碌々(ろくろく)ブログ

先哲の教え、言葉などを通して  心身の健康、真の幸福  そして人生成功の秘訣を  共に探求していきましょう

体外離脱体験

河合隼雄著「老いのみち」読売新聞社より (28)


前回「臨死体験」について述べた。
臨死体験をどのように解釈するかは、
なかなか難しいことであるが、

そのなかで最も説明し難い現象に
体外離脱体験ということがある。

体外離脱体験とは、瀕死になった人が、
ふと気がつくと自分の体の上方から
自分をも含めて、

周囲の状況を「見ている」体験を
することである。


死にそうになっている自分の「体」に
母親が取りついて泣いているところや、
医者や看護婦のあわてた動きなどが
すべて「見下ろせる」のである。

そんなばかなことはない、
幻覚の一種だろうと思われるが、
後で実証的に調べてみると、

やはり「見ていた」ことを承認せざるを
得ないのである。

わが国にもよく知られている、
キューブラ・ロスは、
全盲の人が瀕死の状態のとき、

そこに居合わせた人の着物や装身具など
まで「見た」例をさえ紹介している。
(『新・死ぬ瞬間』読売新聞社)

NHK教育テレビで放映されたが、
立花隆さんと私はミニヤコンガから
奇跡の生還をされた松田宏也さんに、

手術を受けたときの体外離脱体験に
ついてお聞きすることができた。

やはり、実際に体験した方からじかに
お話を聞くと迫真力があって、
心を打たれた。

何よりもこのような体験を深く心に
沈めてもっておられる、松田さんの
静かな強靭さにひきつけられた。

それにしても、体外離脱現象は今後、
人間の在り方を考える上で実に大きい
課題となると思われる。



次回につづく


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2007-12-12 | 精神世界、精神分析 |  コメント : 6  |  tb : 0

Comment

体外離脱体験

私は子供のころから二十歳代まで
寝ているときに「体外離脱体験」を
しばしばしていたように思います。

こうした体験はだれもが体験している
ことだと思ってましたね。

世界の裏側というか相当遠い所にも
飛んでいったような気がします。
無事帰れるのかなと心配になったことが
あったですね。

最近こそ見なくなりましたが、
夜、布団に入って目を閉じると
ものすごい光の渦が見えたものでした。
あまりにも強烈で怖くなったことも
ありましたね。


その前の生がどんなものかわかりませんが、
「今回はこのような人生なんだ」という
言葉が時々思い起こされます。


錬金術者さんの

「我々の時代の預言された目的は、
この西洋の秘教(救済)思想と、
従来ある東洋の密教(救済)思想を
融合することだそうですじゃ」

大変興味深いとらえ方ですね。




2007-12-12 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]

薔薇十字の秘教

おそらくやまんばさんが見つけたブログを発見しました。
そのホームページをたどって「週をめぐる毎日の訓練」
をみつけました。


http://members.aol.com/satoky/rosicrucian1.html
http://members.aol.com/satoky/index.html


2007-12-12 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]

週をめぐる毎日の訓練

おおっ、すごい。
やまんばさんもいよいよ
ルドルフ・シュタイナー入門ですね。


週をめぐる毎日の訓練という比較的分かりやすい?
シュタイナーの教えがありましたのでここに
転載させて頂きました。


週をめぐる毎日の訓練

 弟子は、通常の場合注意も関心もなく継続している魂の生のある種の活動に注意深い関心を払わねばならない。こうした活動が8つある。
 当然のことだが、1度に1つの訓練だけに取り組むのが最善である。例えば、1週間か2週間それを継続し、次に第2の訓練に移るというようにして、また最初からやりなおすのだ。また一方で、第8の訓練は毎日実行されるのが最良である。そうすれば、真の自己認識が徐々に実現し、いささかであれ進歩がすぐに知覚出来る。その後、土曜に始めて、約5分続く1つの訓練を毎日、8番目の訓練に加えて行っても良かろう。その結果、適切な訓練が時に触れ同じ曜日に来ることになる。こうすると、土曜―思考、日曜―決心、月曜―言葉、火曜―行動、水曜―振舞といったようになる。


