源に向けていて、
壊されることのない超越的な経験を楽しんでいる。

このようなエゴには害がない。それは燃えた縄の残骸のような
もので、形は残っているけれども何かを縛る役には立たない。

注意をつねにその源に向けつづけることによって、
塩人形が海に解けるようにエゴはその源へ溶けこむ。

弟子 キリストの十字架のはりつけの意味は何でしょうか?

マハリシ 身体が十字架である。人の子であるイエスはエゴ、
すなわち「自己即身体思考」である。

人の子が十字架にはりつけにされたとき、
エゴは滅び、その後に残されたものが絶対存在である。
それが栄光の自己の復活であり、キリストの復活であり、
神の子の復活である。

弟子 しかし、どうしてはりつけが正当化されましょう?
殺すことは、恐るべき罪ではないでしょうか?

マハリシ すべての人々が自殺の罪を犯している。
永遠の、至福に満ちた、自然状態は、この無知の人生により
窒息されつづけてきた。

現代生活は、永遠の明確な実在を殺害することによって
成り立っている。これが、本来の自殺というものではないかね。
そうであるとすれば、なぜ殺人というようなことを思い煩うのか。

弟子 シュリ・ラーマクリシュナは、ニルヴィカルパ・サマーディ
は二十一日間よりは長くは続けられない、それ以上そこにあれば
その人は死ぬ、と言っています。これは事実でしょうか?

マハリシ プラーラブタ(因縁)が尽き果てたとき、エゴはその背後
に何ひとつ残さずに、完全に消滅する。これが究極の開放(ニルバーナ)
である。

プラーラブタが尽き果てたにもかかわらず、エゴが現れたいときには
現れる人がある。そのような人をジーヴァンムンタク(生きたまま解脱
した人)と言う。



次回につづく


↓↓↓あなたの応援↓↓↓(1日1クリック)お願いします。

にほんブログ村 哲学ブログへ人気blogランキング精神世界 ランキング



スポンサーサイト
テーマ:宗教・信仰
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
雲一つない青空
やまんばさんにつられて「悟ったこころの表現」を以前当ブログ
でもご紹介した玄侑宗久著「禅的生活」(2007/05/19~20)から
抜き出してみました。


「父母未生以前の本来の面目」
『老子』の「道」「太虚」「沖虚」、
「仏心」「仏性」「法性」「本来の面目」「本地の風光」
「無心」「直心」「一円相」「万里一条の鉄」「純一無雑」

「無縫」「無漏路」「万里片雲無し」「廓然無聖」「無事」
「求心歇む処、即ち無事」円満具足の心「無依無住」
「涅槃妙心」「実相無想」

悟った心を人格化した表現もある。

「主人公」「無位の真人」「無依の道人」
「無事是貴人」の「貴人」

『荘子』の神人や真人、至人、真君

「絶学無位の閑道人」

上記の言葉の詳しい説明などは↓をご覧ください。

http://lokulog.blog43.fc2.com/blog-entry-510.html
http://lokulog.blog43.fc2.com/blog-entry-511.html


私の好きなのは「雲一つない青空」
それにしても沢山あるものですね。


2008/07/30(Wed) 20:07 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
やまんばのまちがい
自己とは時間を超越したところにあるのに、どっぷり浸かってる時間の中でわかろうとしていた自分に気がつきました。
しかし、時間を忘れて自己のみでいることがあります。それは何かに夢中になっているときとか、体の感覚、呼吸の感覚、音を聞くとき等なのですね。夢中になって、はっと我にかえったとき、時間がすごく経過していたことは何度か経験しました。竜宮城で、楽しく遊んでいた浦島太郎さんみたいに^^。今を意識する。スローモーションで実況中継をする。などなどの瞑想が思考のないその状態に入る入り口なのですね。

やまんばは自己といわれている状態がどういう言葉に変換されているのか ちょっと調べてみました。
*ブラフマン(宇宙の根本原理、究極の実在、あらゆる存在の真髄)
*純粋な観照者
*無時間の未生
*輝ける空
*真我
*アートマン
*全的自己放棄
*ジュニャーナ(自己の内に永遠に破られることなく自然な状態で在ること)
*自己実現
*不生(永遠の明確な実在)=悟りの境地
*ニルバーナ(究極の開放)
*愛
*不生不滅の存在(不死身)
*大いなる存在
*単独の(独り在ること)
・・・・・・・・・・・・・・
時間のない世界のことを、時間の中で使われている言葉で表現されようとしているから、やまんばは目が回ります^^^^思考のない世界。死も生も輪廻も時間を越えている世界、状態にすぎないのだろうなあ・・

わずかにあの絵を描いているときの夢中な状態だけが確かな頼りです。

今日のブログの言葉の中の

壊されることのない超越的な経験を楽しんでいる
燃えた縄の残骸
塩人形が海にとける

とてもわかりやすくて美しい表現に感心しました。
あっ!今日はすごく時間が経ってしまいました^^^^。




2008/07/30(Wed) 11:27 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック