こころのしこり
ティク・ナット・ハン著「微笑を生きる」春秋社より (35)
仏教心理学で使う言葉に「こころの形成物」「束縛」
あるいは「しこり」を意味する用語があります。
感覚器官を通じて何かをインプットすると、
その情報の受容の仕方によっては、
こころのなかにしこりができます。
だれかが私たちの悪口を言ったとき、
もし相手がなぜそのようなことを言うかわかっていて、
その言葉を深刻に受けとらなければ、
こころはまったく動揺しません。
こころにしこりは生じないのです。
しかし相手がなぜそのような悪口を言うのか理解
できなくていらだってしまうと、こころのなかに
しこりができます。
こころに生じるしこりの原因は、
ものごとを明確に理解しないところにあるのです。
気づきの練習を丹念につづけていくと、
こころのなかにしこりが発生するや否や、
即座にそれに気づけるようになり、
変化させる方法も講じられます。
たとえば、パーティーで夫が自慢話をしているところを
妻が耳にして、こころのなかで彼を軽蔑したとします。
もし彼女が、このときすぐに彼に思ったことを話して
いれば、気持ちもすっきりして、誤解をとくことができ、
こころのしこりは簡単に消えてゆきます。
このようなこころのしこりは、発生するや否や、ただちに
気づくことが大切なのです。しこりがまだ小さくて弱い
ときに気づいてやると、簡単に変容させることができます。
こころにしこりが生じたとき、
すぐにそれを解かなかったら、
それはどんどん強固なものに育ってしまいます。
私たちは理性的な意識のうえでは、怒りや恐れ、後悔と
いった否定的な感情が、自分にも社会にも受け入れ
られないとわかっているので、忘れるために抑制したり、
意識の届かないところへ押しやったりします。
苦痛を排除するために防衛機能を働かせて、
そんな否定的感情が存在することを認めず、
心中は安らかだ、と思いこもうとします。
しかし私たちのこころに発生したしこりは、
つねに破壊的なイメージ、感情、思考、言葉、
行動へと発露を見いだすものなのです。
無意識下で起こったこのようなこころの形成物を
扱うには、まずそれに気づく方法をみつけることです。
呼吸に気づく練習は、こころのなかで結ばれてしまった
しこりを見つけだすよい方法です。
次回につづく
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仏教心理学で使う言葉に「こころの形成物」「束縛」
あるいは「しこり」を意味する用語があります。
感覚器官を通じて何かをインプットすると、
その情報の受容の仕方によっては、
こころのなかにしこりができます。
だれかが私たちの悪口を言ったとき、
もし相手がなぜそのようなことを言うかわかっていて、
その言葉を深刻に受けとらなければ、
こころはまったく動揺しません。
こころにしこりは生じないのです。
しかし相手がなぜそのような悪口を言うのか理解
できなくていらだってしまうと、こころのなかに
しこりができます。
こころに生じるしこりの原因は、
ものごとを明確に理解しないところにあるのです。
気づきの練習を丹念につづけていくと、
こころのなかにしこりが発生するや否や、
即座にそれに気づけるようになり、
変化させる方法も講じられます。
たとえば、パーティーで夫が自慢話をしているところを
妻が耳にして、こころのなかで彼を軽蔑したとします。
もし彼女が、このときすぐに彼に思ったことを話して
いれば、気持ちもすっきりして、誤解をとくことができ、
こころのしこりは簡単に消えてゆきます。
このようなこころのしこりは、発生するや否や、ただちに
気づくことが大切なのです。しこりがまだ小さくて弱い
ときに気づいてやると、簡単に変容させることができます。
こころにしこりが生じたとき、
すぐにそれを解かなかったら、
それはどんどん強固なものに育ってしまいます。
私たちは理性的な意識のうえでは、怒りや恐れ、後悔と
いった否定的な感情が、自分にも社会にも受け入れ
られないとわかっているので、忘れるために抑制したり、
意識の届かないところへ押しやったりします。
苦痛を排除するために防衛機能を働かせて、
そんな否定的感情が存在することを認めず、
心中は安らかだ、と思いこもうとします。
しかし私たちのこころに発生したしこりは、
つねに破壊的なイメージ、感情、思考、言葉、
行動へと発露を見いだすものなのです。
