人間に関する根本的な大事なこと
宇野千代著「天風先生座談」二見書房より (6)
あなた方は、自分が生きていることは、
死んでいない以上、よくご存じです。
どんなとぼけた奴でも、「いやァ、俺は
ひょっとすると死んでやァしないか、」
と思っている人はいない。
生きているというこの現実の、
生命のコンディションの中に、
生かされている部面と、
生きなければならない部面との二つが
あることに、気がついていますか。
わかりやすい言葉で言えば、生存と生活というものが、
打って一丸とされない限り、生命存在の現実を、
確保することは出来ないのです。
私はこのことに、自分で医学を研究していながら、
気がつかなかった、あわてものの一人であります。
いったい、生活に対する方法ばかり考えて、
どうすれば達者で生きられるだろう。
食い物かしら。薬かしら。あるいは空気の良いところ
かしらと、つまり肉体本位の、生活することばかりを、
健康獲得への唯一の手段だと考えていたとは、
なんと長年の間、無駄な努力を繰返して来たことで
しょう。
肝心かなめの、生かされている方面に関しては、
生かされているんだから何も改めて研究する必要は
ないと思っていた。
なるほど、それは、生存という方面に関しては、
なんら自覚がなくても、ある程度まで生きて
いかれますよ。
結局、死なない限り、生きていかれるという言葉は、
生きている間に、完全に健康で、しかも長生き出来る
ということにはならない。
どうやらこうやら生かされているという状態が、
ただ続いていて、ある年限が来ると、寿命も来ないのに、
何かの病気刺戟か、あるいはその他の事情で、
ぽっくりとこの世から姿を消してしまうだけなのです。
この世の中には、健康法を説いたり、修養法を説いたり
している人はいくらもありますが、生命の方面に関して、
正しい理解と研究をしている人はありません。
生活に関しては、いろいろなことを考えているらしい
のですが、生存方面に関しては誰も考えてはいない。
このことをおろそかにして何があるのだということを、
私もまた、自分の研究によって知ったのではない。
偶然の機会に、私の青年時代のことですが、
インドのヨガの哲学の発祥地である、ヒマラヤの第三番目
のピークのカンチェンジュンガの麓で、三ヵ年の間おった
ことがあります。
ここで、人間に関する根本的な大事なことを考えさせられて
いるときに、私の師とあおぐ人から言われた言葉によって、
はっと大きな衝撃をうけたのであります。
次回につづく
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あなた方は、自分が生きていることは、
死んでいない以上、よくご存じです。
どんなとぼけた奴でも、「いやァ、俺は
ひょっとすると死んでやァしないか、」
と思っている人はいない。
生きているというこの現実の、
生命のコンディションの中に、
生かされている部面と、
生きなければならない部面との二つが
あることに、気がついていますか。
わかりやすい言葉で言えば、生存と生活というものが、
打って一丸とされない限り、生命存在の現実を、
確保することは出来ないのです。
私はこのことに、自分で医学を研究していながら、
気がつかなかった、あわてものの一人であります。
いったい、生活に対する方法ばかり考えて、
どうすれば達者で生きられるだろう。
食い物かしら。薬かしら。あるいは空気の良いところ
かしらと、つまり肉体本位の、生活することばかりを、
健康獲得への唯一の手段だと考えていたとは、
なんと長年の間、無駄な努力を繰返して来たことで
しょう。
肝心かなめの、生かされている方面に関しては、
生かされているんだから何も改めて研究する必要は
ないと思っていた。
なるほど、それは、生存という方面に関しては、
なんら自覚がなくても、ある程度まで生きて
いかれますよ。
結局、死なない限り、生きていかれるという言葉は、
生きている間に、完全に健康で、しかも長生き出来る
ということにはならない。
どうやらこうやら生かされているという状態が、
ただ続いていて、ある年限が来ると、寿命も来ないのに、
