碌々(ろくろく)ブログ

先哲の教え、言葉などを通して  心身の健康、真の幸福  そして人生成功の秘訣を  共に探求していきましょう

腹が立ったら歩く瞑想

ティク・ナット・ハン著「微笑を生きる」春秋社より (32)


腹が立ったら外へ出て、
歩く瞑想をしてみてください。

新鮮な空気、緑の樹々、植物たちが、
みんなで助けてくれます。

練習の仕方はこうです。



 息を吸って怒りがここにあると気づく
 
 息を吐いて怒りは私だと気づく

 息を吸って怒りは不快なものだと気づく

 息を吐いて怒りとおりすぎてゆくものだと気づく

 息を吸って私はしずか

 息を吐いて私はこの怒りを毅然として迎える


怒りが連れてきた不快感を軽減するために、
一所懸命こころを込めて、
歩く瞑想に打ちこむのです。

歩みと息を合わせて、
足の裏と大地の接触にすべての意識を集中します。
そして歩きながら、この詩をくちずさんでください。

これをつづけながら、
怒りを直視できるまでこころが静まるのを待つのです。

そのときが来るまでは、
呼吸を味わいつつ歩みをたのしみ、
まわりの美しさを満喫していればよいのです。

しばらくすると怒りは静まって、
自分が前よりもしっかりと強固になった感じが
実感できるようになるでしょう。

そうなれば、怒りを直接見据えて
理解することができるようになるのです。



次回につづく


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2008-01-25 | 瞑想法 |  コメント : 6  |  tb : 0

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カート・ヴォネガット

人間というのは何かの間違いなのだ。
われわれは、この銀河系で唯一の生命あふれる
素晴らしい惑星をぼろぼろにしてしまった。

とカート・ヴォネガットは言う。彼は
こんなことも述べている。


なんに関してもいい知らせはこれで、
聞けなくなってしまった。
われらが地球の免疫システムが、
人類を排除しようとしている。
自己防衛のためには、これしかないのだろう。


カート・ヴォネガット著
「国のない男」NHK出版より



2008-01-25 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]

人間は自然現象

分かる為には、理想、つまり人間の進む方向性から、
分からないものをつくらなくてはならないわけじゃ

物質を理解するには、仮に非物質をつくり、
それを元にして、いわば変換して捉えないと
いけないわけじゃ

↑ここのところはよく分かりませんが大変面白いです。


人間がつくった製造物が、自然に出来る自然現象と
と言う人がいたら馬鹿者扱いされるじゃろうね?

それじゃ、地球や、人間は、誰がつくったといったら
自然に進化した自然現象だという。


自然現象ででけた人間がつくったものは人工といい、
自然現象とは言わないのはおかしいですよね。



2008-01-25 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]

薄紫の液体を飲んだような感覚

その液体が、
体中を静かにめぐっていく感覚

う〜〜む
「薄紫の液体を飲んだような感覚」に近いと言えば、
薄紫色したラベンダーのシャーベットを食べたこと。
あの独特の香りがほんのりあって、美味しかった。

ラベンダーといえば、結構丈夫ですよね。
あまり日が当たらない玄関の入り口に一株植えて
十年。今では車や人の出入りにかなり迷惑なくらいに
繁茂しています。


2008-01-25 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]

肉体という観測装置

 我々は、肉体という、いわば観測装置を基にして、宇宙の事象を観測し、データ整理をし、そこにいままでの経験からの知見を加え、意識統合しているじゃ。

 だから、肉体が捉える感覚から免れ得ないわけじゃね。それが物質感覚じゃね。物質感覚は、肉体が物質故に存在するといえるじゃ。

 肉体がなければ、物質はみえないし、感じられず、捉えられないじゃ。しかし、本来、物質の存在は、物質だけではないじゃ。光の反射でわかるように、物質の表面が、色彩を帯びてみえるのは、反射されない光が吸収されているからじゃね。

 だから、我々の肉体は、物質でも、いわば、その一部しかみてないことになるじゃ。

 この例えは、象を触って象を当てる逸話が面白いじゃ。ある人は、象の鼻を触って、象は長いものだという。別の人は、象の耳を触って、象は広いものだという。また別の人は象の背中を触って、まるで大地のようだという。更に、別の人は、象の脚を触って、象は丸太のようだという。

 それぞれが、その主張を曲げずに貫けば、忽ち、象の全体像を捉えることは困難になるわけじゃね。

 これと同様に、物質の表面の反射光だけを捉えて、物質を言い当てることは、象の一部を見て、つまり、木をみて森を見ずという過ちに陥るわけぞなもし。

 この過ちに陥らない為には、まず、自分の観測領域、つまり、知の限界を知ることじゃね。すなわち、認識の限界を知ることじゃ。

 肉体に捉われている間は、物質を物体としてしかみれないわけじゃ。それは肉体の性質が、そのまま物質に反映されるからじゃね。

 物は、物の立場でしかみれないわけじゃ。

 この物の立場を超えれば、物も物でなくなるわけぞな。瞑想とは、本来、このような働きぞな。

 当たり前の感覚を、意志をもって、その感覚を無にして、当たり前としないことなんじゃ。芸術家などは、この感覚を研ぎ澄ましておるわけじゃね。

 科学を語る前に、科学的な見方を構築している土台を知ることが肝要なんじゃ。それには、まず、科学を知的に捉える限界まで行ってみることじゃ。

 「科学的」という言葉を持ち出す人が、自らが立つ科学の土台をも認識もせずにいることが、我慢できないわけなんじゃね。これは、「科学的」といって、科学を愚弄する無知からくるものといえるじゃ。

