2008年05月31日 (土) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(19)


6 身体およびそれに生命を与える自我は、どこででも現実に
無数に見ることができます。それなのにどうして自己が唯一者
と言えるのでしょうか?

「私は身体である」という考えが受容されるならば、自己は多様
である。この考えがやがて消えてしまった状態が自己であり、
その状態にあっては他の対象物は存在しない。自己が唯一者と
見なされるのはこのためである。


7 ブラフマンは心によってとらえられるが、それと同時に、
心によってはとらえることができないと言われています。
その根拠は何でしょうか?


ブラフマンは、不純な心によってはとらえることができないが、
純粋な心によってとらえることができる。


8 純粋な心とは何でしょうか? 不純な心とは何でしょうか?

定義することのできないブラフマンの力が、自身をブラフマンから
分離し、チダーバーサすなわち意識の反映と結合してさまざまな
形をとるとき、それは不純な心と呼ばれる。

それが識別をとおして意識の反映から解放された(アーバーサ)とき、
純粋な心と呼ばれる。純粋な心がブラフマンと結合した状態を、
心がブラフマンをとらえたと言う。

意識の反映とともにあるエネルギーは不純な心と呼ばれ、
ブラフマンから分離したその心の状態は、ブラフマンを
とらえることができない。


9 この身体の終わりまで続くと言われているカルマ(プラーラブタ)
を、身体があるままに克服することができるでしょうか?

できる。カルマがそれに依存している行為者は、エゴと呼ばれ、
身体と自己との間に立ち現れる。そのエゴがその源に溶けて姿を
消してしまえば、それに依存しているカルマだけが生きのびること
はありえない。それゆえ「私」のないところにはカルマもない。


10 自己は存在であり意識であるにもかかわらず、それを存在
とも非存在とも異なるものと述べ、感覚あるものとも無感覚のもの
とも異なっていると述べるのは、どういうわけなのでしょうか?

自己は実在でありながらすべてを包含するものなので、その実在
および非在の二元性を含む質問を受入れる余地がない。それゆえに
実在とも非在とも異なるものと言われている。

同様に、それは意識ではあるけれども、それ自身は知るべきものは
何もなく、知らしめる何ものもないので、感覚するものとも
しないものとも異なっていると言われている。



次回につづく


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ジャンル:学問・文化・芸術
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鳥獣からも慕われる最もインド的な師(グル)
私たちが一般的に使うところの知性を通して、ラマナ・マハリシの言葉やその奥
に秘められた深遠な次元を真に理解することが出来ないだろう。「沈黙」を通し
て初めて真の「知」は産まれ、それは決して思弁的な知性をまとうことはない。

インドに限らずインディアン(先住民)、キリスト教の偉大な人々はこの「沈黙」
から自らの存在の礎石を築いてきた。ラマナ・マハリシにとってそれは「“私は在る”
という感覚だけがあり、想いはない。“私は在る”という経験は、静かであること」
なのである。

この余りにも騒々しい現代文明に慣れてしまった私たちが遥か彼方に忘れて
しまったもの。それは一体なんだろう。
鳥獣からも慕われ、アシジの聖フランシスコに比されるラマナ・マハリシは、
しかし最もインド的な師(グル)であった。

17歳にして死との葛藤を超克、精神の至高の座に再生した彼は、
南インドのティルヴァンナマライにあって、数年間の沈黙ののち、
平易な言葉で深い真理を語り始めた。

没後30余年、彼が瞑坐したアルナチャラの赤い山からは、
今なお一筋の白い光がわれわれを射る --- 「私は誰か」。 (本書帯文より)


シュリ・ラマナはインドの大地の真の息子である。彼は誠実でありながら、
どこかまったく常ならぬものを持っている。インドにあって彼は、
白い空間の内なる最も白い一点である。われわれがシュリ・ラマナの生涯と
教えの内に発見するものは、最も純粋なインドである。

インドの解き放たれた世界および人間開放の呼吸は、ひとつの千年至福の聖歌である。
そのメロディは、ただひとつの大いなるモティーフに添って奏でられており、
千もの彩りの反射を伴って、インド精神の内につねにそれ自らを若返らせてきたのだが、
その最後の化身が、シュリ・ラマナ・マハリシその人である。

自己と神を同一視することは、ヨーロッパ人にとっては、ひとつのショックとして響くであろう。
このことは、シュリ・ラマナの言葉の内に示されているように、
特別にオリエンタルな「自己実現」であると言える。

心理学は、このような自己実現の問題を提示する分野からは遥か隔たっているという
見地の他には、何ひとつこの問題に貢献することはできない。
しかしながらインド人にとっては、精神の源としての自己は、
神と異なるものではないということは明瞭であり、人が彼の自己の内に在るかぎりは、
彼は単に神の内に含まれて在るだけでなく、神御自身でもあるということが明瞭である。
シュリ・ラマナは完全に、明らかにこの見地にある。(中略)

それゆえに東洋の智慧と神秘主義は、彼らが自身の固有の言葉で語るならば、
われわれ西洋の人間に伝えるべき非常に多くのことを持っている。それらはわれわれに、
われわれもかつては自身の文化において同様のものを持っていたが、
すでに忘れ去ってしまっていることを思い出させてくれるし、われわれが重要ではないもの
として払いのけてしまったもの、すなわち、われわれの内なる人間の運命として
払いのけてしまったものへと、われわれの注意を引き戻してくれる。

シュリ・ラマナの生涯と教えは、インド人にとって大切なものであると同時に、
西洋人にとっても大切なものである。これは、人間の最大の関心事についての記録
であるばかりでなく、無意識の混沌と自己制御の欠如の中で自分自身を喪失する恐れ
のある人間性にとって、ひとつの警告のメッセージでもある。(ユング)



http://www.aritearu.com/Influence/Francis/Saint/Saint.htm#3


2008/05/31(Sat) 18:42 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
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