2007年11月01日 (木) | Edit |
ティク・ナット・ハン著「微笑を生きる」春秋社より (7)


こころを鎮めて自分に戻りたいと思うときでも、
大いそぎで家に帰って、
瞑想用の坐蒲団に坐ったり、

瞑想センターへ行って意識的呼吸法を
練習する必要はありません。

どこにいても呼吸の練習はできます。
会社の机でも、自動車のなかでも、
人出の多いショッピングセンターでも、


銀行で列をつくって並んでいるときでも、
疲れを感じたらその場に立ったままで
自分を取り戻すことができます。

呼吸にこころをむけて、
にっこり微笑んでみてください。

どこででも気づきの呼吸はできるものです。
だれでもときには自分とむかい合って、
人生のさまざまな問題にたちむかわなければ
なりません。

どんな恰好でもよいのです。立っていても、
坐っていても、横になっていても、
歩いていてもできるのです。

しかし、もし坐ることができたら、
これにこしたことはありません。
坐る姿勢がもっとも安定しているからです。

あるときニューヨークのケネディ空港で、
四時間遅れの飛行機を待っていたときのことです。

待合室でセーターを丸めて座蒲にして、
座禅の足組みをして坐っていますと、とおりすぎる
人々は奇異の目で私を見ていきました。

しかし、しばらくすると、私に気を止める人もなく
なり、しずかに瞑想をつづけることができました。

混雑した空港で、休息する場所もなかったので、
私は自分のいる場所を使ってくつろぐことにした
のです。

このような人目を惹くところで瞑想をするのは嫌だ
と思いますが、どこででも気づきの瞑想ができれば、
いつでも自分自身をしっかり見据えておくことが
できるのです。



次回につづく


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芸術家
クリシュナムルティほど、
日々自己を鋭く観察し続けた人を
私は知りません。

瞑想とは日々の自己を観察することと言って
よいでしょう。
クリシュナムルティの言葉は日々の「瞑想法」
や「自己観察法」のヒントの宝の山になっています。



芸術家とは明らかに、行為の巧みな人ではないでしょうか。
この行為とは生活の中にあるものであり、
そのほかにあるものではありません。

それ故、巧みに生きることが人を真の芸術家にするのです。
楽器を演奏したり、詩を書いたり、
絵を描いたりするときには、
この巧みさが一日の内の数時間だけ働きます。

また、いくつかの異なる分野で仕事をしたルネッサンスの
偉人たちのように、数多くの巧みさの断片を持っていれば、
もう少しは長く働くでしょう。

しかし、音楽や著作のわずかな時間が無秩序と混乱に
どっぷりと使った生の残りの時間と衝突するかもしれません。
とすれば、このような人が芸術家といえるでしょうか。

芸術的な手腕によってヴァイオリンを演奏しても
その眼が名声に向けられている人は
ヴァイオリンンに関心があるのではなく、
ただ名声を得るために腕を磨くだけであり、
音楽よりも私がはるかに重要なのです。

そして、それは名声を得ようとする作家も画家にも
言えることです。

音楽家は美しい音楽と見なすものに私を同一化させ、
宗教家は崇高と見なすものに私を同一化させます。


このような人たちは自分達の特定の小さな領域においては
巧みですが、広大な生の残りの領域を無視しています。

ですから私たちは行為の巧みさ、
生きることの巧みさとは何かを見いだし、
単に絵画や著作や技術の中だけでなく、
生の全体を巧みさと美をもって生きるには
どうすればよいかを見いださなければなりません。

巧みさと美しさは同じものでしょうか。
芸術家であってもそうでなくても、
人間は巧みさと美をもって生の全体を
生きることができるでしょうか。

生きることは行為ですが、
その行為が悲しみを生み出すとき、
それは巧みさを失っているのです。

それでは、人間はどのような悲しみも、
摩擦も嫉妬も、貪欲も葛藤もなく生きることが
できるでしょうか。

問題は誰が芸術家で誰がそうでないかではなく、
あなたや他の人たちといった人間が
苦悩や歪みなしに生きることができるかどうかです。

勿論、偉大な音楽や彫刻を過小評価したり馬鹿にするのは
思慮のないことです。
それは自分自身の生を巧みに生きていない人のすることです。

けれども行為の巧みさである芸術手腕と美は
一日の内の数時間でなく、一日中働いているべきなのです。

これが本当の意味での挑戦であって、
ただ美しくピアノを弾けばいいというようなことではありません。

実際にピアノを弾くときには美しくひかなければなりませんが、
それだけでは十分ではないのです。

それは広大な畑の中のほんの少しだけを
耕しているようなものです。
私たちはその全領域と関係を持っています。
そしてその全領域が生なのです。

私たちが常にやっていることはその全領域を無視し、
自分や他人といった断片にだけ集中することです。
芸術的手腕とは完全に目覚めていること、
それ故生の全体において巧みに行動することを意味します。
そしてこれが美なのです。



クリシュナムルティ「自己の変容」より



2007/11/01(Thu) 18:43 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
意識的呼吸法を育てる
忘れる 忘れる

でも、ふっと立ち止まり、視点が停まって呼吸を意識する

忘れる 忘れる

さみしいな うまくいかないなあ 怠けてるなあ
うん?そうだ!
また、立ち止まり、胸に手をあてて呼吸を意識する。

まな板の上で、野菜を切るとき 洗濯物を干しているとき トイレを掃除しているとき
呼吸を意識する

あは~、いいぞ!やまんば その調子。

これが普通になるといいですね。

いやあ・・・忘れる 忘れる^^
2007/11/01(Thu) 06:33 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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