2008年06月28日 (土) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(27)


ひとりの旅人が、二頭立て牛車の中で眠ってしまった。
牛たちは旅の間じゅう動き、立ち止まり、
ときにはくびきをはずされたりもする。

旅人はそれらのことは知らぬまま、
眼が覚めると別の場所にいる自分を見いだす。

ありがたいことに彼は、道中のできごとには無知であったが、
それでも旅は終わったのである。自己と人との関係も同じで
ある。

つねに目覚めたものである自己とは、牛車の中で眠っていた
旅人のことである。


起きている状態とは、牛たちの動きである。サマーディとは、
牛たちが止まった状態を言う(なぜなら、サマーディとはジャグラット
・スシュプティ、つまり眼が覚めていながらその活動に関係を持たない
状態だからである。二頭の牛はお互いにくびきでつながれてはいるが、
動いてはいない)。

人が眠った状態とは、牛たちのくびきが解かれた状態である。そこでは、
牛たちのくびきからの解放に照応する、活動の完全な停止がある。

次に映画の例をあげてみよう。映画の上映にあたっては、光景は
スクリーン上に投影される。動いてゆく光景は、スクリーン自体に
影響することも変化を与えることもない。

見物人は、その光景に注目するが、スクリーンには何の注意も払わない。
光景はスクリーンなしには存在できないのに、スクリーンは無視されて
いる。

自己とはそのスクリーンである。そこでは、光景や活動などが進行する
のが見られる。人は、光景や活動などには気がつくが、基本である自己
には気づかない。

まったく同じことで、この世の光景は自己を離れてはありえない。
人がスクリーンに気づこうと気づくまいと、それには関係なく
活動は続くだろう。

弟子 けれども映画にはオペレーターがいます。

マハリシ 映画の上映は、感覚のない物質から成り立っている。
電燈、フィルム、スクリーンなどはすべて感覚のないものだから、
オペレーターつまり感覚のある代理人を必要とする。

けれども自己は、絶対の意識であり、それゆえに自己包摂されている。
自己いがいのオペレーターはありえない。

弟子 私は身体とオペレーターを混同しているのではありません。
そうではなくて、バガヴァッド・ギーターの第十八章、六十一節の
クリシュナの言葉について言っているのです。

「おおアルジュナよ、主はすべての存在物のハートの内に住み給い、
人の目を欺くその力によって、あたかも舞台の上で躍らせるように、
すべての存在物を回転せしめる。」



次回につづく


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ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
小さな黒い塊
「黒い塊はエゴが作り出した幻」でしょうね。

ただあるがままに受け入れていれば、いずれ
「大いなる存在」に溶け入ってしまうでしょう。


「恐れという名の感情がきたら、何も考えずに、
丁寧にきれいな紙に包んで、生ごみに出してあげよう。
お世話になりましたと言葉をそえて・・・。」


恐れを、生ごみに出すのも一つの方法ですね。
特にいまの自分では対応できそうもないと感じられる時は
この方法が有効だと思います。

恐怖をただ観察することができればもっとよいです。
なにが恐怖をもたらしているかをしっかり観察することが
できたら、すばらしいです。

恐怖をもたらすのはほとんどの場合、自分の思考です。
思考を「ほんとうの自分」だとみなしていると、
エゴの恐怖が人生のさまざまな面にすがたを現します。

思考はいつも「いま」から逃げようとしています。
思考(エゴ)にとっては、過去と未来がすべてで
「いま、この瞬間」という時は存在しないに等しいからです。

思考(エゴ)が一見、現在に注目しているように見えても、
実際は過去というメガネを通して歪曲して現在をながめさせたり、
未来を悲観的に見て、不安や心配を現在に運んだりしています。

思考を客観的にながめ「いま、この瞬間に在る」ことを続けている
とエゴの恐怖がどんどん小さくなってやがて消えてしまいます。

しっかりと意識を持って、「いま」に在りましょう。
自分の内面をかたときも逃さず見張るのです。


2008/06/28(Sat) 22:05 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
人のいうことに心から耳を傾けること
私は素直な性格と思い込んでいました。

じーと心を見ていると、小さな黒い塊が見えた。
それはこの世の法則の届かないやまんばだけの治外法権のようなところのようだ。
この世で役目を務め、疲れたりすると、その塊にはいり、休む。絵を描くのもその中。
そこの壁は厚く、人の声も届かない。

自己とはそんな塊など存在しえない
全体と溶け合っている 境界などない世界

やまんばは何かを恐れているのだろうか????
もっと もっと 心を見ていこう

塊は私というエゴが作り出した幻覚の世界と教えてくださっている
それは正しい声
信頼に値する声

心から耳を傾けること。

恐れという名の感情がきたら、何も考えずに、丁寧にきれいな紙に包んで、生ごみに出してあげよう。お世話になりましたと言葉をそえて・・・。

2008/06/28(Sat) 11:44 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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