無意識下で起こったこのようなこころの形成物を
扱うには、まずそれに気づく方法をみつけることです。
呼吸に気づく練習は、こころのなかで結ばれてしまった
しこりを見つけだすよい方法です。
次回につづく
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Comment
タオ
2008-01-28 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]
人間は失敗しないと理解できない
今日の錬金術者さんのコメントはとても大切な
ことをいっておられます。
人間は、経験しないとわからんじゃ。
つまり、失敗しないと、理解できないわけじゃ。
でないと、自由の意味がないじゃ。
失敗してこそ、自由の意味があるじゃ。
挫折は、挫折を経験し、克服した者でなければ
わからないじゃ。
しかし、人間は、挫折や失敗や経験をおろそかにし、
できるだけ逃げ、はじめから巧くやり、成功しようとするが、
この事ぐらい悪なものはないといえるじゃ。
その事は、病原菌を撲滅する為に、抗生物質を投与しすぎて、
かえって耐性菌を生み出したのと同じ論理といえるじゃ。
つまり、問題を自分で解決せずに、周囲に投げて、
より複雑にしてしまうわけじゃ。
人間は、人生のより困難や挫折を経験する方が、
経験しないよりは、良いといえるわけじゃ。
儲かるとか、楽に暮らせるとか、贅沢するとかは、
たまにはよいけど、人生の真の目的ではないじゃ。
オマケみたいなもんじゃ。
オマケが、主になると、本末転倒で、魂が未熟なまま、
大きな困難や挫折に遭遇するわけじゃ。
そんなときに、忽ち、無理解から、恐怖や恐れ、
死を逃れようとするわけじゃね。この極端なものが、
自殺で、自殺は、課題を果たさずに死んでしまうもんで、
後で、後悔するわけじゃ。
せっかく、魂を磨く機会を得たのに、
台無しにしてしまうわけだからね。
ことをいっておられます。
人間は、経験しないとわからんじゃ。
つまり、失敗しないと、理解できないわけじゃ。
でないと、自由の意味がないじゃ。
失敗してこそ、自由の意味があるじゃ。
挫折は、挫折を経験し、克服した者でなければ
わからないじゃ。
しかし、人間は、挫折や失敗や経験をおろそかにし、
できるだけ逃げ、はじめから巧くやり、成功しようとするが、
この事ぐらい悪なものはないといえるじゃ。
その事は、病原菌を撲滅する為に、抗生物質を投与しすぎて、
かえって耐性菌を生み出したのと同じ論理といえるじゃ。
つまり、問題を自分で解決せずに、周囲に投げて、
より複雑にしてしまうわけじゃ。
人間は、人生のより困難や挫折を経験する方が、
経験しないよりは、良いといえるわけじゃ。
儲かるとか、楽に暮らせるとか、贅沢するとかは、
たまにはよいけど、人生の真の目的ではないじゃ。
オマケみたいなもんじゃ。
オマケが、主になると、本末転倒で、魂が未熟なまま、
大きな困難や挫折に遭遇するわけじゃ。
そんなときに、忽ち、無理解から、恐怖や恐れ、
死を逃れようとするわけじゃね。この極端なものが、
自殺で、自殺は、課題を果たさずに死んでしまうもんで、
後で、後悔するわけじゃ。
せっかく、魂を磨く機会を得たのに、
台無しにしてしまうわけだからね。
2008-01-28 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]
「こころの形成物 束縛 しこり」
ティク・ナット・ハンさんの言われる
『仏教心理学で使う言葉に「こころの形成物」「束縛」
あるいは「しこり」を意味する用語があります』
とはどういった言葉なのでしょう?
仏教心理学とは、阿頼耶識論を説いた「唯識」のことだと
思うのですが、この「こころの形成物 束縛 しこり」が
いったいなにを意味するのかわかりません。
ご存知の方があれば是非ともお教えください。
「唯識」でよく使われる言葉に「薫習・薫修(くんじゅう)」
というのがあります。
香が物にその香りを移して、いつまでも残るように、
人々の精神・身体のすべての行為が人間の心の最深部に
影響を与え、習慣となって残る。
という意味ですが。今回の「しこり」とはちょっと違う
ように思います。
『仏教心理学で使う言葉に「こころの形成物」「束縛」
あるいは「しこり」を意味する用語があります』
とはどういった言葉なのでしょう?
