2008年02月26日 (火) | Edit |
ティク・ナット・ハン著「微笑を生きる」春秋社より (44)


「私はこの人がとても好きです」と言うかわりに
「私はこの人になにかしてあげたい。少しでも苦しみ
がなくなるように」と言ってあげたらどうでしょうか。

他の人の苦しみをとりはらうことができたときには、
悲のこころが働いているのです。

だから他人に対する悲のこころを育てて、
それを表現する方法を見つけることが大切です。

他人と接触するときには、思いや行動をとおして、
自分の悲のこころを表現してみることです。


たとえ相手が容易に受け入れられないようなことを
言ったりしたりしたときでも、このように努めてみて
ください。

このように練習していけば、やがて私たちの愛は
愛する対象である相手に左右されないことが、
はっきりわかってくるのです。

そうなれば、悲のこころは、いかなるものにも動じない
本物に育ちます。

私たちのこころがさらにゆったりと落ちついてくると、
瞑想の対象の人も、しだいにその恩恵を受けてきます。

その人の苦しみもしだいに薄れてゆき、
その人の生活も徐々に明るさを取り戻し、
陽気で快活になってゆきます。
これこそ悲のこころの実り多き成果なのです。

また自分を苦しみに引きこむ人たちの苦悩も瞑想して
みてください。他人を苦しめる人は、必ず自分も苦しん
でいるのです。

私たちはしずかに息を観察し、深いところを見つめて
いればよいのです。そうすれば、その人の苦しみは
一目瞭然に見えてきます。

私たちの苦しみや悲しみのなかには、子どものころ、
両親にどのように扱われたかに原因があるものも
あります。

その両親も親たちの犠牲者だったかもしれません。
苦しみは世代から世代へと伝播して、この人のなかで、
またよみがえってきたのです。

それがわかれば、自分が苦しめられたからといって、
その人を責めることはできなくなります。
その人もまた犠牲者なのです。

深く見つめることは理解することです。
その人が嫌な行動をとった理由がつかめたら、
そのひとへの不快さも消えて、
苦しみが少しでも減るように祈るようになります。

なんだかとってもすっきりして身も軽くなり、
にっこり微笑むこともできるでしょう。

仲なおりするのには、相手が現実にその場にいなくても
よいのです。深く見つめれば、自分のなかで自分自身
との和解が成立して、問題はすっかりすがたを消して
しまいます。

まず自分が変われば、相手はその態度を見て変わり、
こころのなかから自然に流れ出す、愛のすがすがしい
流れを共有することができるのです。



次回につづく


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テーマ:自己探求
ジャンル:心と身体
コメント
この記事へのコメント
アカシャ日記
人間にはその人の人生すべてが心臓に記録
されるのだそうですよ。面白そうですね。




天は、
大宇宙の構造の縮図として
小宇宙である人間を創造した。

大宇宙の縮図=人間設計図として、
母胎の胎児と融合する。

この事は「霊と物質の結婚」として
秘められておる。

母胎は、遺伝的な仮の心臓を既に宿しているが、
「霊と物質の結婚」において、
仮の心臓に、天空の人間設計図が浸透する。

人間の心臓には、まるで光り輝く天球のような、
宇宙構造全てが集約されているという。

心臓は、人間という小宇宙の「感覚器」
といえる存在。

人間の心臓のなかに、宇宙の縮図が集められ、
人間が人生で行う全行為を、
記録するのに足るメモリーがセットされる。

宇宙の全てが記録されたアカシャ年代記が、
宇宙にはあるというが、

宇宙の構造そのもの、宇宙の設計図そのものが、
いわばアカシャ年代記というものであるといえる。

アカシャ年代記の人間版、いわば、自分日記が、
心臓の構造のなかに記録されるというわけじゃ。

人間の心臓には、神々から授かった設計図の記録という宿命と、
人生において、自らで行う立命という全行為が、心臓に記録され、

死後、その人の運命として、その心臓の記録、
アカシャ日記が読み取られるわけである。




2008/02/26(Tue) 19:45 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
アダムカドモン
アダムカドモンを検索したら

