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2008年05月26日 (月) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(14)


13 純粋な知識である自己と、関係的な知識である三要素
(知る者、知られるもの、知識)との間に、どのようにして関係が
できるのでしょうか?

それはいわば、次に示す映画の仕組みのようなものである。

フイルムがレンズをとおしてその陰を投げかける間は、
スクリーン上に像が映されるのと同じく、

潜在的な心の印象があるかぎりは、
夢を見ている人や眼が覚めている状態の人には
現象世界が現れつづけるだろう。


レンズがフイルム上の小さな点を巨大な像に拡大し、
一瞬の内に数知れぬ像を映し出すように、心は、
新芽のような小さな傾向性を大木のような想いへと拡大し、
一瞬の内に数知れぬ世界の姿を見せる。

さらにまた、フィルムがなければそこには電燈の光があるだけなのと
同じく、潜在的な傾向性からなる心の諸概念がない深い眠りや気絶
した状態やサマーディにあっては、三つの要素(知る者、知られるもの、
知識)はなくてただの自己のみが輝く。

電燈がレンズその他を照らし映し出しながら、自らは何の影響も
そこから受けないように、自己はエゴ(チダーバーサ)その他を映し出し
つつ自からはそこから何の影響も受けない。


14 ディヤーナ(瞑想)とは何でしょうか?

瞑想とは、自分の本性からけっしてそれず、
自分が瞑想しているという感覚もなく、
自己として在ることである。

この状態にあっては、人は、(眼が覚めているのか眠っているのかという)
意識区別をまったくなくしているので、眠っていてもディヤーナにある
と見なされる。


15 ディヤーナとサマーディの違いは何でしょうか?

ディヤーナは、慎重な精神的な努力を通して得られるが、
サマーディにおいてはそのような努力は必要ない。


16 ディヤーナにおいて心せねばならぬことは何でしょうか?

自己(アートマ・ニシュタ)の内に確立された人にとって大切なことは、
その没我状態からけっして動いてはならないということである。

その真実の状態からそれると、彼は眼の前に光り輝くものを見たり、
常ならぬ物音を聞いたり、彼の内部や外部に現れる神々のヴィジョン
を事実と見なしたりするようになる。

彼はそのようなものに欺かれてはならず、
彼自身を忘れてはならない。

ノート――
① 自己以外の対象物について想い煩い、無駄に過ごされる多くの
時間が、自己を尋ねることに費やされるなら、自己実現は非常に
短い時間のうちに達せられるだろう。

② 心が、その源に確立されるようになるまでは、
ある種のパーバァナー(深い情感と宗教的な感情をこめて人格神や
女神を黙想すること)が必要である。そうしないと心は、邪な想いや
眠気に襲われるだろう。

③ 「私はシヴァである」とか「私はブラフマンである」と黙想する
パーバァナーは、ニルグノーパーサナ(属性なきブラフマンの黙想)と
呼ばれるものであるが、すべての時をこの実修にのみ費やしてはなら
ない。このようなウパーサナ(黙想)の結果として精神の力が獲得され
たら、すかさず自己自身尋ねる道が実修されなくてはならない。

④ この実修(サーナダ)の優れている点は、ただひとつの精神的概念
(ヴィリッティ)も残さずに、消滅させることである。



次回につづく


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テーマ:宗教・信仰
ジャンル:学問・文化・芸術
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本当の幸せになること
ろくろくブログでは、これまでにアルボムッレ・スマナサーラさんや
ティク・ナット・ハンさんの書物を通して「ヴィパッサナー瞑想法」
を学んできました。

ヴィパッサナーとは「よく観る」「物事をあるがままに見る」という意味で、
日常生活の中での自己観察を通して心のわだかまりを解きほぐす、実際的な
方法です。ブッダの悟りはこのヴィパッサナー瞑想によって開かれたといわ
れています。

さてこの「悟り」とはなんでしょうか?
「本当の幸せになること」と言えばよいでしょうか。

ラマナ・マハリシは幸福を手に入れるには、
「自己(セルフ)を覚知しなければいけない」と言いました。
何故なら、我々が住んでいる現象世界の源が自己(セルフ)だからです。

この現象世界の事をあれこれ知るのではなく、そういう現象を現わした、
現象の源である「自己」を覚知しなければいけないと言っています。

どうしてかと言うと、幸福というのは「自己」にほかならないからです。
セルフ以外のものは幸福ではないので「自己」を求めなければ幸福には
なれないという理由です。

ラマナ・マハリシは「自己」を知るためには、
「私は誰か? Who am I?」と問いつづけることが
最も重要な方法であるといいました。

「私はこの体だろうか?」と問われたらあなたはどう答えますか?

世の中のほとんどの人は「この体が私なのだ」と思って生きてますよね。
でも「私は体です」という表現は絶対にしません。

「私の頭」「私の顔」「私の足」「私の手」そして「私の体」、
「私の○○」であれば、「私」は「○○」や「体」とは別なところにある、
ということになりませんか?

次に「私はこの思考だろうか?」と問いかけます。
一般の人はだれでもが「私=この思考である」と思っています。
しかしこれもどうやら違うのです。

ヴィパッサナーなどの瞑想を少しでもやったことのある人ならば
自分の思考がまるで雲が流れているように感じたことがおありだと
思います。

さてこの「私の思考を観察している人」はいったい誰なのでしょうか?


2008/05/26(Mon) 21:40 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
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