仏教心理学とは、阿頼耶識論を説いた「唯識」のことだと
思うのですが、この「こころの形成物 束縛 しこり」が
いったいなにを意味するのかわかりません。
ご存知の方があれば是非ともお教えください。
「唯識」でよく使われる言葉に「薫習・薫修(くんじゅう)」
というのがあります。
香が物にその香りを移して、いつまでも残るように、
人々の精神・身体のすべての行為が人間の心の最深部に
影響を与え、習慣となって残る。
という意味ですが。今回の「しこり」とはちょっと違う
ように思います。
2008-01-28 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]
非物質の霊性とは
物質が存在するという体験は、同時に物質が無いという状態を知ることであるじゃ。
なぜなら、知識においては、元々、物質がない空間を想定して、物質がそこに存在するという認識から、知見に基づいて言っているからであるじゃ。
例えば、「リンゴ」があるというのは、「リンゴ」という名称の物体が無いことを、予め想定していないと、認識できないわけじゃ。
つまり、有とは無から生じるものじゃ。
しかし、ただ、物質があるというのでは、まだまだ唯物的な意識のままで、その物質はどういう性質をもち、本来、何処にあるべきなのか? 更には、どうして、そこにあるのか? と自問自答せねばならんわけじゃ。
そのような流れが、思考を形作るが、このような思考訓練を続けていくと、物質がただ存在するだけでは、全く無意味な思考形成であることに気がつくわけなんじゃ。
この事が発展し、発達していくと、物事をあらゆる立場から見通せるような意識を身に着けることができるというじゃ。
失敗は成功の素だし、生きることは死ぬことだし、憎しみは愛することだし、悲しみは喜びだし、どちらも一方が欠けていては、成り立たないことに気がつくわけじゃ。
全ては、有無の二元論、すなわち、物質と非物質性の二元論で現れるが、その奥の二元論を統一している根源の働きがあって、認識できているというわけじゃ。
確かに科学は、物質理解では成功したが、物質だけでは、片手落ちなんじゃね。だから、宗教者は、科学の勉強が足りないし、科学者は宗教の勉強が足りないと、言いたいわけじゃね。
宗教は科学を勉強することで明らかになるし、科学は宗教を勉強することで、明らかになるわけじゃ。
お互いが、もう一方の立場に対する理解なしで、自分たちが正しいと主張するのは、要するに、自分たちの立っている場所の勉強不足ということを言っているにすぎないわけじゃね。
なぜなら、知識においては、元々、物質がない空間を想定して、物質がそこに存在するという認識から、知見に基づいて言っているからであるじゃ。
例えば、「リンゴ」があるというのは、「リンゴ」という名称の物体が無いことを、予め想定していないと、認識できないわけじゃ。
つまり、有とは無から生じるものじゃ。
しかし、ただ、物質があるというのでは、まだまだ唯物的な意識のままで、その物質はどういう性質をもち、本来、何処にあるべきなのか? 更には、どうして、そこにあるのか? と自問自答せねばならんわけじゃ。
そのような流れが、思考を形作るが、このような思考訓練を続けていくと、物質がただ存在するだけでは、全く無意味な思考形成であることに気がつくわけなんじゃ。
この事が発展し、発達していくと、物事をあらゆる立場から見通せるような意識を身に着けることができるというじゃ。
失敗は成功の素だし、生きることは死ぬことだし、憎しみは愛することだし、悲しみは喜びだし、どちらも一方が欠けていては、成り立たないことに気がつくわけじゃ。
全ては、有無の二元論、すなわち、物質と非物質性の二元論で現れるが、その奥の二元論を統一している根源の働きがあって、認識できているというわけじゃ。
確かに科学は、物質理解では成功したが、物質だけでは、片手落ちなんじゃね。だから、宗教者は、科学の勉強が足りないし、科学者は宗教の勉強が足りないと、言いたいわけじゃね。