1、3、4番にロッキーマウンテンミステリースクールジャパン
というのが出てきた。

進化の最終ステージである完成された人間(第七根人種)を、
私たちは「アダムカドモン」と呼び、
それに向けてのプログラムのことをもさしている、

という。


2番目は、ローリージャパン。これはチャネリングの
ワークショップのようですね。

5番目は、AKアダムカドモン活性 なんでしょうかね。


このあたりで、
君子危うきに近寄らずで、わたくし、早々に退散しました。


ひとまず、錬金術者さんのおっしゃる
「アダムカドモン=人間の設計図」
ということで話を先に進めましょう。


2008/02/26(Tue) 19:38 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
その人もまた犠牲者なのです
「両親も親たちの犠牲者だったかもしれません」
なかなか重いことばですね。

親の因果が子に報い~というのはありますよね。

やまんばさんのおかあさんの
「この苦しみのつながりを私の代で断たなければならない」
というのもなかなかすごい言葉ですね。


なんだか、大変な苦しみを抱えておられたように感じます。


2008/02/26(Tue) 17:58 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
中庸と忠恕は心臓にある 
 天である神々は、人間を、神々自らに似せてつくったと聖書にはあるじゃ。

 つまり、人間の設計図は、神々である天そのものにあるというぞな。
 
 大いなる宇宙の天は、天そのものをいわば、その縮図として、小宇宙である人間を産み落としているわけじゃ。

 宇宙の構造全てが、人間の構造をも成しておるわけじゃ。

 大宇宙が、その構造を縮約し、アダムカドモンという人間の設計図をつくりあげ、そのアダムは、大宇宙からつくられる、もう1つの母体、つまり、アダムのアバラ骨からつくられた、すなわちエバである地球と、結ばれ、生まれた母性に、融合され、産み落とされる。

 そのような壮大なロマンを詩で語っても、もはや、現代人には戯言や狂言にすぎないじゃろう。

 大宇宙の縮図は、いわば人間設計図として、母胎の胎児と融合する。この事は、霊と物質の結婚として秘められておるじゃ。

 母胎には、既に受精において、地で引き継がれた遺伝的な仮の心臓を既に宿しているが、霊と物質の結婚において、仮の心臓に、天空の人間設計図が、浸透する。

 人間の心臓には、まるで光り輝く天球のような、宇宙構造全てが集約されているという。心臓は、人間という小宇宙の感覚器といえる存在じゃという。

 人間の心臓のなかに、宇宙の縮図が集められ、人間が人生で行う全行為を、記録するのに足るメモリーがセットされる。

 宇宙の全てが記録されたアカシャ年代記が、宇宙にはあるというが、宇宙の構造そのもの、宇宙の設計図そのものが、いわばアカシャ年代記というものであるといえる。

 アカシャ年代記の人間版、いわば、自分日記が、心臓の構造のなかに記録されるというわけじゃ。

 人間の心臓には、神々から授かった設計図の記録という宿命と、人生において、自らで行う立命という全行為が、心臓に記録され、死後、その人の運命として、その心臓の記録、アカシャ日記が読み取られるわけである。

 この事を、古代エジプトでは、心臓を天秤にかけて、最後の審判を行うように記録しているわけであるじゃ。
2008/02/26(Tue) 15:40 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
ダビンチは誤解されておる
 この間、レオナルドダビンチの番組をみたが、いかに、資料や記録が残っていても、現代解釈で、つまり、現代の経験から、つなぎ合わせるのなら、間違いや曲解が、忽ち、生じてしまうじゃろうね。

 なんだか、さも、自分の眼でみたような、まるで、近所にいるダビンチさんのように、ダビンチの自称専門家というか、収集家が語るのを、面白ろ可笑しくみていたじゃ。

 そもそも、資料や記録から解釈しようという態度をもって、ダビンチを理解しようとするなら、忽ち、誤解を生じるだけじゃ。

 この事は、現代人の理解だったとしても、たとえ夫婦の関係だって、理解できない部分が大きいわけじゃ。だからこそ、言葉が必要なわけじゃね。

 また、言葉よりも、一緒に暮らせば、自然、現代人だって、以心伝心を重んじるように、なってくるはずじゃね。なぜ、以心伝心を重んじるのか?