土曜
 自分の思考に注意を払う。
 重要な考えだけを考える。自分の思考の中で、本質的なものを、非本質的なものから分離することを少しずつ学ぶ。永遠なるものを無常のものから分離することを学ぶ。真理を単なる意見から分離することを学ぶ。
 同胞の話に耳を傾ける際、内的に十分静かになるように努める。あらゆる同意を無くし、あらゆる好ましくない判断(批判、否定)は更に静める。思考と感情の中でもそう努める。
 これはこう言えよう。

「正しい意見」


日曜
 最もささいな事柄すら十分に理詰めの思慮を巡らせた後で初めて決定する。何も考えていない振舞の総て、無意味な行動の総ては、魂から遠く離しておかねばならない。あらゆることに、十分な手応えのある理由を必ず持つべきだ。重要な理由のないことはなにも決してしないよう抑制すべきである。
 一度ある決定の正しさを確信したなら、内的沈着で、それを固持しなければならない。
 これはこう言えよう。

「正しい判断」
それは共感からも反感からも独立して形成されたものである。


月曜
 話す。感覚と意味のあるものだけが、高次の発達を目指す者の唇から出るべきだ。おしゃべりのためのおしゃべり―暇つぶしのおしゃべり―はこの意味で有害である。
 通常の種類の会話、つまり脈絡のない言葉のやりとりは避けるべきだ。これは、自分を同胞との交流から閉ざせという意味ではない。まさにそうした時にこそ、話が徐々に意味深いものに導かれるべきなのだ。あらゆる側面を考慮に入れて、話と言葉の一つ一つに思慮深い態度を取る。理由もなく決してしゃべるな。喜んで沈黙を守れ。しゃべり過ぎてもいけないし、しゃべらなすぎてもいけない。まず静かに耳を傾けよ。それから言われたことをよく考えよ。
 この訓練はこう言えよう。

「正しい言葉」


火曜
 外的行動。これが同胞の混乱を招くものであってはいけない。自分の内的存在から行動することを機会が求める場合、その機会にどうすれば最もよく見合うことが出来るか、注意深く思慮を巡らせ。全体の善のために、人の永続する幸福のために、永遠なるもののために、細心の思慮を巡らせ。
 自分自身から物事をなす場合、自分自身の自発性から物事をなす場合、自分の行動の影響を前以て徹底的に考察せよ。
 これはこう呼ばれる。

「正しい行為」


水曜
 秩序ある人生。大自然と霊性に調和して生きよ。人生の外的な些事に拘泥するな。不安と急ぐ思いを人生に持ち込むあらゆるものを避けよ。なにものにも慌てるな。かといって怠惰にもなるな。人生を高次の発達を目指して働く手段と見なし、それにふさわしい振舞をせよ。
 この関連は次の事を語っている。

「正しい立脚点」


木曜
 人間の営為。自分の力の及ばないことをしないように注意を払うべきだ。と同時に、自分の力の内にあるものは、必ずやるように注意を払うべきだ。
 日常なるものと瞬間的なるものの彼方を見よ。そして人間存在の最高の義務と関連する目的と理想に自らを向かわせよ。例えば、これまでに述べた訓練の意味で、同胞の助けとなったり助言者となることが、後に、より一層出来るように、自分自身を育成するように努めよ。もしかするとその目的はすぐの未来にはかなわないかもしれないが。
 これは次のようにまとめられる。

「これまでの訓練が習慣になるようにせよ」


金曜
 人生から出来るだけ多くを学ぶように努める。
 人生に役立つ経験を得る機会を与えずに、なにものも私たちを通り過ぎはしない。間違ったことや不完全なことをしたなら、それこそ、後でそれを正しく、あるいはもっと完璧にする動機になる。
 他の人が何かしているのを見たら、それと類似の目的を展望に収めてそういう人を観察する(冷たく、もしくは無慈悲に眺めることはない)。人は、自分の決定と成就に役立ち得る過去の経験を振り返らずに、なにもしないものである。
 人は誰からも学ぶことが出来る。もし注意深ければ、子供から学ぶことすら出来る。
 この訓練はこう呼ばれる。

「正しい記憶」
(経験から学んできたことを覚えておくこと)


総括
これと同時に毎日たとえ5分間だけでも、時に触れ自分のまなざしを内に向ける。そうする際に、自分自身の中に深く沈み、注意深く自らと話し合い、自らの人生の原理を試し、形成し、思考のうちに自分の知識を―あるいは知識の欠如を―経験し、自らの責任をはかり、人生の内実と真の目的について思いを巡らし、自分の誤謬と不完全さを苦痛を持って純粋に感じる。一言で言うと、本質なるもの、永続するものを発見するように労苦せよ。そしてそれに調和する目標を真剣に目指せ。例えば、美徳を獲得せよ。(何かをうまくやったと思う間違いに陥るな。さらに高い目標に向かってもっと努力するようにせよ。)
 この訓練はこう呼ばれる。

