2008年05月10日 (土) | Edit |
河合隼雄著「老いのみち」読売新聞社より (78)


禅の老師といえばだれしも男性を
イメージすることだろう。

どうして女がなってはいけないのか
という人もあるし、いつか紹介した
禅の「十牛図」にしても、

どうして男性の老人と子どもなのか、
女性ではいけないのは、と言った人
もある。

ところが、女性の老師は立派に存在
している。


それも鎌倉時代の名僧、無学祖元(仏光国師)の
高弟として師の名から一字を与えられ後継者と
認められた、無外如大がその人である。

彼女は七十歳をこえる長寿を保ち、文字どおり
の老師として臨済宗の発展に寄与したのである。

私がこんなことを知ったのは、アメリカ人の女性
日本学研究者、バーバラ・ルーシュさんの
『もう一つの中世像』(思文閣)によってである。

バーバラさんは女性であること、外国人であること
の特性をうまく生かして、日本の学者がこれまでの
伝統に縛られて見落としがちなところに目を向け、

素晴らしい本を書かれたが、
無外如大に対する注目もそのひとつである。

これほどの人物であるにもかかわらず、
これまで研究されることが少なかったのは、
女性であるが故に無視されてきたのではないかと
ルーシュさんは慨嘆しておられるが、

「老い」の問題を考える上においても、「女の目」
「外国からの目」出見ることによって、また新しい
展望がひらけるのではないかと思われる。



次回につづく


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テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
水の出現
やまんばさんのコメントにお答えします。

安部公房さんの「砂の女」の紹介の最後のところの、
「水の出現で砂の穴の生活から自由を発見」
とかかれてありましたが、水とは何を例えているの
だろうか?

水とは「愛」を表現しているのではないでしょうか?


魚の骨がやまんばさんの喉に引っかかったように、
すんなり通過しなかった点は

「砂の穴の生活から自由を発見することができないでいる」
つまりまだ「水が出現」していないということになるのかも
しれません。



2008/05/11(Sun) 06:15 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
無外如大
私も女性の老師の無外如大という人は
存じませんでした。こういう人を見つけ
出すのがアメリカ人の女性だというのは
いかにも、ウーマンリブの国という感じ
ですね。

書のことは門外漢で分かりませんが
無外如大の書はしっかりした筆遣い
の様に感じます。


あま むがいにょだいかなふみ
尼・無外如大かな文
http://www.miho.or.jp/booth/html/imgbig/00001030.htm
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00001980.htm



2008/05/10(Sat) 21:10 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
無外如大
初めて名前を知りました。
幸せな一生を送った方なのでしょうね。昔にして、そのような学びをすることが出来たのは、なかなかおられなかったことでしょうし、生い立ちや、無学祖元という方との出会いなど、ドラマが浮かぶようで、興味深いです。

昨日のろくろくさんのコメントのなかの言葉の
「そもそも家に一日中居ることが耐えられない」
というところが魚の骨が喉に引っかかったように、すんなり通過しませんでした。
また安部公房さんの砂の器の紹介の最後のところの、「水の出現で砂の穴の生活から自由を発見」とかかれてありましたが、水とは何を例えているのだろうか?いかなる環境においても自らの中の意識の持ち方で自由を得るという境地のことなのでしょうか?
2008/05/10(Sat) 07:55 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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