 つまり、霊魂の経験じゃね。なにより経験が尊ばれるわけじゃ。

 ダビンチのように霊魂の経験のないものが、ダビンチをいかに語ろうが、無に等しいだけじゃ。

 ダビンチは、自分と同じ経験をもつ魂の持ち主には、わかるような絵や手記を残しただけじゃ。
2008/02/26(Tue) 12:04 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
全ては中庸にありき
 中庸とは、孔子が説いた人徳の原則といえるぞな。忠恕ともいうが、忠恕という場合は、人間というより、大宇宙のことを意味するようじゃ。

 人間の小宇宙を中庸、大宇宙を忠恕と呼ぶ。人間に中庸があるように、大宇宙にも忠恕がある。つまり、バランスの精神というようなもんじゃね。

 人間にも宇宙にもバランスの精神がある。バランスをもって、ゼロの均衡点をみつけ、相互作用、交流を行うわけじゃね。

 地において、過度な遺伝と呼ばれる偏った伝播が生じると、天において、その均衡を取るために、偏りが、是正されるわけじゃ。それが中庸と忠恕といえる働きといえるじゃ。

 さて、中庸、忠恕といっても抽象的で、何をいっているかわからないじゃろうね。

 例えば、運動を思い浮かべればよいじゃろう。手足を動かそうという内からの意志が働くと、外界の摩擦、抵抗を受けると、感覚が生じるわけじゃ。

 内の意志に対し、外の圧力が生じ、運動という現象が起こる。もし、内力と外力が均衡していたら、動かそうと思えば、圧力も増して、運動は、停滞し、静止したものとなるわけじゃ。

 なんらかの外力の抵抗から、感覚が生じ、感覚の経験から、内力の意志の強弱、運動に対する加減がわかるようになる。

 中庸と、忠恕は、この人間内部の精神による運動の加減と、人間の運動に対する外界の適度な抵抗力の加減といえるわけじゃ。

 さて、秘教によると、人間は、日々、構築と破壊を繰り返し、いわば、少しずつ生き、少しずつ死んでいるわけで、構築もしくは破壊のどちらかが過度だと、病気に罹るわけじゃね。

 さて、モノに設計図が必要なように、設計図がなければ、何モノも構築できない。では、人体の設計図は一体どこからくるのだろうか?

 科学者は愚かにも、DNAといっているが、それじゃ、DNAの右巻き螺旋構造の設計図をつくったのは、誰なんじゃね?

 また、遺伝子のオンオフを制御している実体は何なんじゃね? 遺伝子が存在したからといっても、それを制御するものがなければ、常にブラックボックスが存在するわけじゃね。

 部屋の明かりのスイッチや、機械のスイッチがあるからといって、明かりがつき、機械が動くことを示すことにはならないじゃ。そこに、動作の主体である人間、つまり、精神の主がいるわけじゃ。

 精神の主が、常に、DNAの構造や、遺伝子のオンオフを制御しているから、人間は、少しづつ生き、少しづつ死んでいるわけじゃ。

 つまり、人間のなかの中庸の働きぞな。秘教では、精神を一般的に霊魂と呼んでいるから、霊魂の経験が、中庸となるわけじゃ。

 どんな知識も、知識そのものでは、全く創造の役には立たないわけじゃ。

 何が必要かといえば、知識を現実化する経験であり、運動を加減する意志といえるわけじゃ。霊魂の経験がない、知識は、単なるモノにすぎないわけじゃ。

 霊魂の入らぬものは、死に等しいわけじゃ。

 血となり、肉とならない知識は、単なる物体にすぎないじゃ。

 中庸、忠恕の働き、つまり、霊魂の経験全てが、世の中を動かしているぞな。
2008/02/26(Tue) 11:48 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
自分の生い立ちの中で
自分を守るため、殻の中に閉じこもることを無意識に選んだやまんばですが、さまざまなおかげでそこから開放されたあとに見えてきたことは、今日のブログにかかれてありました。
「その両親も親たちの犠牲者だったかもしれません。苦しみは世代から世代へと伝播して、この人のなかで、またよみがえってきたのです。・・・・・その人もまた犠牲者なのです」

母が口癖のようにいってました。
「この苦しみのつながりを私の代で断たなければならない・・・・」と。もくもくと何一つ文句をいわずに一生懸命生きて、静かに静かにあの世に旅立っていきました。
2008/02/26(Tue) 08:55 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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