--年--月--日 (--) | Edit |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2008年07月28日 (月) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(37)


弟子 川は海に流れこんでその特性を失います。そのように、
再びこの世に生まれてこなくてすむように、死は人の個我を
溶かすのではないでしょうか?

マハリシ けれども、海水は蒸発して丘の上に雨となって下り、
再び川となって海に流れ下ってゆく。

同じように、個我は眠っている間は個我としての分離性を失って
いるが、そのサムスカーラ(行ない)つまり過去の傾向性に従って、
眼が覚めれば再び個我として帰ってくる。

死にあっても同じである。サムスカーラとともにある人の個我は、
失われることがない。


弟子 それはどのようにしてでしょうか?

マハリシ 枝を切られた木がどのように再生するかを見るがいい。
根がそこなわれずに残っているかぎり、木は生長しつづけるだろう。

同じように、死のハートの内に沈んでいるだけのサムスカーラは、
滅亡してしまったわけではないので、時が来れば再生してくる。
そのようにしてジーヴァ(個我)が再生してくる。

弟子 無数のジーヴァと、その存在がジーヴァと相関関係にある
広大な世界が、ハートの内に沈んでいる非常に小さなサムスカーラ
から芽生えてくるのは、どのようにしてなのでしょうか?

マハリシ 大きなガジュマルの木が、ひと粒の小さな種子から
芽生えるように、ジーヴァと、名前と形を伴った全世界とは、
微細なサムスカーラから芽生えてくる。

弟子 個我は絶対自己からいかにして放出され、またどのように
してそこに帰ってゆくことが可能なのでしょうか?

マハリシ 火花が火から飛び散るように、個我は絶対自己から放出
される。その火花はエゴと呼ばれる。アジュニャーニ(無知者)の
場合は、エゴはそれが出てくると同時に、対象物と自分自身を同一
視する。エゴは対象物とのこのような関係なしには存在することが
できない。

この関係はアジュニャーニに帰因する。この無知を打ち破ることが、
人の努力の目標となる。この対象物と自身とを同一視する傾向が
打ち破られるならば、エゴは純粋になり、その源に溶けてゆく。

自分自身を身体と同一視する偽りを、「デハートマ・ブッディ(自己
即身体思考)と呼ぶ。良い結果が訪れるためには、この考えは去らね
ばならない。

弟子 それを根絶するためには、私はどうすればいいのでしょうか?

マハリシ あなたは、スシュプティ(深い眠り)にあっては身体と心に
関係を持たずにいるが、夢を見ているときや眼が覚めているときは
それらと関係を結んでいる。

もしあなたが身体と同一のものであるなら、スシュプティにおいて
どうして身体なしにあることができようか。



次回につづく


↓↓↓あなたの応援↓↓↓(1日1クリック)お願いします。

にほんブログ村 哲学ブログへ人気blogランキング精神世界 ランキング



スポンサーサイト
テーマ:宗教・信仰
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
カラスの声、スズメの声
「あそこの鳥の泣き声なのだ! 」を読んだとき、私は、すぐに
盤珪禅師のことが思い出されました。

ケン・ウィルバーは、日本で長年にわたって禅の研究・実践を
やっているといいますから、盤珪禅師の不生禅についても
知らないわけがないと思います。

私は、盤珪禅師の不生禅に出会うことによってはじめて、
「悟りの意味」を少しばかり理解することができたのでしたから、
忘れることはできません。

以下に「不生禅」についてふれてみたいと思います。
ラマナ・マハリシ師と同じことを言っていることが
お分かりになると思います。


◎不生の仏心
盤珪の禅は、「不生禅」(ふしょうぜん)というのが、その特徴である。
すべての人は、生まれつき不生の仏心を持つのだから、不生の仏心でいよ、
とだけ説法をした。

◎仏心は不生
「禅師のいわく、仏心は不生にして霊明なものに極まりました。
不生なる仏心、仏心は不生にして一切事がととのいまするわいの。
したほどに皆な不生でござれ。

不生でござれば、諸仏の得ておるというものでござるわいの。
尊いことではござらぬか。
仏心のたっといことを知りますれば、迷いとうても迷われませぬわいの。
これを決定(けつじょう)すれば、いま不生でおるところで、
死んでのち不滅なものともいいませぬわいの。
生ぜぬもの滅することはござらぬほどに、そうじゃござらぬか。」
『御示聞書』上三、A15)

「仏心は不生にして霊明なものに極まりました。」「不生でござれ。」
これが、盤珪の説法の要点。なんどもなんども繰り返されるキーワード。

◎不生の証拠
「その不生でととのいまする不生の証拠は、皆の衆がこちら向いて、
身どもがこういう事を聞いてござるうちに、うしろにて烏の声雀の声、
それぞれの声を聞こうと、思う念を生ぜずにおるに、
烏の声雀の声が通じわかれて、聞き違わずにきこゆるは、
不生で聞くというものでござるわいの。

かくの如くにみな一切事が、不生でととのいまする。
これが不生の証拠でござるわいの。
その不生にして霊明な仏心に、極まったと決定して、
じきに不生の仏心のままでいる人は、
今日より未来永劫の活如来でござるわいの。」
(『御示聞書』上十九、A33)



カラスの声、スズメの声と意識して聞いていないのに、
カラスの声、スズメの声を聞き間違うことなく聞きわけて
いられるのは<自己>(不生)で聞いているからです。



2008/07/28(Mon) 20:12 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
あそこの鳥の泣き声なのだ!
やまんばはむつかしいことはわからないです^^。

昨日の「世界は幻想である」の言葉の中から、飛び出すように語りかけてくれたのは、
「あそこの鳥の泣き声なのだ」でした。

思考に走りかけたら、音を聞こう!

その音から、決して過去や未来に思考を遊ばせることなく、ただ音の中にいよう・・・
でも、想像したり、過去や未来に思いを馳せるのがおもしろいときは、それはそれで、たのしんで、今は非自己の中にいることを、意識して遊ぼうとおもいました。
一日何かと戯れて、夜には自己の中に抱かれて、深い眠りに入っていこう・・・

川は海に流れ込む
海水は蒸発して丘の上に雨となって下り、
再び川となって海に流れ下っていく

大騒動しているかのように見えるこの世界も
沈黙の大きなうねりの中にただ「在る」のだなあと感じました。

2008/07/28(Mon) 07:17 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。