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2007年12月26日 (水) | Edit |
ティク・ナット・ハン著「微笑を生きる」春秋社より (22)


希望を持つことは大切です。
なぜなら希望は、
現在の重荷を少し軽くしてくれるからです。

明日がもっとよいものと信じられたら、
今日の苦しみに耐える力が湧いてきます。

しかし希望が私たちにしてくれるのは、
そこまでです。
苦しい現実を軽減してくれるだけです。


希望というものの本質をもう少し深く見てみると、
少しばかり悲観的になってしまいます。

未来の希望にしがみついていると、
私たちが持っているエネルギーや能力を、
現在の自分に集中することができなくなります。

私たちは希望という言葉を使って、
何かいまよりもっとよいことを未来に託します。
希望のなかに平和や神の国を見てしまいます。

こうなれば希望は障害となります。
希望にすべてを託すことをやめれば、

自分をほかのどこでもない、現在のこのときへ
連れ戻して、あなたのなかにはじめから備わって
いる喜びを見いだすことができるはずです。

悟りや平和や喜びは、
だれかほかの人が与えてくれるものではありません。
泉は私たちのなかにあるのです。

いま、ここを深く掘りさげていけば、
水が湧きだしてきます。

真に生きるためには、つねに、いま、ここに
立ち戻らなければなりません。

意識的呼吸法を学んで、すべてのものの源である
現在の瞬間に戻ってみてください。

西洋文明はあまりにも多きを希望に託しすぎて
しまって、現在というときを犠牲にしてきました。

希望は未来のものです。
現在の喜びや平和、悟りを見いだすのに、
希望は役に立ちません。

宗教も希望という観念に基づいて発展してきました。
いま私がここで希望を持たないように勧めたら、
みなさんはきっと強く抵抗されるでしょう。

しかし、このような爆弾発言をすると、
わたしたちが忘れていた何か大切なものが見えてくる
のではないでしょうか。

私は希望を持ってはいけないといっているのではなく、
希望をいだいてばかりいては失うものがある、
と言いたいのです。

希望はときには足かせとなります。
希望を求めることばかりにエネルギーを使ったら、
いつまでたっても現実に立てません。

このエネルギーを、いまここで起こっていることに
気づくエネルギーに転換できるなら、
私たちは難局をひとつひとつ切り抜けて、

いまここを生きる喜びと平和を、
自分の内や外のあらゆるところで見つけることが
できるはずです。



次回につづく


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テーマ:自己探求
ジャンル:心と身体
コメント
この記事へのコメント
希望は障害となります
「希望は苦しみや悩みの原因になってしまう」
このことに気づくのに随分と手間取りました。



私たちは希望という言葉を使って、
何かいまよりもっとよいことを未来に託します。
希望のなかに平和や神の国を見てしまいます。

こうなれば希望は障害となります。
希望にすべてを託すことをやめれば、

自分をほかのどこでもない、
現在のこのときへ連れ戻して、
あなたのなかにはじめから備わっている
喜びを見いだすことができるはずです。

悟りや平和や喜びは、
だれかほかの人が与えてくれるものではありません。

「泉は私たちのなかにあるのです」

いま、ここを深く掘りさげていけば、
水が湧きだしてきます。

真に生きるためには、つねに、いま、ここに
立ち戻らなければなりません。



2007/12/26(Wed) 18:29 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ルーミー語録
tat tvam asiをたどっていくと井筒俊彦さんに
つながりました。
彼の「ルーミー語録」絶版になっていますね。
発売当初からなかなか手に入りませんでした。



私は二元論を捨て

二つの世界が一つであるのを見た

"一"を私は求め

"一"を私は知り

"一"を私は呼ぶ


私は恋人の杯に酔い

二つの世界は私の視界から消えた

私は酒宴や馬鹿騒ぎ以外にすることはない


ジェラールッディン・ルーミー
『シャムセ・タブリーズ詩集』



2007/12/26(Wed) 18:16 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
tat tvam asi そは汝なり
もう十年前になるか、いやもっと前のことか
tat tvam asiにはまったことがありました。

これの元はスーフィなのか?
いやいやインドのシャンカラの梵我一如
と同じことなのか?


タト・トヴァム・アスィ tat tvam asi

私は自分の中に他人の姿を見、
他人の中に自分の姿を見る。


私の魂は自分の中だけでなく、
生きとし生ける全てに存在している。
タト・トヴァム・アスィ tat tvam asi

全ての人が、
自分自身の姿を映し出してくれる鏡である。
タト・トヴァム・アスィ tat tvam asi

宇宙を見ているとき私は鏡を見ている。
タト・トヴァム・アスィ tat tvam asi

他人が見ているものを、
私も見ている。
タト・トヴァム・アスィ tat tvam asi

他人が感じているものを、
私も感じることが出来る。
タト・トヴァム・アスィ tat tvam asi

私が他人の中で最も賞賛している特徴を、
自分も持っている。
タト・トヴァム・アスィ tat tvam asi

自分が心の中で大切にしている特質を、
他人が映し出してくれている。
タト・トヴァム・アスィ tat tvam asi

私は何キロメートルにも渡って
自分の姿を見ることが出来る、鏡の間にいる。
例え映っている姿が変わっていたとしても、
全て自分の姿である。
タト・トヴァム・アスィ tat tvam asi


