2007年12月27日 (木) | Edit |
ティク・ナット・ハン著「微笑を生きる」春秋社より (23)


禅門でよく語られる花の話があります。
ある日ブッダが、千二百五十人の修行僧や尼僧たちの前に、
一輪の花をさしだされました。

長いあいだ黙って、
ただ花をさしだされるだけでした。

弟子たちはみんな水を打ったように沈黙しておりました。
一所懸命、師の含意を汲みとろうと考えをめぐらして
いたのです。


すると、突然、ブッダが微笑まれました。
弟子のひとりがブッダとその花に微笑みかけた、
その瞬間のことでした。

その僧の名は、マハーカーシャバ(摩訶迦葉)といいました。
大勢の弟子のなかで、迦葉ただひとりが微笑みの返答を
したのです。

ブッダもにっこり微笑んで、こう言われました。
「私の極めた奥義(涅槃妙心)を迦葉に授けよう」。

この説話はいまも禅門徒たちのあいだで語り継がれ、
その意味が探究されています。

私にはこの意味は簡単明瞭に思われます。
だれかがあなたにはなをさしだしたら、
その人はあなたにその花を見てほしいからです。

その意味を頭で考えていたら、
花を見失ってしまいます。

不思量に徹する人、あるがままの自分でいられる人こそ、
深いところで花に出会うことができるのです。
そして、微笑むことができるのです。

これは人生の課題です。自分が十分に自分でなかったら、
あるいは真に、いま、このときに生きることができなければ、
何を見てもうつろです。

子どもがあなたに微笑んでくれても、
あなたのこころがそこになければ、

もしあなたが昔のことや先のことで頭がいっぱいだったり、
なにか心配ごとがあって、そのことばかり考えていたら、
あなたの前にいる子どもはいないも同然です。

あなたが自分自身に戻るとき、
あなたはいのちを取り戻します。

そうすれば微笑む子どもが、
驚異の実在として、
あなたの前にすがたを現します。

あなたはただ、
その子の微笑を受けとって、
両の腕に抱きしめてやればよいのです。




次回につづく


↓↓↓あなたの応援↓↓↓(1日1クリック)お願いします。

にほんブログ村 哲学ブログへ人気blogランキング精神世界 ランキング



スポンサーサイト
テーマ:自己探求
ジャンル:心と身体
コメント
この記事へのコメント
美しさとは
私が大学で学んだ「美学」の最初の講義で、
教授が「美しさの研究は、醜さの研究なんです」
と言われたときはホントに驚いたものでした。

でも少し冷静に考えれば分かることですよね。
明るいは暗い、長いは短い、高いは低い。

まあなによりも
あれやこれやと考えを巡らせるのではなく、

花はただそれだけで美しい。
命はただそれだけで美しい。

なんてシンプルに感じることもできるように
なってきました。



2007/12/27(Thu) 19:40 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
今ここに生きる
これは本当に簡単にはできないことだとも思います。
「今ここに生きる自分」を一分すら続けて自覚する
ことができないですね。

グルジェフは「人間は機械である」といっています。
人間には首尾一貫した自我などない、
あるのは外界からの刺激に対して自動的に反応する
機械だけだ、と断言してます。

つまり、人間が自分で選んだと思っていること、
自由に選べると信じていること、
自分は自分の人生の主人だと感じていることは、
すべて幻想であり、実際は自我という名の、
作られた機械装置が勝手に刺激に対して反応しているだけ
であるという。

この機械である状態から脱出する方法を
グルジェフ・ワークで述べているが、

常にやらなければいけないのが、
自己観察であるという。

つまり、日常生活において、
どのように自分が振舞ったり、
判断したり、思考したり、
行動しているかを

ひたすら「もう1つの自分」の観点から
観察すること。

今自分を動かしているのは自分ではない機械装置と
実感できるまでそれをやる。
それにより機械であることから脱出する。




2007/12/27(Thu) 19:04 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
拈華微笑
禅門でよく語られる花の話というのは
「拈華微笑(ねんげ‐みしょう)」のことですね。


釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)で説法した際、
花をひねり弟子たちにに示したところ、
だれにもその意味がわからなかったが、
ただ摩訶迦葉(まかかしょう)だけが真意を知って
微笑したという。


これですぐに思い出されたのが
ジョン・ケージの「4分33秒」

これは「無音の」音楽として有名です。

この曲は、いわゆる「無」を聴くものというよりも、
演奏会場外のさまざまな雑音、
鳥の声、木々の揺れる音、
会場のざわめきなどを聴くものとされているようです。


楽譜には

第1楽章
休み
第2楽章
休み
第3楽章
休み

のように書かれているだけ。

演奏者は、舞台に出場し、
楽章の区切りを示すこと以外は
楽器とともに何もせずに過ごし、
一定の時間が経過したら退場する。

数種類の(無音の)CDも存在するようですが
私はこれをビデオで観たことがあります。

無音のCDは他にもけっこうありますね。
私も持っているモーガン・フィッシャーのアルバム
「リ・ラックス」の中に、一曲無音の曲があります。


2007/12/27(Thu) 18:35 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
花は命
 我々は皆、天から命を授かって、生まれてくるじゃ。命をどのように使うかは、我々の意志に、自由に委ねられているじゃ。

 命を欲望のまま快楽に使って、消耗させる者もいれば、命を大切にし、他を観察し、助けるのに、役立てる者もいる。

 花を生けるのは、その人の勝手といえる。

 花はそのままでも美しいのに、より美しく生ける者もいれば、せっかくの美しさを台無しにしてしまう者もいる。

 しかし、美しいように生けようとすればするほど、そこに、欲望が生まれ、美しくなくなる。美しさとは、充分な醜さを体験しないと生まれてこない。

 美しく生けるのではなく、自然と素のままに生けることが、美しさを生むものでなくてはならない。

 真善美を求める行動ではなく、行動の全てが、自然と、真善美になっていなくては本物ではない。
 
 あれやこれやと考えを巡らせるのではなく、そのような作為を生じさせないことだといえるじゃ。

 花はただそれだけで美しい。命はただそれだけで美しい。

 しかし、命の美しさを学ぶ為に、我々は、最後に、命を天に捧げなければならないじゃ。

 花や命は、天に憧れているぞな。いつか天に帰り、それまで、天への地のおみやげを溜め込む袋といえるじゃ。

 私が私であるのは、いまこの地で、命と共にあるからといえるじゃ。

 命がいまあること、この美しさの有難さを感謝しなければならんぞな。

 天に、私という花を差し出したら、天もきっと微笑み返してくれるじゃろうね。
2007/12/27(Thu) 09:43 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
二つ印象に残りました。
だれかがあなたに花をさしだしたら、
その人はあなたにその花を見てほしいからです。

あなたが自分自身に戻るとき、
あなたは命を取り戻します。


・・・これは人生の課題です。

自分が十分に自分でなかったら、あるいは真に、今このときに生きることができなければ、何をみてもうつろです・・・・

やまんば、体験上、わかります。

今ここに生きる・・・これは簡単にはできないことだとも思います。なぜなら、私たちはいろんなことにとらわれているし、過去のトラウマなどは、無意識の奥の奥に潜み、自分でもその存在に気づくことも出来ず、何かおかしいと思いつつも、もんもんと日常に流されていることが多いと思われるからです。
また、幸いにも?それに気が付いたときは、事実をあるがままに受け入れるまでは、時として命の危険も伴うほどの苦しみがあるかもしれないからです。

自分の心の流れに一瞬一瞬棹をたて、心にこびりついた垢に気づき、取り去る作業こそ、瞑想なのではないかとおもうのです。思い込みやいろんな感情が次第に取り去られ、一点の曇りのない、心の深みにたどりついて、はじめて、鳥が歌い、花が咲き、自分を囲む世界がありのままに(ここにかいてある 驚異の実在 として)私たちの前に姿を現すのだと思います。
2007/12/27(Thu) 07:18 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック