2008年07月27日 (日) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(36)


弟子 ジュニャーナとバクティにはどんな関係が
あるのでしょうか?

マハリシ 自己の内に永遠に破られることなく、
自然な状態で在ることをジュニャーナと言う。

自己の内に在るためには、
あなたは自己を愛さなくてはならない。

神は自己そのものであるから、
自己の愛は神の愛である。

それがバクティである。
このようにジュニャーナとバクティは一つにして
同じものである。


弟子 一時間かそこらナーマ・ジャパ(称名)を続けていると、
眠っているような状態に陥ります。眼を覚ましてジャパが
途絶えていたことに気づき、またやり始めます。

マハリシ 「眠っているような状態」、それはよい。
それは自然な状態である。あなたは今、エゴと交わっている
ので、自然の状態を何かしら自分の務めを妨げるものと思い
なすのだ。

あなたは、それが自然な状態だとわかるまでその経験を
くりかえし続けるべきである。やがてジャパは外的なもので
あることがわかり、そのまま自動的に続いてゆくだろう。

あなたの現在の疑問は、あなた自身をジャパを行なっている
心と同一視するという偽りのせいで起こっている。

ジャパは、他のすべての想いを排除して一つの想いにすがりつく
方法である。それがジャパの目的である。ジャパはディヤーナへ
導き、ディヤーナは自己実現すなわちジュニャーナで終わる。

弟子 どうすればナーマ・ジャパが続けられるでしょうか?

マハリシ 人は、深い帰依の感覚なしに、ただ機械的に表面的に
神の御名を使ってはならない。

神の御名を使うためには、人は熱望と率直な自己放棄をもって
求めねばならない。その放棄の後にのみ、神の御名がその人と
ともにある。

弟子 それでは、自己探求つまりヴィチャーラの必要性はどこに
あるのでしょうか?

マハリシ 放棄は、本当の放棄が何を意味するかについての全き
知識とともになされるときにのみ、効力を示すことができる。

その知識は自己探求と熟考の末にやってくるものであり、つねに
自己放棄に終わる。ジュニャーナと主への絶対放棄には何の違い
もない。あえて言うならば、それは、言葉と行為である。

完全であるためには、疑いの余地なく放棄が必要である。帰依者
は、主と取引きすることもその御手の愛を要求することもできな
い。

このような全的な放棄は、すべてを包含する。
それがジュニャーナでありヴァイラギャ(沈静)であり、
帰依であり愛である。




次回につづく


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テーマ:宗教・信仰
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
世界は幻想である
20世紀における最高の非二元的賢者、
ラマナ・マハリシはこういいます。

世界は幻想である。
ブラフマンのみがリアルである。
世界はブラフマンである。

(1)世界は幻想である。
それはあなたがどんな対象でもないことを意味する――
見ることができるものは、結局のところリアル(現実)ではない。

あなたはこれでもなく、あれでもない。どんな状況下でも、
あなたは自分の救済を有限の、一時的な、通過的な、錯覚的な、
苦しみを高め、苦悶を引き起こすようなものに基づかせるべきではない。

(2)ブラフマンだけがリアルである。
<自己>だけがリアルである。――
純粋な<観照者>、無時間の<未生>、無形の<見る者>、輝ける<空>――
がリアルであり、それらすべてがリアルである。

それはあなたの状態、あなたの本性、あなたの本質、あなたの現在そして未来、
あなたの欲望そして運命であり、けれどもそれは純粋な<存在>、単独の
<独り在ること>として、いつも常に存在している。

(3)世界はブラフマンである。
<空>と<形>は二つではない。顕現している世界が錯覚であると認識した後に、
そして<ブラフマン>だけがリアルであることを認識した後に、
<絶対者>と万物が二つではなく、非二元であることを見る。

また、<見る者>と見られる者すべてが二つではなく、
<ブラフマン>と世界が二つではないことを見る――
それらが本当に意味することは、あそこの鳥の泣き声なのだ!

<形>の世界全体は、あなた自身の現在の<無形の自覚>の中にある。
あなたは一口で太平洋を飲むことができる。
なぜなら、世界全体は文字通り、あなたの純粋な<自己>、
常に存在する偉大な<私ー性>の中に存在しているからだ。


ケン・ウィルバー「ラマナ・マハリシとの対話」の序文より
2008/07/27(Sun) 22:06 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
自己放棄が愛である
やまんばさんの

「探さなくとも、私たち自身そのものが愛だったのですね。
やまんばはこのことを知るためにこの世に生まれてきたように思います。
肩の荷がおりたような安らぎです」

という今日のコメントとてもステキです。

しかし、今日のマハリシの言葉のなかから、どのようにしたら
「私たち自身そのものが愛だったのですね」
という言葉が紡ぎ出すことができるのでしょう。

ちょっと不思議な気持ちです。


マハリシは言います。
「完全であるためには、疑いの余地なく放棄が必要である。
帰依者は、主と取引きすることもその御手の愛を要求する
こともできない。

このような全的な放棄は、すべてを包含する。
それがジュニャーナでありヴァイラギャ(沈静)であり、
帰依であり愛である。



全的な自己放棄(明け渡し)が、
ジュニャーナ(知識)であり、
ヴァイラギャ(沈静)であり、
帰依(バクティ)であり、
愛である


う~んすごいです。


2008/07/27(Sun) 21:59 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
愛はどこにあるか?
探さなくとも、私たち自身そのものが愛だったのですね。
やまんばはこのことを知るためにこの世に生まれてきたように思います。
肩の荷がおりたような安らぎです。

ろくろくさんにここでお会いしてよかったです。
不思議なご縁をいただき、感謝です。
ありがとうございました。これでいつ死んでもくいはないことでしょう^^^^。
これからは いつでも心の原点に戻り、汲めども尽きないエネルギーをいただきながら、非自己をみつめ、曇りなき老後^^が送れますよう、自己観察しつづけていくことにします。
みえる・・・みえる世界は限りなく広く深いと思います。だって神様は無限ですものね。心の曇りが消えるほどに、クリアな世界が展開されていくことでしょう。退屈しないですみそうです。
ワクワク 
ドキドキ
またまた想像の世界に行きはじめましたね^^^^


       


2008/07/27(Sun) 13:39 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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