考えることを減らしてみよう
ティク・ナット・ハン著「微笑を生きる」春秋社より (4)
意識的呼吸法を練習してゆくと、
考えごとが減り、
体全体が本当にくつろいできます。
私たちは一日じゅう考えごとばかりしています。
気づきの呼吸を行うと、
心が鎮まり、
落ち着いてきます。
過剰な思考の連続から解放されて、
過去の悲しみ、
未来の心配事から自由になります。
呼吸に戻ることによって、
いまここに充足しているいのちに
触れることができるのです。
もちろん考えることは大切なことです。
しかし私たちの考えごとの大半は無用
といってもよいものです。
頭のなかで昼も夜もエンドレステープが
まわりつづけているようなものです。
あれこれと考えつづけて
自分で止めることもできません。
カセットテープならストップのボタンを
押せばよいのですが、考えごととなると
止めるボタンなどありません。
考えあぐねて夜も眠れません。
医者で催眠剤や安定剤をもらって飲んでも、
事態は悪くなるばかりでしょう。
このような状態では、眠っていてもゆっくりと
休むことができないからです。
薬に頼っていたら中毒になるかもしれないし、
緊張がつづいて、ついには悪夢になやまされる
ことになります。
意識的呼吸法を行えば、息を吸ったり吐いたり
しているときに思考は止まります。
「入息」、「出息」という言葉は思考ではなくて、
息に集中するきっかけを与えるサインです。
数分間「入息」、「出息」をつづけてゆくと、
気持ちがすっきりして、なんともいえない清涼感
がうまれてきます。
本来の自分に戻って、いまここで私たちをとり囲む
美しい世界に出会うことができるのです。
過去は過ぎ去ったもの、
未来は未だ来らざるものです。
いまここにいる自分に戻ることができなかったら、
いのちと触れ合うことはできません。
私たちのなかに、そして身のまわりにある豊かで
平和な癒しの要素に触れてはじめて、
それを大切にし、育ててゆくことができるのです。
このようなこころの平和をもたらすものは、
いつでも私たちのすぐそばにあるのです。
次回につづく
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意識的呼吸法を練習してゆくと、
考えごとが減り、
体全体が本当にくつろいできます。
私たちは一日じゅう考えごとばかりしています。
気づきの呼吸を行うと、
心が鎮まり、
落ち着いてきます。
過剰な思考の連続から解放されて、
過去の悲しみ、
未来の心配事から自由になります。
呼吸に戻ることによって、
いまここに充足しているいのちに
触れることができるのです。
もちろん考えることは大切なことです。
しかし私たちの考えごとの大半は無用
といってもよいものです。
頭のなかで昼も夜もエンドレステープが
まわりつづけているようなものです。
あれこれと考えつづけて
自分で止めることもできません。
カセットテープならストップのボタンを
押せばよいのですが、考えごととなると
止めるボタンなどありません。
考えあぐねて夜も眠れません。
医者で催眠剤や安定剤をもらって飲んでも、
事態は悪くなるばかりでしょう。
このような状態では、眠っていてもゆっくりと
休むことができないからです。
薬に頼っていたら中毒になるかもしれないし、
緊張がつづいて、ついには悪夢になやまされる
ことになります。
意識的呼吸法を行えば、息を吸ったり吐いたり
しているときに思考は止まります。
「入息」、「出息」という言葉は思考ではなくて、
息に集中するきっかけを与えるサインです。
数分間「入息」、「出息」をつづけてゆくと、
気持ちがすっきりして、なんともいえない清涼感
がうまれてきます。
本来の自分に戻って、いまここで私たちをとり囲む
美しい世界に出会うことができるのです。
過去は過ぎ去ったもの、
未来は未だ来らざるものです。
いまここにいる自分に戻ることができなかったら、
いのちと触れ合うことはできません。
私たちのなかに、そして身のまわりにある豊かで
平和な癒しの要素に触れてはじめて、
