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2008年03月04日 (火) | Edit |
河合隼雄著「老いのみち」読売新聞社より (51)


遠藤周作『生き上手 死に上手』を読んだ。
「死に上手」とは面白い言葉であるが、
題名から推察されるように、

老後の生き方について多くのヒントを与え
くれる書物である。

そのなかで非常に面白いと思ったことは、
「『呪文』のように心のなかで唱える」
という文がよく出てきたことであった。


たとえば、最近の若い女性の目にあまる行為
などを見聞きすると、いやだなあと思えてくる。
そのときに

「でも……戦争時代よりは、今のこのほうがマシ
かもしれない」と「呪文」のように心のなかで
唱える、と大分心がおさまってくる、というので
ある。

その他、遠藤さんの発明されたいろいろな「呪文」
があって、その内容が素晴らしいのだが、

それを「教訓」として提示するのではなく、
呪文のように自分が心のなかで唱えることとして
語られるところに、深い知恵がある、と思うので
ある。

「教訓」とか「哲学」とかカタイことにならず、
「呪文」を唱えると、すうーと心がおさまってくる。
ここが何とも言えぬ味のあるところなのである。

理屈ばかりに頼っていては角が立ちすぎるし、
さりとて、ただ事実を受けいれよと言われても、
腹の虫がおさまらない。

そんなときに「呪文」はなかなかの効果を発揮
するのである。

皆様もそれぞれが、「老いのみち」を上手に
歩くための「呪文」を考え出されてはいかがですか。



次回につづく


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テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
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この記事へのコメント
立場が逆転して現れる
「そして、今度は、それぞれが転生し、
お互いのカルマを解消する為に、
立場が逆転して、現れる場合もあるだろう」


監獄の受刑者と看守は、前世で逆の立場だった
というのを聞いたことがあります。

受刑者と看守の精神レベルは同じだという風に
もいいますが、実際はどうなのでしょうか。



「夫婦や血のつながりがある家族であっても、
実は、現世の価値観とは無関係の、カルマの解消の為に、
いわばそのような立場を選んできただけで、
同じ科目や経験を選択しているだけで、
本来は、何のつながりもなく、自由で平等な無の存在じゃ」


血のつながりがある家族の方が、歴史的にも骨肉の戦いで、
残忍な殺し合いをやっているケースが多いです。

錬金術者さんがおっしゃるように、わたしも、
たとえ血縁関係といえども
「本来は、何のつながりもなく、自由で平等な無の存在じゃ」
と思います。



2008/03/04(Tue) 19:06 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
テクマクマヤコン
ひみつのアッコちゃん」が
「テクマクマヤコン」と唱えると、
望むものなんにでも変身できる呪文。


わたしの場合「呪文」は絵空事などではなく、
実利的なものと考えていましたし、実際に
大いに活用をしていました。いまでも必要に
応じて使っています。


たとえば最近よく交通事故を起こしているとします。

鏡に写る自分に向かい「安全運転」「安全運転」「安全運転」
と繰り返し唱えるのも悪くはないのですが、より具体的な
言葉の方が効果があります。

「前方確認」「前方確認」「前方確認」とか
「しっかりブレーキ」「しっかりブレーキ」とか
「深呼吸」「深呼吸」「深呼吸」とか
自分の癖があれば、癖をフォローする言葉を入れてもいいですね。

「スムースにハンドルが切れる」=「スムースハンドル」とかね。


祈るのは神仏に対して願い事をお祈りする。

呪文は自分の潜在意識に繰り返し繰り返し必要なことを
叩き込む。



http://www.toei-anim.co.jp/lineup/tv/akko/
2008/03/04(Tue) 17:53 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
「ありがとう」は有り難い
 呪文や祈りには、念や思いが必要であるじゃ。念や思いは、魂から発せられるというじゃ。

