碌々(ろくろく)ブログ

先哲の教え、言葉などを通して  心身の健康、真の幸福  そして人生成功の秘訣を  共に探求していきましょう

ドライヴィング・メディテーション(運転瞑想)

ティク・ナット・ハン著「微笑を生きる」春秋社より (16)


私は四十年前にヴェトナムではじめて
自転車に乗った修行僧でした。

当時は、自転車に乗るなど仏門にいるものが
することではない、と思われていました。

いまでは僧侶といえど、
単車にも乗るし自動車にも乗ります。

わたしたちの瞑想も時代にあったもので、
現実の世界に対応したものでなければならない
と思います。


そこで車を運転する前にくちずさむガーター(短い詩)
をつくりました。このガーターを唱えてから運転を
はじめると、きっとよい運転ができると思います。

  車を走らせる前に
  私は知っている どこへ行くかを
  車と私はひとつ
  車が速く走れば 私も早く走る

私たちは大して必要でないのに、
気分転換や自分から逃れるために、
車でドライヴをすることがあります。

こころのなかが空っぽになって、
それにむかい合いたくないこともあるでしょう。

いそがしいのは嫌なくせに、暇ができると、
ひとりで自分にむかい合うのが怖くなる。

この孤独から逃れるために、テレビをつけたり、
電話の受話器に手を伸ばしたり、小説を読んだり、
友だちと出かけたり、あるいは車に乗って、
どこへ行くともなく家を出てしまうのです。

私たちの文化がそのように仕向けて、
欲しいものを山ほど与えて、
自分自身を見失わせるのです。

車にキーをさしこむ前にこのガーターをくちずさむと、
それは松明のようにパーッとかがやいて、
こころの闇を明るく照らしだし、どこかよそへ行って、
こころの空洞を埋める必要などないことを教えてくれます。

どこへ行っても自分から逃れることはできません。
だからエンジンを切って、ウォーキング・メディテーション
に出かけたほうが、はるかに気持ちが落ちつくと思います。

この数年間に200万平方マイルの森林が酸性雨で消滅して
しまったそうです。その原因のひとつに車の大気汚染が
あります。

「車を走らせる前に 私は知っている どこへ行くかを」
というのは、たいへん重要な問いかけです。
私たちはどこへ行こうとしているのでしょうか。
私たちはみずからの破滅へむかっているのでしょうか。

木が死んでしまったら、
私たち人間もまた死んでしまいます。

もし車に乗ることが必要なら、迷わずに乗ってください。
しかし大して重要でないと思えたら、さしこんだキーを
抜いて、その代わりに、川の土手や公園に散歩に出かけて
みてください。

このほうがしずかに自分を見つめて、自分に戻ることが
できるし、樹々とも仲よくなることができるのです。

「車と私はひとつ」。車を運転するとき、
私たちは自分が主人で、車は道具にすぎないと考えますが、
そうではありません。

私たちが何か道具や機会を使うとき、私たちは変わります。
ヴァイオリンを弾いている人はとても美しいものです。
拳銃を持った人はとても危険な存在になります。

車を運転するときには、私たちは自分であり、
かつ車でもあるのです。



次回につづく


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2007-11-30 | 瞑想法 |  コメント : 4  |  tb : 0

Comment

さっき戻ってきました^^

錬金術者さんの「霊」「霊光」についての丁寧な答えを読ませていただきました。ありがとうございます。
昨日の{自我が肉体のうちにあるか外にあるか?}のコメントは理解できそうな箇所がいくつかでてきました。でも、今日のはむつかしかったです。印刷したので、後でゆっくり読んでみますね。今はわからなくても、ある日ひょんとわかる時もなきにしもあらずですから^^。
今日のブログは・・車を運転するときには私たちは自分であり、かつ車でもあるのです・・はっとしました。

2007-11-30 | やまんばさん #- | URL|[ 編集 ]

霊光とは高次の自我

錬金術者さんのコメントをろくろくなりに
まとめさせていただくと・・・


霊は自我のことをいう
自我には高次の自我と低次の自我がある


高次の自我ー光ー白い龍ー天使ー天使長ミカエル

低次の自我ー闇ー黒い龍ー悪魔ー堕天使サタン



我々の自我のなかで、常に、
高次と低次、光と闇が戦っておるじゃね。
白い龍と黒い龍、つまり、
天使長ミカエルと堕天使サタンが、
いつも、戦っておるじゃ。


低次元の欲求、欲望、つまり重力のように、
地を支配したい衝動、質量として、
塊をつくりたいという衝動、
所有欲などは、
この悪魔の自我が行っている


この低次の自我の悪魔を、
打ち破り、克服し、飼い馴らしたとき、
全ては霊光の自我となるじゃ。
この事をマナス(霊我)、
或いは、無我と呼んでいるわけじゃ



なるほど〜やっとわかってきましたぞ〜
錬金術者さんありがとうございます。



2007-11-30 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]

次元の数え方

 我々の空間は3次元空間ぞな。しかし、我々は、「気」を使って、重力に捉われない運動から、思考活動を行い、物質を変換しているから、つまり、空間を時間に置き換えて、3次元物体を交換できるので、その意味では、4次元だが、3次元物体の中身を、壊さずにそのままいわば、透視できないので、完全な4次元とはいえないじゃね。