2007/12/26(Wed) 18:10 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
泉は私たちの中にある
今、同じ地区で急死された方の葬儀から、帰ってきました。じつは昨日また回覧があり、もう一人、亡くなられました。どちらも男性でやまんばと同じくらいの年齢です。
「今ここに生きる」ことこそ大切だと実感しています。
こうして、毎日ここに来れることは幸せです。どんなコメントにもかならずお返事してくださるのは、うれしいことです。やさしい気持ちになります。
ありがとうございます。

2007/12/26(Wed) 13:57 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
そは汝なり
 「天国に行くには、赤子のような心にならなければいけない」とキリストは言いましたじゃ。

 これが、前回の「お前は誰だ!」という神様の問いへの答えといえるじゃね。

 死後、地上で人間が体験した時系列の出来事は、全て、捨てていかなければ、天国にはいけないじゃ。だから、天国の扉までに、絶え間ない「お前は誰じゃ?」という問いが続けられるじゃ。

 「そんなことは聞いておらん」と、神様により、地上の経験は、捨てられていくわけじゃ。地上で、自らを証明する物的証拠は、尽く拒否されるじゃ。

 そして、最後に、地上に生まれる前の魂、つまり、心に戻されるわけじゃね。だから、キリストの言うように、天国に入るには、地上に生まれる前の赤子の心のようになる必要があるわけじゃ。

 そのとき、「お前は誰じゃ?」という問いに、「そは汝なり」と答えるのが、古代からの瞑想の極意だというじゃ。

 「そは汝なり」とは、「それはお前じゃ」という意味で、私は、もう、地上での私ではなく、地上の私は、お前となったという意味なんじゃ。

 だから、地上の私は、別人のもので、もはや私ではないと、客観的にみれる立場を獲得するわけじゃね。つまり、私から出て行き、私を外から、お前として客観視して見れる立場になることを言うわけじゃ。

 禅でいう無我の境地じゃね。つまりそれは、赤子の純真な心なわけじゃ。

 この立場は、丁度、地上に生まれる前の、地上の転生に、いわば希望をもっている魂のこと、つまり赤子の心なわけじゃ。

 死後、人間は、地上の体験を逆回しに、約3日間かけて体験する。約3日間とは、地上の覚醒状態でいたとき、眠らないでいられるその人の能力に相当するじゃ。大体が、寝ずにいられるのは、3日間じゃろう。

 その後、人生の長さの約3分の1をかけて、人生を主体客体を入れ替えて体験するというじゃ。自分が為した行為を、相手の立場になって、反対に体験するというじゃ。だから、他者に嫌なことをしたら、その他者に成り代わって、自らの行為を外から体験するじゃ。

 悪い行為は、その犠牲となった他者となり、自らが、3倍の思いをするというじゃ。3倍なのは、人生の約3分の1期間なので、その分濃縮されるわけじゃ。だから、3倍苦悩や痛い思いをするじゃ。

 逆に良い行為は、3倍喜びを得るわけじゃね。まぁ、大体が、モラルに反する悪い行為なので、この期間を欲界と呼んでいるようじゃ。欲がある分、その思いが三倍化されるので、地獄の苦しみというじゃ。

 この人生の3分の1というのは、実は、睡眠時間に相当するわけじゃ。人間は眠っているときに、起きていたときの、反省を行っているというじゃ。自らで、自らを審判しているというじゃ。

 睡眠中は皆、自省しているわけじゃ。

 死後には、それの集大成を、いわゆる最後の審判としてみせられるわけじゃ。その記録が、我々の「気」に書かれているわけじゃ。

 人間は、自我、心、気、肉体からなるといってきたが、自我、この本当の自我は、実は、地上の体験をしていないままであるというじゃ。ただ、光の源となって、心に映したものが、肉体という鏡に反射されるだけであるというわけじゃ。

 だから、肉体に沿って体験を積むのは、「気」であり、「気」が、肉体の変化を追って、時系列の出来事を書き込んでいくというじゃ。まるで、コンピュータのアルゴリズムのようにね。

 だから、「気」は一種のタイムマシンといえるじゃね。肉体は、経験したい目的の時空、つまり場所じゃね。

 人間の本体の魂、真の自我は、いわば、天国にいて、そこを基点として、地上の体験から、情報を集めているわけじゃね。

 地上の情報取得の為、受肉に適切な肉体がみつかり、転生するために、「気」を纏うとき、予め、その人生の予告編がみせられるというじゃ。まるで、映画と同じじゃね。そして、死後は、「気」を捨てるので、人生を振り返るわけじゃ。

 そして、地上で穢れた心も捨てるので、モラルでいう悪を味わい、苦悩を地獄として体験するわけじゃ。
 
 全ての悪を捨て、地上の執着がなくなり、赤子のような純真な心に戻ると、「そは汝なり」という答えに到達するというじゃ。

 前回の婦人は、執着が過ぎたので、天国にいけずに、地に戻されたわけじゃね。

 ちなみに、本当のプラグマチズムとは、実践主義、行動主義だから、欲界の評価いかんといえるじゃね。唯物化して、後利益、御都合、合理主義になっているが、本来は、善の実践のことをいうじゃろう。だから、キリストの行いじゃが、西洋や、米国は、唯物化してもはや悪魔の国といえるじゃろうね。
2007/12/26(Wed) 11:28 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
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