 感謝の気持ちがなければ、「ありがとう」といっても、あ、り、が、と、うの文字列にすぎないわけじゃ。

 それでも、その文字を、言葉にすれば、呼吸を伴うので、なんらかの念や思いが生じる。

 聖書にあるように、アダムという土に、神々は息をふきかけたというのは、この念や思いの生命を意味し、呪文や祈りが、生命の鍵であることを示している。

 今日のブログのように、昨今の女性の振る舞いをみて、戦争中よりはよいという呪文、つまり思いが生じるのは、魂に経験が焼きついているからといえるじゃ。

 逆にいえば、そのような経験がなければ、呪文は生まれず、また、その呪文が生じるために、昨今の女性の振る舞いが目についたともいえるわけじゃ。

 秘教では、この事をカルマと呼ぶ、仏教でいう因果応報といえるわけじゃ。

 魂が経験を得るために、物事が生起しているといえるわけじゃ。

 例えば、昨日の冤罪裁判では、被告人は、理不尽な扱いを受けるが、その事によって、裁判官が、真実をみる立場になく、自分の立場を保身する存在であることに、気がつくわけじゃ。

 このような裁判官は、死後、自らの行為を悔やみ、いずれ天により、そのカルマを解消し、被告人に補償する形で、裁かれるだろう。

 「汝は、裁判官でありながら、真実を求めずに、自らの虚偽の立場を保身しようとした。その虚偽の報いは自ら、経験として得なければならないだろう。

 自ら蒔いた種は、自らで刈り取らなければならない。その為に、不幸にも被告者となった魂と共に、いずれ、共同作業を行う必要もあるだろう。勿論、天からそれに足る生を与えよう。

 しかしながら、現段階では、天国に入ることはできない。そのような虚偽を取り払わなくてはならないからである。」

 というような、天による最後の審判が行われるだろう。

 被告人に対しても、同等の裁きが行われ、最後に、このような裁判官の為に、共に助け合う気持ちがあるかどうかを問われるだろう。

 そして、今度は、それぞれが転生し、お互いのカルマを解消する為に、立場が逆転して、現れる場合もあるだろう。

 地で、虚偽を生むということは、新しいカルマを形成し、背負うこと、つまり、虚偽を解消する課題を背負い、その経験を必要とすることを意味するようじゃ。

 だから、親しい関係の人には、なかなか、気持ちを込めて、「ありがとう」という言葉がいえないが、それは、魂が、長年のカルマを背負っているからかもしれないし、また、虚偽が当たり前のようになってしまっているからともいえるじゃ。だからこそ、親しき人には、感謝の気持ちが必要じゃね。

 しかし、夫婦や血のつながりがある家族であっても、実は、現世の価値観とは無関係の、カルマの解消の為に、いわばそのような立場を選んできただけで、同じ科目や経験を選択しているだけで、本来は、何のつながりもなく、自由で平等な無の存在じゃ。

 だから、日々、親しき人に、「ありがとう」ということが、どれだけ、宇宙にとっては有り難いことかがわかるわけじゃ。カルマが生まれ、愛によって解消されることで、宇宙は人間から生命を与えられているともいえるじゃ。
2008/03/04(Tue) 11:39 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
呪文
今朝の内容を読んで、「呪文」と「祈り」のちがいはなんだろう?と思い、ネットで調べてみました。

呪文・・・なんらかの力を持つ言葉。あるいは持つとされた言葉や短いフレーズであり、呪術において使用されると、理解されている。・・・

祈り・・・神ないし、神格化されたものとの意思の疎通を図ろうとすること、あるいは神に何かを願うことである・・・。

何かの印象深い文章を見つけたとき、やまんばはじーとそこをみつめていくと、次第に言葉が落ちてゆき、最後は一つの単語になることがある。
その言葉はその時のやまんばにとって、必要な何かの要素をふくんでいるとおもわれます。
それをくりかえせば、時には呪文となり、別の時には祈りとなり、呪文と祈りが一つに重なることもあるということなのだろうか。
どちらにしても、最近のやまんばは「言葉」には力があると実際の生活を通して、思えるようになりました。だから、「呪文」にしても、「祈り」にしても、大切に取り扱って、上手にお付き合いをしていきたいと、願っています。

2008/03/04(Tue) 09:51 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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