 つまり、次元が高次になるほど、本質的な中身を見通せる能力をもつということになるじゃ。動くものを三次元的にみるのが不得手なのは、我々人間そのもの、つまり、魂の能力が現時点では、三次元で限界なのであるじゃ。

 人間よりも1つ上の天使では、四次元空間なので、いわば、三次元思考はおてのものじゃろうね。人間の何某が何を考えている(思考を選択している)のか、まるっきりお見通しなわけじゃね。

 さて、三次元を超えると、四次元軸が現れてくるが、四次元軸とはどういうものかをイメージするのなら、円を考えるとよいじゃ。円を大きくしていくと、曲線が段々と直線に近づくように、つまり、我々が住む地球も本来、球体だが、人間に比べてあまりに大きいので、平面にみえるじゃね。

 つまり、次元があがると、丸みを帯びるわけじゃ。そして、行ったら必ず返ってくるわけじゃ。だから、4次元軸を辿っていくと、いつの間にか元の処に戻ってくるわけじゃ。いわば、迷路のなかの循環じゃね。

 「気」の流れは、三次元の幾何学では、このように掴み処がないじゃ。「気」の流れを数学で示せば、フェルマーの定理が簡単に出てきてしまうじゃろう。

 三次元空間の各々に、このような丸みが加わると、六次元空間になるわけじゃね。だから、「気」の世界は、六次元空間の世界で、フェルマーの定理は、6次元幾何学を三次元に換算した代数上の定理のものだと思われじゃ。

 「気」の上には、「心」があるから、今度は、マイナスの領域に達するんじゃね。今度は、次元が増えるのではなく、減っていくというじゃ。7次元で、1次元減り、8次元で、2次元減り、9次元で、3次元減り、そうすると、丸みの分を除けば、10次元で全くのゼロ次元に到達するじゃ。

 つまり、10次元は何も存在しない、全くの無空間になってしまうわけじゃね。だから仏教では、空や無、虚無と呼ぶわけじゃね。

2007-11-30 | 錬金術者 #- | URL|[ 編集 ]

霊光というのは霊我(マナス)のこと

 我々人間は、外から光の刺激を、皮膚表面に受けて、それに対抗する為に、内側から、光を創り出しているというじゃ。

 しかし、その光は、物質光の電磁波とは違うというじゃ。不可視光じゃね。だから霊光というじゃ。霊は、眼にみえないという意味じゃね。

 さて、科学では、地球には重力があり、質量をもつものは地に引き寄せられるといっておるじゃ。物質光の素の光子は、質量ゼロとされ、引き寄せられないわけじゃね。光速度は、理論的に真空中では不変だと、アインシュタインは、特殊相対論で示したわけぞな。

 しかし、アインシュタインは、一般相対論では、あまりに強い重力をもつブラックホールの近辺では、空間が歪んで、光の進路さえをも曲がってしまうといったじゃね。これは余談じゃが…。

 さて、人間の肉体は物質からなるので、勿論、質量をもち、重力の影響を受ける。だが、東洋哲学でいう、「気」は、質量をもたない、不可視な存在なので、重力の影響を受けないじゃ。

 あらゆる生物は皆、「気」をもっていて、「気」を動かしておるじゃ。肉体である物質体は重力の影響を受けるが、「気」は重力の影響を受けないわけじゃね。だから、生物は、重力から解放され、自由な運動を行うことができるわけじゃね。

 植物は一次元の運動、動物は二次元の運動、そして、人間は三次元の運動といえるじゃね。だから、「気」でいえば、大まかに、植物は1レベル、動物は2レベル、人間は3レベルといえるじゃね。

 つまり、この「気」を人体内で制御しているのが、魂、つまり心で、その源が霊、つまり霊光というべきものじゃね。人間の場合、霊を自我ともいうじゃ。

 自我には、重力の影響をうける肉体からの感覚の領域があるじゃ。これを低次の自我と呼んでおるじゃ。闇の自我といってもよいじゃね。

 そして、肉体の影響のない、「気」の部分、つまり、自由意志に基づいた霊光の部分を高次の自我と呼んでおるじゃ。

 だから、我々の自我のなかで、常に、高次と低次、光と闇が戦っておるじゃね。白い龍と黒い龍、つまり、天使長ミカエルと堕天使サタンが、いつも、戦っておるじゃ。

 低次元の欲求、欲望、つまり重力のように、地を支配したい衝動、質量として、塊をつくりたいという衝動、所有欲全ては、この悪魔の自我が行っていることといえるじゃね。

 この低次の自我の悪魔を、打ち破り、克服し、飼い馴らしたとき、全ては霊光の自我となるじゃ。この事をマナス(霊我)、或いは、無我と呼んでいるわけじゃ。

 そうすると、人間は、肉体の代わりに、霊我をもち、「気」、「心」、「自我」、「霊我」の、俗にいう天使の存在となるというじゃ。天使は、肉体をもたないが、人間の他の高次元体を全てもっているじゃ。

 天使の上には、大天使がいて、更にその上には、権天使がいて、その上にも、神々の領域があるというじゃ。仏教では、曼荼羅で顕し、中心に確か、大日菩薩がいたように思うじゃ。

 だから、天使といっても、どの階層の天使なのか、まぁ、大体、人間界に近い天使は、堕天使が多いので、悪魔に近い存在なので、注意した方がよいじゃ。人間界の訪問販売の類と同じじゃね。とにかく、理性が必要じゃね。

2007-11-30 | 錬金術者 #- | URL|[ 編集 ]

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