それを大切にし、育ててゆくことができるのです。
このようなこころの平和をもたらすものは、
いつでも私たちのすぐそばにあるのです。
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Comment
思考そのものが分離なのです
2007-10-29 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]
考えることを減らせない
テレビを見ているときはテレビに誘導
されたままだし、PCを見ているときは
PCの画面に張り付いていますし、
本を読んでいるときは本の中に埋没しています。
何もしていない時はほとんどなくて、
いつも何かに集中せずにはおれない。
たまに無いもしていない時は、様々な妄念、妄想
に頭が占領されている。
まあ〜せめて今考えていることをすこしでも、
観察して行こうと思う。
されたままだし、PCを見ているときは
PCの画面に張り付いていますし、
本を読んでいるときは本の中に埋没しています。
何もしていない時はほとんどなくて、
いつも何かに集中せずにはおれない。
たまに無いもしていない時は、様々な妄念、妄想
に頭が占領されている。
まあ〜せめて今考えていることをすこしでも、
観察して行こうと思う。
2007-10-29 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]
考えることは分離すること
世の中には、天のものと地のものがあるじゃ。そして、そのなかには循環の作用というべきものが働いておるじゃ。
循環は、自然の営みをみればわかるじゃ。例えば、植物をみれば、根は下へと、地へと向かい、植物自体は、上へと、天に向かい、花を咲かせ、実を成すじゃ
そして、花や実は、種となって、下へと、土へと戻されるじゃ。つまり、地のものは、天の近くまで至ると、再び、地へと降下させられるじゃ。ここに循環があるじゃ。
錬金術では、天の作用を燐、もしくは硫黄と呼び、地の作用を、塩と呼ぶ、そしてその天と地の均衡を保つ作用を、水銀と呼ぶじゃ。
思考、つまり考えることは、塩の作用と呼ばれるじゃ。つまり、地の作用で、考えると、重力に従うものが生まれ、塩のようなものができるじゃ。
この人間の思考の働きの逆が、自然の作用で、自然は、人間が分離したものを、結びつける作用があるじゃ。例えば、黄金は、この最たるものといわれておるじゃ。
また、燐の作用、つまり天の作用は、光のもの、つまり霊のものといわれておるじゃ。地は、重力に従う物質で、塩の作用じゃ。霊と物質の間を取り持つものは、やはり水銀と呼ばれておるじゃ。
これは、金属の水銀ではなく、水のように、流体という意味で水銀と呼ばれるものじゃ。だから、金属の水銀は、錬金術で呼ばれる水銀の一部でしかないじゃ。本来の意味は、霊と物質の仲介物といってよいじゃ。
人間は、考えれば考えるほど、塩の作用が働き、塩のものを、外に出そうとするじゃ。すると、人間は頭が重くなって、自我と心が、気と肉体に堅く結びつくようになるじゃ。
すると、今度は、塩っけのあるもの、塩辛いものが欲しくなり、塩摂取から、塩作用とは逆のものを起こし、自我と心を、気と肉体から離そうとし、結合を緩くしようとするじゃ。
つまり、ここに循環が働いているじゃね。
水蒸気が、雲になって、雨を降らし、水になって、また、太陽の熱で、水蒸気になるという循環のように、太陽の光の熱から、あらゆる循環が生じているといえるじゃね。
太陽は、これら均衡法則を司る中心といえるじゃ。
だから、太陽の黄道の周期、つまり1プラトン年が、人間の1日の呼吸数に等しいわけじゃね。循環の秘密の法則が隠れているじゃ。
循環は、自然の営みをみればわかるじゃ。例えば、植物をみれば、根は下へと、地へと向かい、植物自体は、上へと、天に向かい、花を咲かせ、実を成すじゃ
そして、花や実は、種となって、下へと、土へと戻されるじゃ。つまり、地のものは、天の近くまで至ると、再び、地へと降下させられるじゃ。ここに循環があるじゃ。