「正しい吟味」


http://members.aol.com/satoky/exercise.html



2007-12-12 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]

やまんばさまご推察の通りです

 秘教とは、古代ギリシャ時代においては、プラトンが有名で、秘教学院をつくりましたじゃ。しかし、後世では、秘教は唯物的資料から構成されるので、哲学と名を変えてしまいましたじゃ。

 だから、プラトンは秘教学院ではなく、哲学院をつくったとされていますじゃ。哲学院で教えられたのは、後世では、スコラ学と称されていますが、これは大きな間違いで、秘教ですじゃ。

 アリストテレスは、秘教を大々的に広げ、弟子のアレキサンダー大王に、インドまで遠征させたのですじゃ。なぜなら、秘教の源流は、古代インドからはじまったからですじゃ。いまでは、その一部が、ヴェーダ哲学として残っているだけですじゃが。

 秘教は、古代インド、後世では、マヌと呼ばれる人物から発し、マヌは、聖書のノアの箱舟のノアと同じ人物だというですじゃ。

 古代インドから古代ペルシャ、古代エジプト、そして古代ギリシャと伝承し、人物でいえば、マヌ、ゾロアスター、ヘルメス、モーセと伝わってきたといいますじゃ。

 我々の文化期では、中世のローゼンクロイツが有名ですじゃ。薔薇十字の秘教として呼ばれ、キリスト教のグノーシス派の流れを統一した教えだといわれておりますじゃ。

 我々の時代の預言された目的は、この西洋の秘教(救済)思想と、従来ある東洋の密教(救済)思想を融合することだそうですじゃ。

2007-12-12 | 錬金術者 #- | URL|[ 編集 ]

生物は生物から生まれる

 死んだら消滅とする説じゃと、生物は無から生まれないとおかしいじゃ。今では、植物や魚や、鳥や動物が、無から生まれるなどといえば、忽ち、非科学的といわれるじゃろうが、死んだら消滅するという説を、支持するのは、大きな矛盾といえるぞなもし。

 また、脳が体験を構築しているのだとするなら、脳死の場合、何も体験していないことになるじゃね。だから現代医学では、脳死を死とするが、では、将来、脳細胞を移植した場合、自己とはどういう存在になるのだろうかね?

 他人の脳を移植すれば、他人の体験を移植したことになり、本人の存在はどうなるのじゃろうね?

 この論理だと、脳が体験を構築しているのなら、脳に干渉することは、体験に干渉することになるから、非常に危険な行為となるわけじゃね。これは、物的なことに限らず、電磁波や放射線等、通常、不可視な存在でも危険なわけじゃね。

 他者の主張はともかく、唯脳論には、賛同しかねるというところじゃね。唯脳論では、説明できないことがあるという時点で、単なる思い込みに近いことがわかるじゃ。

 唯物論から唯脳論に移行するのは、堕落的、退廃的思想の流れとして当然といえるじゃね。精神が脳から説明できれば、簡単だからね。精神の異常(本来、精神には異常などないが)を、脳の構造に帰し、脳に物質的に介入するのが、唯物論者の意向だろうね。しかし、これは非常に危険なことといわざるをえないじゃ。

 確かに、身体は、表面上、脳が制御しているようにみえるが、それは魂が、脳を中心に、いわば神経に光を流して、身体を構築しているからといえるじゃ。

 唯脳論は、TVをみて、TVの中に人がいると思い込んでいる人と同じじゃね。TVという機械に、体験がつまっていると思うのと同じじゃね。確かに、TVが壊れれば、映像を受信できずに、可視化できないが、TVがなくても、映像を送る電波は、いわば不可視の存在として存在しているわけじゃね。

 さて、秘教では、あくまで自我が意識の素であるとしているから、脳がなくても、意識はあるじゃ。ただ、自我の状態により、肉体の感覚を、失っているから、物質的感覚は麻痺しているといえるじゃ。

 だから、逆にいえば、非物質的感覚の、俗に霊的感覚といわれる意識があるわけじゃ。だから、特に人の感情の動きや、行為などが、手に取るようにわかるわけじゃね。秘教では、これを月意識と呼んでいるじゃ。

 月の住人は、この月意識で、我々地球人の行為や感情を、この体外離脱の体験と同じように体験しているというわけじゃね。しかし、人間のように、物質的感覚は全く体得していないので、束の間の体外離脱のように、物質を理解することはできないというじゃ。

 地球人の場合は、人生の体験から、記憶として物質感覚が残っているので、体外離脱でも、ある程度、物質を理解できるわけじゃね。

 だから、体外離脱とは、自我が体外にいることで、人間は寝ているとき、この体外離脱を体験しているというじゃ。ただ、生命が危篤に陥るような場合、「気」も肉体から離脱する場合があり、すると、自我が、「気」を通して、いわば心眼をもつので、束の間の霊視ができる状態になるわけじゃ。

 しかも、霊視の方が、物質のように、陰がなく、光そのもの、つまり真相がありのままにみえるので、体験としては強烈なものに留まるわけじゃ。

 我々の肉体感覚は、物質を表面反射した光として捉えているから、物質内部を見通すことはできんじゃ。霊視の場合、人間の体験を、光の素として、そのままみるので、裏表がなく、客観的にみれるわけじゃね。

 しかし、霊視の場合、確かに同じ光の素、いわゆる霊的言語をみているのだが、翻訳するところで、その人の体験の蓄積で、主観が混じってしまうわけじゃ。

 この主観を取り除くのが、人生の経験の蓄積度につながるわけじゃね。つまり仏教でいう修行じゃね。光をそのまま光として捉える訓練といえるじゃね。

 仏教でも説かれているように、我々の生は、一回限りのものではなく、輪廻転生として、いわば、永遠に向かって、無限回といえるほど繰り返されるというじゃ。

 これとは、逆に、ただ一回の生のみに満足し、安楽を貪るようでは、段々と、自らの身体を痛めつけ、切り離すようになっていくだろう。人類は既に、脳のみが自我の存するところと錯覚している位なのだからじゃね。

 確かに、いわば無限回も生が繰り返されると聞かされると、単なる一回の生を陳腐のものとして考えかねないのが人間の利己的性質といえるじゃが、大きな創造もまず一歩からはじまるわけで、ローマは一日にしてならずといえるわけじゃね。

 人生においては、前回の生、つまり前世の体験により、愛を与えるべき人と、深く関わるように、いわば天の配剤として、今生に生まれるような傾向にあるというじゃ。だから、現在の親族や配偶者、同僚は、最も愛するのに値する存在といえるじゃね。

 どんな人生も無駄なものではない! 一時一時を無駄にしてはならないというわけじゃね。

2007-12-12 | 錬金術者 #- | URL|[ 編集 ]

秘教

錬金術者さんがよくいわれている秘教とは何なんだろう?
やまんばは昨日インターネットで検索してみました。
件数のなんと多いこと。どこを開けてよいのかわかりませんでしたが、ここかな?と感じたところを開けてみました。「薔薇十字の秘教}
ルドルフ・シュタイナー 第一講義 およそ100年前にブタペストで講演されたものでした。
「自己は、全宇宙から形成され、全宇宙から生まれたのです。私たち自身の上昇は最終的に私たちを全宇宙との合一に導きます。自己認識の目的は、人に自己認識という言葉の真の意味を啓示するために、人に大世界で占める場所を与えることなのです」以前に錬金術者さんは「全宇宙の座標軸のどこに自分を定めるか」とかなんとかいわれていた。講演の内容も錬金術者さんのコメントと重なる。(やまんばの思い込みかもしれません^^勝手に推測してごめんなさい。)
やまんばの頭の生まれてから今までの経験の、継ぎはぎだらけの記憶が次第につながりつつある。もう世界は硬い殻を破って新しい(というか古代では当然だった)叡智の世界へ旅立っていってるのだと思いました。宗教も物理も化学も医学もその叡智のページを開けていきつつあるのだと思いました。ばらばらになった学問が一つにつながっていってる。・・・やまんばの小さな頭がそう感じて、希望を感じています。

私たちの感覚が鈍くなっているので、幽体離脱がめずらしい現象にみえるけど、これは当たり前のことなのだと思いました。

気になる本が二冊、本棚にある。
もう一度、読んでみましょう。

2007-12-12 | やまんばさん #- | URL|[ 編集 ]

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