2008年05月24日 (土) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(12)


6 自己はみずから全的に輝いているのに、すべての人々が世俗の
対象物を見るように、明らかに見ることできないのはなぜでしょうか?

それがなんであれ、一定の対象物が認知されるならば、
それらの対象物の内に形をとったそれ自身を認知するのは自己である。

というのは、知識あるいは自覚の名でよばれているものは、
自己の能力(アートマ・シャクティ)にすぎないからである。

自己が唯一の知覚しうる対象物である。
自己以外には何もない。


もし自己以外の何ものかがあるとすれば、
それらはすべて知覚能力がなく、
それら自身を知ることもお互い同志を知り合うことも
できないはずである。

人々が個我という姿で生(と死)の大海にあってもがき苦しんでいる
かのごとくに見えるのは、人々はこのような様態にあるその真の本性を
知らないからである。


7 主はすべての内に偏在しているのもかかわらず、「恵みによって
与えられる」と称えられている道をとおして、つまり、彼の恵みを
とおしてのみ知られることができます。主の恵みが与えられてない場合
には、どうすれば自分の力によって自己実現することができましょうか?

主は自己を意味し、恵みは主の存在あるいは顕現を意味しているので、
主が知られないままに過ぎることはけっしてない。

フクロウに太陽の光が見えないとしても、
それはフクロウの欠点であって太陽のせいではない。

同じように、つねに目覚めてある本性の自己に無知で、
眠りつづけている人がいるとしても、
それはその人自身の欠点に他ならない。
どうして自己の欠陥でありえよう。

恵みとは、「祝福された恵み」という言葉であまねく知られているように、
彼、主の本性そのものだからである。それゆえに、その本性そのものが
恵みである主は、恵みを与えねばならぬということはないし、
恵みを与える特別の時があるわけでもない。


8 自己は身体のどの部分に宿っているのでしょうか?

一般的には、胸の右側にあるハートの位置とされている。
というのは私たちがふつう自分自身について話すときには、
胸の右側を指すからである。

ある人はサハスラーラ(頭の千弁の蓮華座)がその住処だという。
しかしそれが事実だとすれば、私たちが眠るときや気絶するときに、
頭をがくりと垂れるはずはない。



次回につづく


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