錬金術では、天の作用を燐、もしくは硫黄と呼び、地の作用を、塩と呼ぶ、そしてその天と地の均衡を保つ作用を、水銀と呼ぶじゃ。
思考、つまり考えることは、塩の作用と呼ばれるじゃ。つまり、地の作用で、考えると、重力に従うものが生まれ、塩のようなものができるじゃ。
この人間の思考の働きの逆が、自然の作用で、自然は、人間が分離したものを、結びつける作用があるじゃ。例えば、黄金は、この最たるものといわれておるじゃ。
また、燐の作用、つまり天の作用は、光のもの、つまり霊のものといわれておるじゃ。地は、重力に従う物質で、塩の作用じゃ。霊と物質の間を取り持つものは、やはり水銀と呼ばれておるじゃ。
これは、金属の水銀ではなく、水のように、流体という意味で水銀と呼ばれるものじゃ。だから、金属の水銀は、錬金術で呼ばれる水銀の一部でしかないじゃ。本来の意味は、霊と物質の仲介物といってよいじゃ。
人間は、考えれば考えるほど、塩の作用が働き、塩のものを、外に出そうとするじゃ。すると、人間は頭が重くなって、自我と心が、気と肉体に堅く結びつくようになるじゃ。
すると、今度は、塩っけのあるもの、塩辛いものが欲しくなり、塩摂取から、塩作用とは逆のものを起こし、自我と心を、気と肉体から離そうとし、結合を緩くしようとするじゃ。
つまり、ここに循環が働いているじゃね。
水蒸気が、雲になって、雨を降らし、水になって、また、太陽の熱で、水蒸気になるという循環のように、太陽の光の熱から、あらゆる循環が生じているといえるじゃね。
太陽は、これら均衡法則を司る中心といえるじゃ。
だから、太陽の黄道の周期、つまり1プラトン年が、人間の1日の呼吸数に等しいわけじゃね。循環の秘密の法則が隠れているじゃ。
2007-10-29 | 錬金術者 #- | URL|[ 編集 ]
命と触れ合う
今 ここにいること。それが命と触れ合うこと。
意識的呼吸法はそれを可能にしてくれるのですね。
最近、普通のなんでもない風景でも、なんだかとても
美しく感じることがあります。
命の限りを感じた人もそういうふうになるという。
ひょっとしたら、やまんばの命もそう長くないのかなあ・・・なんて。別段意識的呼吸法をしていたわけでもないし・・・。
まあ、そんなことが考えごと。今日も大切に生きていこう。
つまんないことをかきました。
やまんばは元気ですよ^^。
マリアさんがいないせいかなあ。
ずいぶん離れているような気がする・・・。
あっ、また考え事してますね。
エンドレステープが回り続けている・・・。
意識的呼吸法はそれを可能にしてくれるのですね。
最近、普通のなんでもない風景でも、なんだかとても
美しく感じることがあります。
命の限りを感じた人もそういうふうになるという。
ひょっとしたら、やまんばの命もそう長くないのかなあ・・・なんて。別段意識的呼吸法をしていたわけでもないし・・・。
まあ、そんなことが考えごと。今日も大切に生きていこう。
つまんないことをかきました。
やまんばは元気ですよ^^。
マリアさんがいないせいかなあ。
ずいぶん離れているような気がする・・・。
あっ、また考え事してますね。
エンドレステープが回り続けている・・・。
2007-10-29 | やまんばさん #- | URL|[ 編集 ]
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ことです。
思考そのものがこの間隔、分離なのです。
思考は常に自己分裂して断片になり、
分離を生み出すのです。
思考は常に観察するものを切り刻んで、
空間内の断片にしてしまうのです。
あなたと私、あなたのものと私のもの、
私と私の思考などというように。
思考が自分の観察対象との間に作り出した
この空間は現実的なものになります。
そしてそして分離させるのはこの空間なのです。
そうしておいてから、
思考はこの分離の上に橋をかけようとするのです。
このように思考はいつでも自分にしかけた
トリックを遊び、自己欺満に浸り、
融合を願っているのです。
クリシュナムルティ『自己の変容』より