2008年03月25日 (火) | Edit |
ティク・ナット・ハン著「微笑を生きる」春秋社より (52)


自然は私たちの母親です。
この母なる自然から切り離されるから、
私たちは病むのです。

いまや多くの人々が、
マンションという箱のなかで、
地上からはるかに高いところで
生活しています。

周囲をセメントや金属、
その他の堅い材料に囲まれ、
土に触れる場所などありません。

もうレタスを植えて育てることも
しません。

私たちが病気に苦しむのは、
このように母なる大地から離れて
暮らしているからです。


だから、ときどき自分のほうから出かけていって、
自然に触れてみるのは大切なことです。
これはとても大切なことです。

大人も子どももみんな母なる大地との触れあいを
取り戻さなければなりません。

都会では木がずいぶんと減ってきました。
緑が私たちの視界からすがたを消しています。

あるとき私は、たった一本の木しか残ってない街を
想像してみました。その木はまだ美しかったけれど、
街のまんなかで、建物ばかりに囲まれて、とても
寂しそうに見えました。

その街の人はつぎつぎに病気になってゆきましたが、
医者にはその人たちを治すすべがわかりませんでした。

そのなかで、あるひとりのお医者さんだけは、人々の
病気の原因がわかっていました。そこでこのお医者さんは、
次のような処方箋をだしました。

「毎日バスに乗って、街のまんなかまで行って、
そこにある木を見てください。木のところへ行くまでの
あいだ、息を吸って、吐いて、と呼吸の練習をします。

そして木のところへ着いたら、木を抱き締めて、
十五分また息を吸って、吐いて、と呼吸の練習をします。
そうしながら、その美しくみずみずしい木を見つめ、

樹皮のかぐわしい匂いを嗅ぎます。これを毎日行えば、
数週間のうちに、あなたはずっと気分がよくなりますよ」。

……
いますぐ気づきの生活をはじめれば、自分も、子どもも、
母なる大地も救われます。たとえば、生ごみを深く見つめて
ゆけば、そこにレタスやキュウリ、トマト、花などが見える
はずです。

バナナの皮をごみのなかに投げ捨てた時には、自分が投げ
捨てたのはバナナの皮なのだ、と気づき、それがすぐに花や
野菜に変ってゆくのだと考えてみてください。
これこそが瞑想の正しい練習なのです。

ごみのなかにビニールの袋を投げこむとき、
それはさきほどのバナナの皮とはちがうことに、
すぐ気づくはずです。このビニールの袋が花になるには
たいへん長い時間がかかります。

「ビニール袋をごみのなかに投げこみながら、
私はビニール袋を投げ捨てたと気づく」。

この気づきによってしか、私たちが大地を救い、平和な世界
を築き、いまこのとき、そして、未来のいのちを大切にする
ことを可能にするものはありません。

これに気づけば、自然に自然にビニール袋をつかう回数は
減ってくるはずです。これが平和の行動であり、平和的行動
の基本です。



次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
「サボテンは喋る」
さすがにパリの近郊の樹だけに「ボンジュ-ル」と
フランス語で喋るんですね。

むかし「サボテンは喋る」という本をTVが紹介していました。
その時、テスターみたいな小型の計器を使ってサボテンから音が
出ている様子を見たことがありました。サボテンに限らず植物は
すべて独自の歌を歌っているそうですね。

モーツアルトの音楽を聴かせると良い花が咲くとか、
ビートルズがいいとかいろんな噂が流れますがホントの所は
どうなんでしょうか・・・


残念ながら私はフランスに行ったことがなくて、パリの近郊の樹
に「ボンジュ-ル」と話しかけられたことはありません。

しかしながら老愛犬は私の顔を見るとすかさず「待ってたよ~
もうチビリそう~ はよう散歩行こう、散歩行こう」と喋りかけて
きます。



2008/03/25(Tue) 18:29 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
「ボンジュ-ル」
その朝も、遠くの雲を眺めたりしながら、
いつもの通る道を歩いていったのだったが、
不意に、一本のある樹木が、燦然たる光を
放って私に語りかけてきた。

「ボンジュ-ル」と。
私も「ボンジュ-ル」と答えた。
するとその樹がじつにすばらしいものに
見えてきたのである……。

いつも通る道の、いつも見る樹が、
ある日ある時間、そのように語りかけてきたのだ。

立ちどまって、私はその樹をじっとみつめた。
そしてよく見ると、その樹が人間の目鼻だちと
おなじように意味をもっていることに気づいた。

土中の諸要素が、多少の違いだけで、
他と異なるそのような顔をつくりあげたものであろう。

しかし、人間とは友であり、上でも下でもないこと、
要するに万物はおなじだと、気づかされたのであった。


長谷川潔の芸術.
http://www16.ocn.ne.jp/~uozu/pro6.htm



2008/03/25(Tue) 17:39 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
自然は私たちのお母さん
やまんばは高いところが苦手です。特にスーパーの二階で、エレベーター付近の一階が見えるところを歩くと、足に微妙な振動がつたわり、この床、薄いのかなあ・・と不安になり、なるだけそういうところは足早に去ることにしています^^。
今日の一本の木のところを読んでると、若いときにある洋画家の家で初めて耳にした「長谷川 潔」というひとのエッチングの作品の図録を見せてもらったことを思い出しました。
静物は、それぞれの物の配置がもうここでなくてはいけない場所、という感じで感心してページをめくっていたら、やまんばは突然「きゅあ~、これ人間にみえる~」と図録をおいて立ち上がったのです。そこには一本の木が描かれていました。あと、その作品の説明を読むと長谷川潔さんが渡仏して歩いていたら、一本の木から「ボンジュール」と声がかけられてきたとか・・書かれてありました。やまんばは、ひえ~~~、な~るほど・・・と鳥肌がたつほど納得しました。
毎日、決めた一本の木のところに行き、その木とよもやま話をして帰るという人もいます^^。
私は自然から、まだ声らしき声はきいたことはないのですが、一度花をスケッチしていたら、そういう態度では描かせません。顔を洗って出直してきなさい・・なんていわれたような感じがして、やまんば、思わず「ごめんなさい」と口から出ていました。改めて集中したら、描かせてもらったのは覚えています。いいかげんな気持ちは、人間でなくとも見抜かれるようです^^^。
2008/03/25(Tue) 07:32 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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