2008年07月17日 (木) | Edit |
宇野千代著「天風先生座談」二見書房より (46)


「そうじゃないかい。お前が一切のことを頼んだとする。
頼んだとおりに、使いなら使いを頼んでからに、
相手の人がそこに行ってくれなかったら、お前、誉めるかい。

重大な用事を頼んで、その人がよそへ遊びに行っちゃって、
お前の用事をしないで帰って来て、よそで遊んでて行かなかった
と言ったとしたら、

『ああ、いいや、いいや、ついでに気のむいたときに行ってくれ』
って言うかい。大事な用事なら大事な用事ほど、面白くないだろう。


ましてお前が、その人間を自由に処罰できる立場だったとしたら、
その立場上、お前はその人間を免職にするか、場合によっては、
その生命にまで、危害を与えるかもしれないだろう。この世を
造った造物主は、」

神という言葉は言いません。ヨガの哲学に、神なんて言ったら、
それこそインチキですよ。

「造物主はお前という人間を、人間の世界に生みつけたのは、
人間の仕事をさせようがためだ。」

「えッ、」

「人間の仕事をさせようがためだ。」

「人間の仕事って何です。」

「知らないのかい、お前、」

「知りません。」

「知らないのなら言って聞かせよう。お前はこの世に何しに来たか、
知らずに今日まで生きて来たのか。いままで、何のために学問した
んだ。」

「賢くなるためです。」

「賢くなるのは何のためだ。」

「へえ、賢くなるなったら、人より立派な家に住んで、人より立派な
毎日の生活をして、人より幸福な、」

「馬鹿。そういう考え方しているから、お前は賢くなれねェんだ。
人間がこの世に生きた使命というものを知らないんだ。」

「けどね、先生。私は注文して出て来たんじゃありませんよ、この世
の中に。ひょいと気がついたら、人間だった。それもはっきり、俺は
人間の仲間にはいっているんだなァ、ということに気がついたのは、
三つくらいからですよ。」

「お前のような人間が、とにかくこの土地に来てよかったな。来なけ
れば何もわからないで、お前はただ、そのまま、病と組打ちしてから
に、この世を終わるだけだ。考えろ。人間何しにこの世へ生まれて来
たか。」

この問題と取っ組んで半年かかった。朝、夜明けから日の暮れまで、
十八町一里の、三里ある山奥へ行って、滝壺のわきで座禅組みながら、

「われ、いずこより来たり、いずこに行かんとす。何の事情ありて、
この現象世界に人間として生まれ来しや。」




次回につづく


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この記事へのコメント
阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)
いやあ~やまんばさんはじめ多くの方に喜んでいただき読んで頂い
ていると思うと、やりがいがあります。ありがとうございます。

今夜取り上げますのは明恵上人の「あるべきようわ」です。
私の目下読書中の本が、河合隼雄先生の「明恵 夢を生きる」1987年
であります。

「あるべきようわ」は、いままでにも何度か当ブログでもご紹介させて
頂きましたが、河合隼雄先生の説明が私には一番分かりやすかったです。

「明恵 夢を生きる」からの抜粋を下に掲載させていただきました。
自己観察の際の参考になさってください。


……
「阿留辺畿夜宇我(あるべきようわ)」は、明恵にとって、
自分の生き方を律するための簡潔にしてかつ根本的な言葉であった。

ものとこころの連続性を相当に深く体得していたと思われる明恵の
生き方を示す言葉として誠に味わい深い言葉である。 

……
明恵は、「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)」について、
「此の世に有るべきように有ろうとする」ことが大切であると明言している。

これは、当時急激に力を得てきた法然の考えに対するアンチテーゼとして
提出されたものと思われる。従って、この言に続いて、現世のことは
どうであっても後生だけ助かればいいなどと説いている経典はない、
と言い切っているのである。

……
このような例に接すると、日本人としてはすぐに「あるがまま」という言葉に
結びつけたくなるが、わざわざ「あるべき」と、「べし」という語が付されて
いるところに、意味があると感じられる。

……
このような日々の「もの」とのかかわりは、すなわち「こころ」の在り様に
つながるのであり、それらをおろそかにせずになし切ることに、
「あるべきやうわ」の生き方があると思われる。

そこには強い意志の力が必要であり、単純に「あるがままに」というのとは
異なるものがあることを知るべきである。

……
明恵が「あるべきやうに」とせずに「あるべきやうは」としていることは、
「あるべきやうに」生きるというのではなく、時により事により、
その時その場において「あるべきやうは何か」という問いかけを行ない、
その答えを生きようとする、極めて実存的な生き方を提唱しているように、
筆者には思われる。 



私たちの時々刻々の自己観察も、ただ単に現実を「あるがままに」受け入れる
というだけではなく、その場その場の状況に即して「あるべきやうは何か」
という問いかけを行ない、その答えを生きようとする生き方をすべきだと
思われますが、いかがでしょうか?



2008/07/17(Thu) 18:24 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
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