宗教は科学を勉強することで明らかになるし、科学は宗教を勉強することで、明らかになるわけじゃ。
お互いが、もう一方の立場に対する理解なしで、自分たちが正しいと主張するのは、要するに、自分たちの立っている場所の勉強不足ということを言っているにすぎないわけじゃね。
2008-01-28 | 錬金術者 #- | URL|[ 編集 ]
思い込みをなくす為に生きる
人間が、物質現象を理解することで、知識を得ることができるのは、人間が物質を、つくったり、壊したりすることで、体験を学び、思いをつくり変えることを意味しているじゃ。
人間は、経験しないとわからんじゃ。つまり、失敗しないと、理解できないわけじゃ。でないと、自由の意味がないじゃ。失敗してこそ、自由の意味があるじゃ。
神々は、人間のその失敗と成功の体験を、人間を通して理解できるわけじゃ。神々には、はじめから、正解がわかっているじゃ。神々は、困難の出題者ともいえるじゃ。
なぜ、神々が、正解を知り、人間のことがわかるかといえば、神々も、かつては人間だったからといえるじゃ。神々も、人間と同じように、同じ立場で、苦悩し、苦痛を味わい、失敗を克服してきたといえるじゃろうね。
蛇の道は、蛇に訊かなければわからないように、言い方は変だが、挫折は、挫折を経験し、克服した者でなければわからないじゃ。
しかし、人間は、挫折や失敗や経験をおろそかにし、できるだけ逃げ、はじめから巧くやり、成功しようとするが、この事ぐらい悪なものはないといえるじゃ。
なぜなら、無理解なうちに、光を当て、陰をつくってしまうからじゃ。物質というのは、光をあてれば、陰ができてしまうように、物質的理解だけでは、無理解なまま、物質表面しか理解できず、中身を理解できんじゃ。なにより、物質というのは、無理解が固まって固形化されるからといえるじゃ。
人間はすぐに便利な方法や抽象や技術に飛びつくが、それは現象解明の問題を複雑化し、より大きな問題に発展させ、全員の協力無しでは解決できないようにしてしまうわけじゃ。物質が益々複雑化するだけじゃね。
その事は、病原菌を撲滅する為に、抗生物質を投与しすぎて、かえって耐性菌を生み出したのと同じ論理といえるじゃ。
つまり、問題を自分で解決せずに、周囲に投げて、より複雑にしてしまうわけじゃ。
戦争や環境問題は、元々は、一人一人の生き方、つまり意識に還元されるわけじゃ。
人間は、人生のより困難や挫折を経験する方が、経験しないよりは、良いといえるわけじゃ。
儲かるとか、楽に暮らせるとか、贅沢するとかは、たまにはよいけど、人生の真の目的ではないじゃ。オマケみたいなもんじゃ。
オマケが、主になると、本末転倒で、魂が未熟なまま、大きな困難や挫折に遭遇するわけじゃ。そんなときに、忽ち、無理解から、恐怖や恐れ、死を逃れようとするわけじゃね。この極端なものが、自殺で、自殺は、課題を果たさずに死んでしまうもんで、後で、後悔するわけじゃ。せっかく、魂を磨く機会を得たのに、台無しにしてしまうわけだからね。
魂が主で、肉体や物質は、あくまで、従であるじゃね。経験を深める為に、生きるわけで、苦難や失敗を逃れて、暮らす為に生きるのではないじゃ。それでは、課題が全く成就されずに、千日手になってしまうじゃろうね。
怖れることなど、本来、何もないじゃ。怖れは実体のない陰じゃね。物事を、物質のように、一面的に捉えようとするから、陰が出来て、恐れが生まれるわけじゃ。
人間は、経験しないとわからんじゃ。つまり、失敗しないと、理解できないわけじゃ。でないと、自由の意味がないじゃ。失敗してこそ、自由の意味があるじゃ。
神々は、人間のその失敗と成功の体験を、人間を通して理解できるわけじゃ。神々には、はじめから、正解がわかっているじゃ。神々は、困難の出題者ともいえるじゃ。
なぜ、神々が、正解を知り、人間のことがわかるかといえば、神々も、かつては人間だったからといえるじゃ。神々も、人間と同じように、同じ立場で、苦悩し、苦痛を味わい、失敗を克服してきたといえるじゃろうね。