何かの病気刺戟か、あるいはその他の事情で、
ぽっくりとこの世から姿を消してしまうだけなのです。
この世の中には、健康法を説いたり、修養法を説いたり
している人はいくらもありますが、生命の方面に関して、
正しい理解と研究をしている人はありません。
生活に関しては、いろいろなことを考えているらしい
のですが、生存方面に関しては誰も考えてはいない。
このことをおろそかにして何があるのだということを、
私もまた、自分の研究によって知ったのではない。
偶然の機会に、私の青年時代のことですが、
インドのヨガの哲学の発祥地である、ヒマラヤの第三番目
のピークのカンチェンジュンガの麓で、三ヵ年の間おった
ことがあります。
ここで、人間に関する根本的な大事なことを考えさせられて
いるときに、私の師とあおぐ人から言われた言葉によって、
はっと大きな衝撃をうけたのであります。
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人間として大切なもの
2008-03-19 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]
宇野千代の積極的養生法
『小説新潮』昭和四十二年二月号より
……
ストレスを追い出すには、先ず気力、と言ったが、
この気力くらい現代人に欠けているものはない。
私の入会している天風会の会長である天風先生は、
この気力の親玉である。いまから何十年か前、
先生は自宅でコーヒーを飲んでいて、
「もう一ぱい」と言おうとしたが、声が出ない。
うんともすんとも声が出なくなった。家の人たちが心配して、
或る博士を呼んだ。この博士はその頃の耳鼻咽喉科の権威であったが、
また先生の従兄でもあった。
自分の病気に医者を呼ぶことをしない先生であることは分りきって
いたので、従兄がぶらりと遊びに来た体にして置けば、
と言う家人の配慮である。
「やァ、どうした」と這入って来た博士に対して、
家人は何気ない風をして、「先生が声が出なくなったのよ」と言うと、
「どれ、ちょっと見せろ」と言う訳で、
忽ち先生の口腔内の診察をして了った。
「これァ不可ない。咽喉に悪性腫瘍が出来てる。癌だよ。即刻入院、
即刻手術だ」と言うことになった。しかし、先生は驚かなかった。
ロが利けないので、紙と筆をとって、「俺は入院はしない。手術もしない。
札幌へ行く」と書いた。
先生はその以前に、札幌の大学で講演する約束があって、
既に講演料を貰っているからである。
従兄は吃驚仰天して、気が動転していたのか、自分も先生のする通りに
筆と紙をとって、「馬鹿! そんなことをすると命がないぞ」と書いた。
先生はすかさず、「馬鹿! 俺は耳は聞えるぞ」と書いて、遣り返したと言う
話なのである。
翌日、先生は札幌へ発った。家人や関係者が止めたにも拘らず、
約束がしてあるから、講演は出来ないでも、とにかく顔だけは見せないでは
済まされぬと言って聞かなかった。一昼夜の汽車旅行ののち、やがて講演会場に着き、
壇上に立った先生は、一体、講演のときに水を飲むことをしない先生であるが、
そのときは、先ず、水を飲んだ。そして、ロを開いて、「諸君!」と一声言ったとき、
梅千大の血の塊りが声とともに飛び出し、物凄い血が吹き出した。
それでも講演を止めようとしない先生を、人々は演壇に駆け上って先生の体を抱きかかえ、
控え室に運んだ。滾滾と血を吐き、熱は四十度を越した。やがて、三日目に血が止まると
熱が下り、そのまま、けろりと治って了ったのである。
この話を始めて聞いたとき、私は、そんなことがあるだろうか、と思ったものである。
先生の病気は、或いはほんとうの癌ではなく、医者の言うことを聞かない先生を脅かす
積りで、癌と言ったのかも知れない、と思ったりしたものである。
しかし、いまの私はそうは思わない。その病気が癌であってもなくっても、
医師の言うことを平然と聞き流して、札幌に発った先生の気力に感動するのである。
気力が病気を圧倒した一例として、感動をもって、この話を聞くことが出来るのである。
先生のような人に対しては、ストレスは何の爪あとも残さない。
病気を治すには、体力ではなく、ひょっとしたら、
