2007年10月26日 (金) | Edit |
ティク・ナット・ハン著「微笑を生きる」春秋社より (1)


毎朝目をさますと、24のまあたらしい時間が
私たちを待っています。
何てすばらしい贈りものでしょう。

そして、この24時間を、自分自身やほかの人々に
平和と喜びをもたらすように使う力量が、
私たちには備わっているのです。

平和は、いま、ここにあるのです。
私たち自身のなかに、そして私たちが見たり
聞いたりするものすべてのなかにあるのです。


問題は私たちがそれに触れようとするか否かなのです。
青空を見るために遠くへ行く必要はありません。

子供の澄んだ目を見るのに街を離れて遠くへ行ったり、
それどころか、ご近所を離れる必要すらありません。

毎日何気なく吸っている空気さえも、
気づいてみれば喜びの泉なのです。

微笑んだり、息をしたり、歩いたり、食事をしたりする
毎日の暮らしのなかに、豊かな幸福に出会う場があります。

私たちは生計を立てることには長けていますが、
生きてゆくことには不器用です。

ときには十年もの歳月をかけて学位をとったり、
仕事や車、家を手に入れるために一所懸命働いたりもします。

しかし自分がいまここに生きていることは忘れています。
いまこの瞬間こそ思い出さなければならない大切な一瞬だと
いうことを、私たちは忘れて暮らしています。

私たちのひと息ひと息、一歩一歩は平和と喜びと静けさに
満たされいます。だから、いまここ、この一瞬に気づき、
いまここ、このときを生きてみてください。

この小著は気づきの鐘の音(マインドフルベル)です。
幸福はいまここ、この瞬間にしかありえないことを
思い起こしていただく鐘の音です。

もちろん将来の計画を立てることも大切です。
しかしその計画でさえ、
現在のこのときにしか起こりえません。

……
これから私がこれまでに学んできたことで、
みなさんの役に立つかもしれない行法をいくつか
お話したいと思います。

平和と幸福は、一瞬一瞬に、一歩一歩のなかにあります。
さあ一緒に手をつないで歩き始めましょう。
ボン、ヴォアイアージュ!(さあ、出発です)



次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
痛みとは何?
錬金術者がおっしゃるように「痛み」を
理解するには一筋縄ではいかないことが
少~し分かってきました。(^。^;)



痛み(疼痛)とは

体の組織の損傷に伴う不快な感覚的、
精神的な体験。
しかし、明らかな組織損傷が認められ
ない場合もある。

がん患者の約70%が痛みを経験するという。


痛みは通常、
末梢神経ー脊髄ー視床下部ー大脳へと伝達
される。

最終的には頭で認知されているから、
その時の様々な環境、精神心理、肉体の
状況により、同じ様な強さの刺激が神経を
通って伝えられても、違った強さの痛みと
感じる。


痛みの感じやすさ

1、痛みが強くなる因子
不眠、疲労、不安、恐怖、怒り、
悲しみ、うつ状態、孤独感、いらだち

2、痛みが和らぐ因子
人とのふれあい、会話、気分の高揚、
熟眠、気晴らし、楽しいことへの集中、
やすらぎ

http://caeser.or.jp/kambe/main_page/painclinic/pain/whats_pain.html




痛み - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%97%9B%E3%81%BF

1、痛覚神経反応。詳細は疼痛を参照。
2、心配。不安。
3、残念。後悔。



2007/10/26(Fri) 20:55 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
健康とは何か?
 ろくろくさまに、人智学の「痛み」の概念が、わかりにくいといわれてしまったので、痛みの前提となる「健康」について書きたいと思うじゃ。

 その前に、西洋医学では、痛みとは、痛覚、つまり神経に障ることだと漠然的に解釈されているじゃが、そもそも、なぜ、神経なるものがあるのかを、言及していないじゃ。

 西洋医学的に言及するなら、神経は、身体の健常性を保つ感覚器官という答えになるじゃろうが、これもまた、単なる言い換えにすぎないじゃ。

 だったら、今度は、なぜ、身体の健常性を保つ必要があるのか?という疑問につながるわけじゃね。そうすると、今度は、生きる為ということになるじゃ。そうすると今度は、最後は皆、死ぬのに、なぜ、約70年ほど生きることが必要なのか?という疑問が生じてくるじゃろうね。

 ここまでくると、もはや哲学となり、一般人にはわけのわからない遠い存在になってしまうじゃね。

 しかし、「痛さ」とは、必ずしも、障害だけから起こるとは限らないじゃ。生みの苦しみという「痛さ」を忘れておるじゃね。

 それに、お釈迦さまは、生きるだけで、四苦八苦と説いたわけじゃね。キリストも、この世に生きるだけで既に罪人なのだから、十字架を自ら背負って苦痛に耐え、克服しなければならないと、その見本を示したじゃね。

 さて、では、健康とはなんだろうか?

 秘教学的にいえば、宇宙の無常の進化に従うことといえるじゃ。

 自然や宇宙は無常で、常に変化しているわけじゃね。環境はどんどん変わっていくじゃ。この環境に上手く適合するには、環境に応じた真善美の意識を人間は獲得していかなければならんじゃ。

 だからして、宇宙が変わり、天体配置が変わると、それに応じて、地球も変わり、環境が見慣れないものとなり、人間も新しく自らを改めなければならんじゃ。

 つまり、これが生みの苦しみじゃね。子孫を増やすというのは、人類、民族の価値観が変わるということでもあるじゃね。異なる環境に適合するには、現在の状況を一新しないといけないわけで、すると、自然に、従来の価値観の強い抵抗にあうわけじゃ。だから、痛みや苦しみが生じる。

 これを乗り越えると、価値観の幅が広がり、知恵が得られ、一時の安らぎ、安堵感が得られる。この事を継続していくと、自然に、人体の健康を通して、宇宙の進化に従う真善美の叡智が得られる。

 人間が太陽の運行の糧に生きることは、1プラトン年(太陽の春分点が黄道を一周する時間)、つまり、25920年が、人間の一日にする呼吸数(1分間に約18回なので、18×60(分)×24(時間)=25920)と同じということからわかるじゃ。

 つまり、「痛み」や「苦しみ」は、宇宙の進化に従おうとせず、自分のなかに安住しようとする怠惰で、堕落した、利己主義、エゴから生じているといえるじゃ。

 宇宙の進化とは隔絶し、いわば、宇宙の腫瘍として生きていかないように、進化の歩みに沿っていくように、つまりバランスするように、日々健康が継続するように、「痛み」と「苦しみ」が生じるといえるじゃ。

 宇宙から、人間に絶えず、健康になるようにと、叡智が注がれておるじゃ。太陽光や、食物、大気や雨や、水、これら全てに健康の素があり、人間は、自然の恩恵を受けて生きているわけじゃ。

 それに耳を傾けるかどうかは人間の問題じゃね。耳を閉ざしていると、苦痛が、生じるが、無視していると、もはや健康とは程遠い、宇宙の進化とは隔絶した悪の存在となるじゃ。

 この存在はあまりにエゴが大きすぎて、自らを支えることができない。エゴ故に、自らを自ら赦すことができずに、自滅してしまうじゃね。 
2007/10/26(Fri) 11:49 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
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