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2008年06月23日 (月) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(22)


9 聖者は聖典(シュルティ)から何を学ぶのでしょうか?

それらの聖典に述べられている真理の具現者である聖者には、
それらは何の役にも立たない。


10 超自然力(シッディ)を得ることと、解脱(ムクティ)を
得ることとは何か関係があるのでしょうか?

光明に満ちた問いかけの道だけが解脱に導く。超自然力は
すべて、マーヤーの力(マーヤーシャクティ)によって
作り出される見せかけの幻である。

永遠のものである自己実現だけが真実の成就(シッディ)である。


マーヤーの影響のもとに、現れたり消えたりする成就は、
真実ではありえない。それは名声や歓楽などを楽しむための
成就である。ある人々には、それはカルマをとおして求めず
ともやってくる。

ブラフマンとの結合が、すべての成就の最終目的であると知り
なさい。これが結合(サーユジャ)として知られている解脱
(アイキャ・ムクティ)の状態である。


11 それが解放(モクシャ)本性だとすれば、いくつかの聖典が
解放と身体に関して、個我はその身体を離れぬときにだけ解放に
到ることができる、といっているのはなぜでしょうか?

解放とその体験の本性について考察されねばならないのは、
束縛が実在している場合だけである。自己(プルジャ)に関する
かぎり、その四つの状態のいずれにも束縛はまったくない。

束縛というのは、ヴェーダーンタ大系の強調された断言にもと
づいた、言葉の上の仮定にすぎない。束縛が存在しないのに、
どうして束縛の問いに依存した解放の問いがありえよう。

この真理を知らずに束縛と解放の本性を尋ねることは、石女の
息子の背の高さや容姿、野ウサギの角を尋ねるようなものであ
る。


12 もしそうなら、聖典の中に述べられている束縛と解放に
ついての記述は、的はずれであり虚偽であるということになら
ないでしょうか?

いや、そうではない。そうではなくて、記憶の果ての先から積み
重ねられてきた、無知によって作りあげられた束縛という惑わし
は、ただ知識によってのみぬぐい去られるということであり、

その目的のためにつねに「解脱(ムクティ)」という言葉が受容
されてきたのである。それがすべてである。

解脱の特性について、聖典によっていろいろ違った言葉で述べら
れているという事実が、それが想像上のものにすぎないことを
証明している。



次回につづく


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