2008年07月18日 (金) | Edit |
宇野千代著「天風先生座談」二見書房より (47)


「われ、いずこより来たり、いずこに行かんとす。
何の事情ありて、この現象世界に人間として生まれ来しや。」

あなた方だったらね。これは決して皮肉で言っているのでは
ない。一ヵ月か二ヵ月で考えるかもしれない。

私は半年かかった。何しろ、私のそれまでにやった学問の中には、
そんな難しい問題を考える知識要素がないんです。

だんだん考えていううちに、魂の夜明けが来ます。


ああでもない、こうでもない、とだんだん考えてみて、
どうも人間というものは、万物の霊長と言われるけれども、
その優れたポイントは何か。

ぜいたくをするためにこの世に生れて来たのでもなければ、
俺みたいに患わされるために出て来たんでもない。

何か人間以外には出来ないことを人間にさせようがために、
他の生物には持ち合わせない力を与えられて、その力がある
がために、万物の霊長なんだな、と思った。

だが、うかつに返事をすると、ぶんなぐられますからね、
インドってェところは。

しかしだんだんとわかって来た。人間はこの世の中に、
うまいものを食いに来たんでもなけりゃ、好い着物を着に
来たんでもなけりゃ、恋をしに来たんでもねェんだ。

それは生きる場合の、ロイヤルロードの道筋にある出来事で、
この世に万物の霊長として生まれ来しゆえんのものは、エレベ
ーション(高める)という、造物主の目的に順応するがためだ。

「なァ、お前、人間同士なら、使いを頼んで満足にしてくれ
なかったら、場合によっては免職にもするだろうし、命もとる
だろう。しかし、造物主には慈悲がある。

健康なり、運命なりの上に、お前の生き方は間違っているぞ、
ということを警告するために、病だとか、不運だとかいうもの
が出て来るんだ。

お前がこの世に生かされて、この後、生命の寿命の来るときまで、
本性に立ち返って、エレベーションに順応するという気持の出る
まで、お前に悟らせようという慈悲の心で、お前を病にかけた。
どうだ、お前、幸福だろ。」

そのとき私はね。いま話していても涙が出るくらい、声を出して
泣きましたよ。(天風先生は突然、ここで涙声になる。このときに
限らず、先生はしばしば、感きわまって泣く、というふうがある。)

ああ、そうか。知らなかった。俺はいままで、病にかかったことを、
朝晩、逆恨みに恨んでいた。神も仏もあるものかい、とね。

「病いは病いだ。苦しみは苦しみだ。病いにかかったといってからに、
心まで病ませる必要はなかろう。肉体に病いがあろうと、心まで病ませ
る必要がどこにあるか。



次回につづく


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ジャンル:心と身体
コメント
この記事へのコメント
「万物の霊長として向上すること」
人間はこの世の中に、
うまいものを食いに来たんでもなけりゃ、好い着物を着に
来たんでもなけりゃ、恋をしに来たんでもねェんだ。

それは生きる場合の、ロイヤルロードの道筋にある出来事で、
この世に万物の霊長として生まれ来しゆえんのものは、エレベ
ーション(高める)という、造物主の目的に順応するがためだ。

※エレベーション (elevation) 高める[高まる]こと、向上。


造物主の目的は、生命をひたむきに生かし、進化、
向上させることである。人間はこの働きに参加し、
進化、向上するのが人間の使命である。

病む事不運であることは、造物主の警告である。
病になるのは造物主が私たちにエレベーションに順応する気持ち
の出るまで、私たちを悟らせようとする慈悲の心である。


「万物の霊長として向上すること」とはさとることだと思います。
病気や不運はさとりを開くためのチャンスということですね。

なぜ病気や不運がさとりを開くためのチャンスかというと、
わたしたちは大きな壁にぶつからないと真剣に物事を考えようと
しないからです。

「さとる」とは「大いなる存在」とつながっていると「さとる」こと
であり、そのためには「いま、この瞬間に在る」ことということです。

そして「いまに在る」には、「いま」から抜け出したがる思考を
観察することからはじめること。ということでしたね。



2008/07/18(Fri) 20:27 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
感きわまって泣く^^
天風先生の言葉使いをきいているので、「感きわまって泣く」・・というのは意外でしたし、とても親しみを感じました。(言葉使いで人を判断してはいけない。その人の魂をみつけようと反省しました。)
この世に生まれてきたのは・・・創造主のお使いをしにきたのですね。
やまんばも昨日ずーとかんがえていました。「何のために生まれてきたか?」と。
「命をいただいたから、その命を生きるため」というのが、答えでした。全ての命がいまここにあるということは、気の遠くなる生命の営みの流れの末に「ここにある」そんじょそこらの華奢な存在ではないはず。戦い抜かれて、残ったものたちだけがここにある、すごいなあ・・・そう思った。私がここに在るということは・・とあらためて自分の手足をみる・・おのおのの生命は偉大な存在なんだと、それこそ感きわまったのです。
その命をただ生きるだけではなく、「生命の寿命が来るときまで、本性に立ち返って、エレベーション(高める)という造物主の目的に順応する生き方をする」ということなのですね。
きのうのろくろくさんのコメントの明恵上人の「阿留辺幾夜宇和」につながりますね。

覚醒した魂にならないといけませんねえ~
やまんばみたいに夕方になったら、疲れて転寝していては、らちがあかんですね^^。困った 困ったです。
ここで、この言葉をいただくのも、造物主の慈悲の心からでしょうし、計画の中の出来事ですから・・。頼まれ事をされて、手ぶらでは帰れなくなってしまいましたねえ。。。。
2008/07/18(Fri) 07:33 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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