2008年05月23日 (金) | Edit |
ラマナ・マハリシ著 山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より(11)


⑤ジュニャーナ――ディヤーナあるいは問いかけの道(ヴィチャーラ)
の実践を絶えず続けることにより、心が自己の姿に帰し、その働きが
なくなってしまうことである。

心が絶えてしまうとは、あらゆる努力がいらなくなった状態を言う。
この状態に確立された人たちは、けっしてこの真実の状態から逃れ
ようとはしない。

「沈黙」(マウナ)という言葉と無行動という言葉は、
この状態に関してのみ使われる言葉である。


ノート――
① すべての実習方法は、ただ心を集中させる目的で実践される。
思い出したり忘れたり、愛したり憎んだり、魅惑したり見捨てたり等
のすべての心の活動は、心の様々な状態であって人の本来の状態では
ない。

単純で不変な状態が人の本来の状態である。
それゆえに、人の在り方の真理を知り、
そのように在ることが束縛からの解放であり、
結び目を解くということである(グランティ・ナーシャム)。

心がこのような寂滅状態にしっかり確立されるまでは、
実修者たるものは自己の内に在りつづける修業をし、
さまざまな想いに心を汚さぬように努めなければならない。

② 心の力を克服する実践法はたくさんあるけれども、
そのすべては同じ終わりに至る。人が何かの目的に心を集中すれば、
やがて心の乱れは停まり、結局その目的だけが残される、という例は
よく見られることである。

これはうまくいった瞑想(ディヤーナ・シッディ)と呼ばれている。
問いかけの道を行く人たちは、その探究の終わりに残された心が
ブラフマンであることを悟る。

瞑想による実践をする人たちは、瞑想の終わりに残されたものは
瞑想の対象物であることを悟る。いずれの場合も結果は同じだから、
発願者たるものは、終着点に着くまでどちらの方法にせよ絶える
こと実修する義務がある。


4 「静かな」状態とは、努力が必要な状態なのでしょうか、
必要のない状態なのでしょうか?

それは、怠惰な無努力の状態ではない。ふつう、努力と呼ばれて
いるこの世のすべての活動は、心の一部の助けを得て行われ、
しばしば中断される。

自己に関係する行為(アートマ・ヴィヤヴァハーラ)、あるいは内面
において静寂を保つという行為は、心のすべてをもって行われる
激しい活動であり、中断されることはない。

他のどのような方法によっても打ち壊すことのできないマーヤー(幻惑
あるいは無知)は、「沈黙」(マウナ)と呼ばれている激しい活動に
よって完璧に打ち壊される。


5 マーヤー(幻惑)の本性は何でしょうか?

マーヤーとは、つねにどこにでも存在し、すべてに沁みわたっており、
それ自身で輝いている自己、実在を、あたかも存在しないものの
ごとくに思いこませるものである。

マーヤーとはまた、存在するものは個体(ジーバァ)であり世界
(ジャガト)であり、したがって神(パラ)はこれまでいつでもどこでも
存在してこなかったと証明するものである。




次回につづく


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