 本来、科学的であれば、わざわざ、科学的というレッテルを貼る必要などないわけじゃ。自然に善を行う人が、モラルを必要としないことと同じ道理であるわけじゃ。

 つまり言葉の矛盾に陥っているわけなんぞなもし。

2008-01-25 | 錬金術者 #- | URL|[ 編集 ]

物質というのは波動が安定したもの

 量子というのは、波動のエネルギーが階段状に、特定の状態だけを、とることを指すじゃ。量子を簡便に表す為に、階段上の波動エネルギーの単位を、プランク数にしているわけじゃ。

 この量子数が、そのまま、素粒子の単位となるわけじゃ。しかし、素粒子の位置と速度は、正確には表記できず、観測問題が生じてしまうのじゃ。

 観測問題は、波動を剛体のように捉えてしまう力学的思考法に原因があるといえるじゃ。波動を観測するには、観測機である自分も波動にならないといけないわけじゃが、とりあえず、そのことは置いておく。

 量子のことを行列を用いた数式で、ハイゼンベルグの不確定性関係として表し、確率統計を用いて、いわば仮想の位相空間に体系化し、量子化と呼んでいるじゃ。

 なぜ、仮想かといえば、虚数や複素数を用いているからじゃ。虚数や複素数というのは、数学的な論理を整合させる為に、人間が定義した、いわば理想数といえるじゃ。

 真の直線が、現実に存在しないように、数学上の多くが、非現実的な、理想を元に構築されているわけじゃ。なんせ、思想は制約を受けずに、元々自由だからじゃ。

 つまり、物質を想定し、数学を構築しているが、既に、非物質な思考を人間は扱っているわけじゃ。

 だから、量子化する際の観測問題や、確率統計の不確定性などは、理想化の為の非物質的取り扱いにあたるわけじゃね。

 この事は、考えてみれば当たり前のことで、立場のとり方や、視点の置き方、座標のつくり方で変わるわけじゃ。だから、非物質なものから、物質の領域に変換する手段が必要となるわけじゃ。

 つまり、分かる為には、理想、つまり人間の進む方向性から、分からないものをつくらなくてはならないわけじゃ。

 物質を理解するには、仮に非物質をつくり、それを元にして、いわば変換して捉えないといけないわけなのであるじゃ。

 虚数も、複素数も現実にあるのではなく、現実を理解する為に、頭の中にあるわけじゃ。脳が現実という像を構築する為に、便宜的に用いている論理にすぎないわけじゃね。

 人間は、この非物質の思考を元に、周囲を人間好みに変えて、構築してきたわけじゃ。だから、人工物には、人間の非物質的感性が、刻印されているといえるわけじゃね。

 人間の製造物には、人間の名前を刻印するように、製造物は、人間の非物質的思考、つまり設計図が隠されているわけじゃ。

 人間の製造物は、人間の経験があるので、一目瞭然だが、古代の遺跡は定かではないじゃろう。

 それじゃ、人間本人はどうなのかといえば、子は親から生まれるとしかわからないわけじゃね。しかし、エネルギーレベルで捉えれば、宇宙から創られていることに変わりはないわけじゃ。

 さて、肉体は滅ぶことがわかっている。物質として分解されて、地に返るわけじゃ。

 では、肉体を構築しているものは何かじゃね?

 人間がつくった製造物が、自然に出来るもんだと言うなら、その人は、馬鹿扱いされるじゃろうね?

 それじゃ、地球や、人間は、誰がつくったといったら、科学者は、自然に進化し、出来たというじゃろう。この回答は、上の回答となんら変わりはしないじゃね。

 例えば、その事を実験で示したとしても、それじゃ、実験者である貴方は、自然のなかでは、何に相当するのですか?
 という問いが生まれるじゃろうね。

 実験者は、実験を行う人がいて初めて成立するわけで、そのような知性があるから、自然現象が生じているわけじゃね。

 エネルギーを量子のように集積している働き、これが、宇宙から万遍なく、量子という一点に作用している営みといえるじゃろうね。

 宇宙の様々な作用が融合して、存在せしめているのじゃね。だから、何事の存在をも、本来は、有り得ない有難いわけじゃ。

 神々の働きなくして、生きられんぞなもし。

2008-01-25 | 錬金術者 #- | URL|[ 編集 ]

散歩

愛犬が亡くなって、昨日初めて散歩に行きました。そして今日のブログは{散歩}の効用が書かれている。時々、驚きます^^。
散歩に限らず、怒ったときは別の行動をすればよいと思うことは何度もあります。
木々の芽が寒さに負けず、確実に膨らみ始めていました。うれしかった。私はそれらに励まされました。どんな状況におかれても、歩みを止めない自然の営みに、頭が下がり、「生きる」ことをおしえられました。
昨日のコメント。
ろくろくさんの、悲しみと悲しみの終わり。
私がこうであるとおもっているわたしと、
じっさいにこうであるあるがままのわたしーー
いいかえれば、悲しみと悲しみの終わり。

薄紫の液体を飲んだような感覚。
その液体が、
体中を静かにめぐっていく感覚。

また、錬金術者さんのコメントも、大変よくわかりました。
人間の源を掘り起こすことが、信仰といえるじゃろう。実は、愛情は至る所にに存在しているわけじゃ。親がいなければ子がないように、空気がなければ生きられないように、宇宙に愛情が漲っているからこそ、存在しているわけじゃ。
朝日の光を浴びたときのような、命溢れる言葉に感銘いたしました。また、宗教家や自称科学者をみると、怒りがもたげてしまうのは、まだまだ修行が足らんといえるじゃ・・・人間錬金術者さんを感じて、笑みがこぼれました^^。

2008-01-25 | やまんばさん #- | URL|[ 編集 ]

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