2008年07月01日 (火) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(30)


弟子 沈黙の誓いは有効でしょうか?

マハリシ 内なる沈黙は自己放棄である。
それはエゴの感覚をなくして生きることである。

弟子 サンニャーシン(遊行者)にとって、
孤独は必要なものでしょうか?

マハリシ 孤独は、人の心の内にある。
人が、世間のただなかにありながら完全な平和を
維持することができるなら、その人はつねに孤独
の内にある。

ある人は森に住むが、その心を制御することが
できない。彼は孤独であるとは言えない。


孤独とは心の様態である。その人が何であろうと、
生きてゆくうえでものごとに執着するならば、
孤独は得られない。執着を離れた人はつねに孤独である。

弟子 マウナとは何でしょうか?

マハリシ 話すことと考えることを越えた状態がマウナである。
それは心に活動がない瞑想である。心を征服することが瞑想で
ある。深い瞑想は永遠の会話である。

沈黙は絶えざる会話であり、「言語」の絶えざる流れである。
それはしゃべることにより妨げられる。話し言葉は、この無言
の「言語」を妨げるからである。

講義は、何時間かの間そこにいる人々を楽しませるが、その人
たちを進歩させはしない。沈黙はつかの間のものではなく、
永遠のものであり、全人類に利益をもたらす……、沈黙は雄弁
を意味する。

口による講義は、沈黙によるものほど雄弁ではない。沈黙は休む
ことのない雄弁であり……、最上の言語である。言葉が止み、
沈黙が現れるひとつの状態がある。

弟子 それでは私たちは、どうやってお互いの考えを交わし合える
のでしょうか?

マハリシ 二人でいるという感覚さえ存在すれば、相互理解は必然的
にやってくる。

弟子 なぜバガヴァンは、外へ出かけて行き、声高く人々に真理を述べ
ないのでしょうか?

マハリシ 私がそうしていないと、どうしてあなたは知っているのかね。
ずっと演壇に登りつづけ、まわりの人々に熱弁をふるって説いている
ではないか。

法を説くとことは、知識をただ伝えるということであり、それは本当は
沈黙によってのみなされうるものである。一時間ばかり説教を聞き、
生き方を変えるほどの印象を受けることなく去ってゆく人を、あなたは
どう思うかね。

それに比べると、聖なる現前の座に加わり、しばらくしてその座を立ち
去る人の表情は、すっかり変わってしまっているのを見ないかね。何の
効果もなく大声でしゃべるのと、内なる力を送りながら静かに坐って
いるのと、どちらがいいか。

言葉がどうやって起こってくるか考えてみよう。抽象的な知識がある。
だが、そこからエゴが生じる。そのエゴはつづいて想いを生じさせ、
想いは語られる言葉になる。

言葉はだから、原初の源のひ孫にあたる。そのような言葉が、ある効果
を生み出しうるならば、考えてもみよ、沈黙をとおして語ることは
何層倍も強力なものではなかろうか!

けれども人々は、この単純な裸の真理、彼らの日々の真理、つねにそこ
にあり永遠の経験であるものを理解しない。この真理とは、自己の真理
のことである。

自己を知らない人がどこにいよう。それなのに人々は、この真理を耳に
することさえ好まない。彼らは、彼方にあるものや天国、地獄や再生に
ついては熱心に知りたがる。

彼らは不思議を愛しており真理を愛してはいないので、宗教は、結局は
彼らを自己の周辺につれてゆく程度のものしか提供することができない。
どのような方法を採るにせよ、あなたは結局は自己に帰ってゆかねば
ならない。

そうであるなら、なぜここで今、自己の内に住まないのか。もうひとつ
の世界の見物人であるためにも、それを推測するためにも、自己は必要
である。それらは自己と別のものではない。たとえ無知な人でも対象物
を見るときは、ただ自己をみているのである。




次回につづく


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テーマ:宗教・信仰
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
自己を知らない人がどこにいよう
やまんばさんもCommentでふれておられますが
今日のラマナ・マハリシのお話はとても重要な点を
述べておられます。そこのところをもう一度書き出
してみましょう。


「自己を知らない人がどこにいよう。それなのに人々は、この真理を耳に
することさえ好まない。彼らは、彼方にあるものや天国、地獄や再生に
ついては熱心に知りたがる。

彼らは不思議を愛しており真理を愛してはいないので、宗教は、結局は
彼らを自己の周辺につれてゆく程度のものしか提供することができない。
どのような方法を採るにせよ、あなたは結局は自己に帰ってゆかねば
ならない。

そうであるなら、なぜここで今、自己の内に住まないのか。もうひとつ
の世界の見物人であるためにも、それを推測するためにも、自己は必要
である。それらは自己と別のものではない。たとえ無知な人でも対象物
を見るときは、ただ自己をみているのである。」


「大いなる存在が、自分とともにある」という真理に誰も興味を持って
いない。彼らは不思議を愛しており真理を愛してはいないのです。

なぜここで今、自己の内に住まないのだろうか。
「いま、この瞬間に在る」ことが「大いなる存在」につながることであり
「自己の内に住む」ということなのに。


やまんばさんが
「対象物を見るということは自分を見ていることなんだ 」
と言っておられますが、

例えば対象物のりんごを見ることは、それを見ている自分(エゴ)あるから
であり、その自分(エゴ)を観察している自己(大いなる存在)があるから
絵を描くことができるのだと思うのです。

対象物のりんごに対するこだわり、執着(エゴ)を描き切るとき、
「大いなる存在」につながるえもいわれぬ開放感、を感じることが出来る、
のではないでしょうか。だから絵描きはやめられない。



2008/07/01(Tue) 20:32 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
自己の内に住む
執着から、離れること。
自分が何に執着して生きているのか・・・みること

絵を描くとき・・対象を見る・・そのころから、対象物を見るということは自分を見ていることなんだと気がつきました。

とにかく内側をみていきます。

昨日のろくろくさんのコメントで、次の箇所に納得しました。
「感情の嵐の時は・・無意識状態・・コントロールできない・・それを意識し気づくことができたら、コントロールできるようになる」
なるほど~~~。

2008/07/01(Tue) 08:23 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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