--年--月--日 (--) | Edit |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2008年01月24日 (木) | Edit |
ティク・ナット・ハン著「微笑を生きる」春秋社より (31)


怒りを外にむかってぶちまけることは、
怒りの処方箋としては、
最高のものではありません。

怒りをいったん外にむけてぶちまけるということは、
意識の深層で、わざわざ腹を立てる練習やリハーサル
をして、もっと強烈な怒りに育てあげるようなものです。

相手に怒りをぶつけてしまったら、
双方ともにずいぶんと傷ついてしまいます。

なかにはすぐ自分の部屋に駆け込んで、ドアに鍵をかけて、
枕を叩いて怒りを解消する人もいます。
これを称して「怒りの解消法」といいます。


しかし、これでは、まったく怒りと触れ合うことには
なりません。枕に触れたことさえなりません。

もしあなたが本当に枕と触れ合っていたら、
枕は何をするためのものかわかるので、
叩いたりはしないはずです。

そうはいっても、この方法は一時的には効果があるかも
しれません。枕を思いっきり叩いたら体力を消耗して
疲れてしまい、少しは気分は晴れるかもしれません。

しかし怒りの根はいまだ手つかずのままなので、その後、
部屋から出て、おいしい食事でもとれば、また元気を
取り戻します。怒りの種に水をやれば、また芽をふいて、
もう一度枕を叩かなければ気がすまなくなります。

枕たたきはちょっとした息抜きにはなりますが、
決して長つづきするものではありません。

本当に怒りを変容させるには、怒りの根を掘り起こさ
なければなりません。怒りの原因を深く見つめてください。
そうしないかぎり、怒りはまた芽ばえてきます。

日々気づきの練習をしながら、新しい健全な種を播いて
ゆけば、気づきは怒りを見まもり、自然に別の感情に
変えてくれます。

気づきによってすべては変わります。
太陽の光が植物を守り育てるのと同じです。




次回につづく


↓↓↓あなたの応援↓↓↓(1日1クリック)お願いします。

にほんブログ村 哲学ブログへ人気blogランキング精神世界 ランキング



スポンサーサイト
テーマ:自己探求
ジャンル:心と身体
コメント
この記事へのコメント
怒りは何処から生ずるのだろうか?
怒りは不平、不満、嫉妬、反目から生ずる
とされる。それらのものをよくよく突きつめて
考えれば、それは畢竟、我から生ずるといえる。

我というものさえ無ければ貪瞋痴の三毒も
生ずることがない。(瞋=怒り)


仏教では、有りもせぬ我を、有るが如く思うのが、
そもそもの迷いの根源であると言う。


この有りもせぬ我を、有ると思ってしまうのを
真理にたいして無明、無知だからだと説く。


怒りを収めるには瞑想すること

じっさいのおのれの怒りを
あるがままに深く見つめること
気づきつづけること



2008/01/24(Thu) 20:14 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
悲しみと悲しみの終わり
私がこうであるとおもっているわたしと、
じっさいにこうであるがままのわたしーー
いいかえれば、悲しみと悲しみの終わり。


じっさいのわたしの怒りを
あるがままに深く見つめること
気づきつづけること

気づきは怒りを見まもり、
自然に別の感情に変えてくれる。


2008/01/24(Thu) 19:11 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
万能細胞は人工幹細胞
本物の幹細胞に比べ様々な問題を抱えて
いるようですね。

腫瘍性が非常に高い細胞ということは
人工幹細胞は、がん細胞になりやすい
ということなんだ。

肉体=物質と単純にはいかないところが
とっても面白いですね。



2008/01/24(Thu) 18:30 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
怒りは愛情の枯渇か?
 人間は水がないと生きられないのと同じで、愛情がないと生きられないわけじゃね。愛情が枯渇してくると、怒りに変わるといえるじゃ。

 愛情が深い分、憎しみも深くなるというじゃ。これはつまり、愛情が陽で、憎しみが陰というわけじゃね。

 憎しみを愛情に転じることが、やまんばさまの説く忍耐と寛容なのじゃろうね。しかし、ただ忍耐や寛容だけでは、水源の無い所に井戸を掘りつくすようなもので、やはり、人間としての信仰が必要なわけじゃ。

 人間としての信仰とは、ただ理性といえるじゃろう。真善美を信じる理性といえるじゃろう。つまり、理性は、人間としての感性であるじゃ。

 人間は理性を追及する存在じゃ。自由、平等、博愛を社会という人間関係において追及する存在といえるじゃ。

 人間として生きるには、人間らしさの水源を、感性を磨きながら探求せねばならんじゃ。でないと、水源の無い所に井戸を深く掘ってしまい、何度も同じ過ちを犯すことになるじゃ。

 実は、誰もが人間として生まれてきているのだから、直観力を磨けば、すぐに人間という理性を確かめることができるわけじゃ。

 人間の源を掘り起こすことが、信仰といえるじゃろう。実は、愛情は、至る所に存在しているわけじゃ。親がいなければ子がないように、空気がなければ生きられないように、宇宙に愛情が漲っているからこそ、存在しているわけじゃね。

 信仰は、そのことを感じるものといえるじゃ。生きていることを実感するものともいえるじゃ。愛情の働きを意識する直観力ともいえるじゃ。

 つまり、信仰や信念、感性のない人生は、無に等しい。ただ機械的に生を貪っているに等しいわけじゃ。死がなければ、その存在すら危ういのであるじゃ。だから、万人平等に、死があるじゃ。神々が与える死は救いじゃ。だから、人間自ら死ぬことは傲慢じゃ。

 土台がなければ、家が建たないように、人間は何かを信仰しなければ生きられない存在じゃ。無神論者といっても、人間のつくった法則や法を信仰しているのだから、科学もいわば、1つの信仰で、宗教なんじゃね。科学者本人は否定するじゃろうがね。

 見えるものばかりを信仰していると、そんなことにも気がついていないわけじゃ。

 科学者だけでなく、宗教家も問題じゃ。宗教家が、霊魂の存在を信じないで、誰が信じるだろうかね?

 宗教家は、似非ものばかりで、形骸化した組織にしがみつく会社員と少しも変わり映えがしないじゃね。お釈迦様が、末世といった由縁じゃね。

 宗教の教えを説かないで、金儲けや俗世の出来事にうつつを抜かしていて、なんの宗教家足りえるのじゃろうね。いますぐ、組織解散して、廃業すべきじゃろう。

 宗教家は一体、何を信仰しているのやら、訊きたいもんじゃ。人間は何かを信仰しなければ、理性をもって生きられないじゃ。だから理性とは、生きる基準じゃね。

 宗教家や自称科学者をみると、怒りがもたげてしまうのは、まだまだ修行が足らんといえるのじゃが、まぁ、可哀想な人たちだと思うじゃ。要は、勉強が足らんせいで、無知なのに無自覚なのじゃろうね。逃げはいかんじゃね。

 勉強しなさいといっても、無駄だし、自分で気がつかないとダメだからね。宗教者は、勉強を一秒足りとも疎かにしてはいかんじゃね。
2008/01/24(Thu) 10:35 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
怒りの根を見つけること
なかなかむつかしいことです。自他を裁く目でなく、慈悲の目で、みつけられるといいのですが・・・。

人間はややこしいことばかり考えますが、今日の日の出の眩しかったこと!
2008/01/24(Thu) 08:42 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。