蛇の道は、蛇に訊かなければわからないように、言い方は変だが、挫折は、挫折を経験し、克服した者でなければわからないじゃ。
しかし、人間は、挫折や失敗や経験をおろそかにし、できるだけ逃げ、はじめから巧くやり、成功しようとするが、この事ぐらい悪なものはないといえるじゃ。
なぜなら、無理解なうちに、光を当て、陰をつくってしまうからじゃ。物質というのは、光をあてれば、陰ができてしまうように、物質的理解だけでは、無理解なまま、物質表面しか理解できず、中身を理解できんじゃ。なにより、物質というのは、無理解が固まって固形化されるからといえるじゃ。
人間はすぐに便利な方法や抽象や技術に飛びつくが、それは現象解明の問題を複雑化し、より大きな問題に発展させ、全員の協力無しでは解決できないようにしてしまうわけじゃ。物質が益々複雑化するだけじゃね。
その事は、病原菌を撲滅する為に、抗生物質を投与しすぎて、かえって耐性菌を生み出したのと同じ論理といえるじゃ。
つまり、問題を自分で解決せずに、周囲に投げて、より複雑にしてしまうわけじゃ。
戦争や環境問題は、元々は、一人一人の生き方、つまり意識に還元されるわけじゃ。
人間は、人生のより困難や挫折を経験する方が、経験しないよりは、良いといえるわけじゃ。
儲かるとか、楽に暮らせるとか、贅沢するとかは、たまにはよいけど、人生の真の目的ではないじゃ。オマケみたいなもんじゃ。
オマケが、主になると、本末転倒で、魂が未熟なまま、大きな困難や挫折に遭遇するわけじゃ。そんなときに、忽ち、無理解から、恐怖や恐れ、死を逃れようとするわけじゃね。この極端なものが、自殺で、自殺は、課題を果たさずに死んでしまうもんで、後で、後悔するわけじゃ。せっかく、魂を磨く機会を得たのに、台無しにしてしまうわけだからね。
魂が主で、肉体や物質は、あくまで、従であるじゃね。経験を深める為に、生きるわけで、苦難や失敗を逃れて、暮らす為に生きるのではないじゃ。それでは、課題が全く成就されずに、千日手になってしまうじゃろうね。
怖れることなど、本来、何もないじゃ。怖れは実体のない陰じゃね。物事を、物質のように、一面的に捉えようとするから、陰が出来て、恐れが生まれるわけじゃ。
2008-01-28 | 錬金術者 #- | URL|[ 編集 ]
しこりの原因は・・・
こころに生じるしこりの原因は、ものごとを明確に理解しないところにあるのです。
その情報の受容の仕方によっては、こころのなかにしこりはできます。
私たちは・・・忘れるために抑制したり、意識の届かないところへ押しやったりします。
今日も大切なことがたくさん書かれていました。
押しやっても押しやっても、怒りは別の形で出てきます。気づいたら、しめたものです^^!
その情報の受容の仕方によっては、こころのなかにしこりはできます。
私たちは・・・忘れるために抑制したり、意識の届かないところへ押しやったりします。
今日も大切なことがたくさん書かれていました。
押しやっても押しやっても、怒りは別の形で出てきます。気づいたら、しめたものです^^!
2008-01-28 | やまんばさん #- | URL|[ 編集 ]
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憎しみは愛することだし、悲しみは喜びだし、
どちらも一方が欠けていては、
成り立たないことに気がつくわけじゃ。
全ては、有無の二元論、すなわち、
物質と非物質性の二元論で現れるが、
その奥の二元論を統一している根源の働きがあって、
認識できているというわけじゃ。
「その奥の二元論を統一している根源の働き」
とは老子の道(タオ)ですよね
確かに科学は、物質理解では成功したが、
物質だけでは、片手落ちなんじゃね。
だから、宗教者は、科学の勉強が足りないし、
科学者は宗教の勉強が足りないと、
言いたいわけじゃね。