気力だけなのではないかと思うのである。
……
ストレスを追い出すには、先ず気力、と言ったが、
この気力くらい現代人に欠けているものはない。
私の入会している天風会の会長である天風先生は、
この気力の親玉である。いまから何十年か前、
先生は自宅でコーヒーを飲んでいて、
「もう一ぱい」と言おうとしたが、声が出ない。
うんともすんとも声が出なくなった。家の人たちが心配して、
或る博士を呼んだ。この博士はその頃の耳鼻咽喉科の権威であったが、
また先生の従兄でもあった。
自分の病気に医者を呼ぶことをしない先生であることは分りきって
いたので、従兄がぶらりと遊びに来た体にして置けば、
と言う家人の配慮である。
「やァ、どうした」と這入って来た博士に対して、
家人は何気ない風をして、「先生が声が出なくなったのよ」と言うと、
「どれ、ちょっと見せろ」と言う訳で、
忽ち先生の口腔内の診察をして了った。
「これァ不可ない。咽喉に悪性腫瘍が出来てる。癌だよ。即刻入院、
即刻手術だ」と言うことになった。しかし、先生は驚かなかった。
ロが利けないので、紙と筆をとって、「俺は入院はしない。手術もしない。
札幌へ行く」と書いた。
先生はその以前に、札幌の大学で講演する約束があって、
既に講演料を貰っているからである。
従兄は吃驚仰天して、気が動転していたのか、自分も先生のする通りに
筆と紙をとって、「馬鹿! そんなことをすると命がないぞ」と書いた。
先生はすかさず、「馬鹿! 俺は耳は聞えるぞ」と書いて、遣り返したと言う
話なのである。
翌日、先生は札幌へ発った。家人や関係者が止めたにも拘らず、
約束がしてあるから、講演は出来ないでも、とにかく顔だけは見せないでは
済まされぬと言って聞かなかった。一昼夜の汽車旅行ののち、やがて講演会場に着き、
壇上に立った先生は、一体、講演のときに水を飲むことをしない先生であるが、
そのときは、先ず、水を飲んだ。そして、ロを開いて、「諸君!」と一声言ったとき、
梅千大の血の塊りが声とともに飛び出し、物凄い血が吹き出した。
それでも講演を止めようとしない先生を、人々は演壇に駆け上って先生の体を抱きかかえ、
控え室に運んだ。滾滾と血を吐き、熱は四十度を越した。やがて、三日目に血が止まると
熱が下り、そのまま、けろりと治って了ったのである。
この話を始めて聞いたとき、私は、そんなことがあるだろうか、と思ったものである。
先生の病気は、或いはほんとうの癌ではなく、医者の言うことを聞かない先生を脅かす
積りで、癌と言ったのかも知れない、と思ったりしたものである。
しかし、いまの私はそうは思わない。その病気が癌であってもなくっても、
医師の言うことを平然と聞き流して、札幌に発った先生の気力に感動するのである。
気力が病気を圧倒した一例として、感動をもって、この話を聞くことが出来るのである。
先生のような人に対しては、ストレスは何の爪あとも残さない。
病気を治すには、体力ではなく、ひょっとしたら、
気力だけなのではないかと思うのである。
2008-03-19 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]
生存と生活
生命のコンディションの中で、生かされている部面と生きなければならない部面の二つある。
やまんば、なんとなく感じ始めたことがあります。
明日からのブログの掲載が楽しみです。
ある一つの点と点が結ばれるようなもどかしい感覚が続いています。
やまんば、なんとなく感じ始めたことがあります。
明日からのブログの掲載が楽しみです。
ある一つの点と点が結ばれるようなもどかしい感覚が続いています。
2008-03-19 | やまんばさん #- | URL|[ 編集 ]
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「誰しも倖せをもとめながら、
それが得られないのが人間の現実の姿。
これはいったいどういうことであろうか。
天風先生は波瀾万丈のその体験を通じて、
生きるか死ぬかというギリギリのところで、
その一つの答えを身をもって悟られた。」
推薦 松下幸之助