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2007年10月19日 (金) | Edit |
五木寛之・帯津良一 著「健康問答」平凡社より(34)


五木 体内にあるそのSODという酵素が、
処理できないほどの活性酸素が発生したときに、
病気になるわけですね。

帯津 そういえるでしょう。

五木 そう考えると、コレステロールも、活性酸素も、
一概に悪いものといえないということになりますね。
つまり体内のバランスの問題だと。

ですから、さっきおっしゃったように、絶対ということ
はあり得ない。あんまり単純に、右か左かということも
いいにくい。


まだまだ医学に関しては、いまはこういわれているけれど、
将来はどうなるかわからないんだということを、患者も
医者も、はっきり自覚しなければいけないと思うんですよ。

帯津 謙虚にやらないと、いけないですね。

五木 でも、謙虚だと、その先生は頼りないといわれかねない。

帯津 信頼性がないって(笑)

五木 「いや、これは大丈夫」とか「君、このままだと三ヵ月
だよ」とか、こういっちゃう医者の方が、正直みたいに見えて
しまう。

「ちょっと、最近の論文ではこう、ガイドラインではこう、
去年発表されたものではこうなっていますが、まだ、ほんとうの
ところは、確実かどうかわからないんですよ」なんていうお医者
さんだと、しっかりしてよ、といいたくなる。

患者は勝手なものですから。でも、わからないことを
「わからない」ということも大切です。それと同時に、そのまま
放っておくのも無責任でしょう。とことん考えてみなければ。

帯津 メタボリック症候群のところでもいいましたが、
コレステロールの正常値の上限は、以前は250mg/dlだったのが、
いつのまにか220になっていたのですよ。

このあいだの値をもつ人は、一気に病人にされたようなものです
よ。だれかの陰謀という説もあるようですが、それもあながち、
嘘でもないと思います。

だからコレステロールが高いからといって、すぐに、降下剤に
走るのは、どうかと思いますよ。まずは、ライフスタイルを整え
ることではないでしょうか。

私のことをいえば、もとはコレステロールが高かったのですが、
長いあいだ気功をやっているうちに、すっかり正常値に落ち着い
てしまいました。もっとも、正常値というのもクセ者ですが……。



次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
「空気を読め!」
日本人の以心伝心=「空気を読む」は、
「気」を感じる直観力を重んじる文化といえるが、
その文化もほとんど形式化、形骸化して久しい。

ところが、「少しは空気読めや、ほんまに」というふうに、
笑いのジャンルあたりから、
決してノスタルジックにではなく、
「芸人としての必須条件」として
「空気を読む」という資質が語られるようになってきた。




「空気を読む」ということばが、
あちこちで聞かれるようになった。

おもに、「空気を読め」とか
「空気が読めないやつ」という具合に
否定的な言い方で使われることが多い。

他の言い方をすれば「察する」ということだ。

この「察する」という能力は、
昔は、みんなにあった
ということになっている。
みんなが察し合うコミュニケーションをしてきた、と。

「察し」のコミュニケーションは、
明文化されてないルールのように、
わからない者には、なにをどうすればよいのか
判断する基準が見えないために、
新しい世代の人間には評判が悪かった。

してほしいことをハッキリ言ってください、とか、
言ってくれなきゃわからないでしょ、とか、
「察しのコミュニケーション」に
反対する立場の人の言い分は、わかりやすい。

もし、「察し派」と「明文派」というものに
分けられてディスカッションしたとしたら、
「明文派」の勝ちは目に見えているだろう。
これまでも、これから先も、
「もっと察しというものを大事にしろ」という意見は、
どんどん少数派として取り残されていくのだろう。
そう思っていたのだった。

ところが、「少しは空気読めや、ほんまに」というふうに、
笑いのジャンルあたりから、
決してノスタルジックにではなく、
「芸人としての必須条件」として
「空気を読む」という資質が語られるようになっていた。

これまで、近代化する一方だとばかり思っていた
コミュニケーションスタイルだったけれど、
ひとつの「王政復古」みたいな現象が、
始まっていたのかもしれない。

たしかになぁ、何もかも言葉でやりとりできる、と
信じ切っている人とは、話しにくいもんなぁ。

取材なんかでも、あるんだよね、
うまく言えないことをなんとかがんばって言ってると、
「それは、どういうことですか?」と、
いとも簡単に聞くやつがねぇ。
ま、いいか。

おんなじ「バカ」というセリフにしたって、
言い方によっては、「好き」という意味にもなるし、
「かわいいやつだな」にもなるわけで、
そういうことをわからない人に対して、
「バカ」と言ったら、
「私は、親にだってバカと言われたことないです!」
なんて怒られたりする。

しかし、「空気を読め」ということ、
「察しなさい」というようなことって、
どうやって教えたら、空気が読めるようになるのだ?

なんでもかんでも言葉になおして、
コミュニケーションのルールを共有するという方法なら、
話しあいでなんとかできるだろう。

契約というやつは、そういうふうにつくるものらしい。
なんでも言葉にしておくってことになる。
これを極端にすると、
「書いてないことはないこと」にされてしまう。
だから、電子レンジで猫を乾かすな、とか、
そんなことまで明文化する必要さえでてくるわけだ。

しかし、猫を乾かすな、ということは、
犬も乾かすなということだし、
もしプレイリードッグを飼っている人だったら、
それも乾かすなということに決まっている。
ワニは爬虫類だが、どうなのか?
なんてことを、また言ってくる人がいるかもしれないけど。

だんだんと、例外的に常識を持ってない人に合わせて、
コミュニケーションが設定されるようになる。
お笑いに関わる芸人さんたちのなかから、
「そこまで説明しないといけないのか!?」と、
「空気を読め」がひろがってきたのは、よくわかる。

にしても、どうやったら、空気が読めるようになるのだ?
「相手の身になって考えろ」だとか、
「想像力が足りないぞ!」なんていう小言も、
ずいぶん言われてきたと思うけれど、
読めないやつは読めないし、
どうしたら想像力を補給できるのか、方法がわからない。

と、ここまでは、前にも書こうと思ったことなのだけれど、
もしかしたら、「空気を読め!」は、
学べるのかもしれないと、
つい最近、思うようになったのだ。

もうしわけないけれど、うちの犬だった。
愛犬ブイヨンさんが、ヒントだ。
例えば、彼女は、
うちの玄関の靴を脱ぐ場所から先には、
土足であがらない。

そういうふうに教えた覚えはないのだけれど、
あがろうとしたときに、止めたことはあるかもしれない。
また、彼女の歯で噛んでいい玩具と、
噛んではいけないさまざまなモノとの区別を、
完全に理解している。

これについても、いちいち教えたことはない。
朝の散歩のときでも、
ほんとうに行く直前には、しっぽをパタパタさせて、
飛び回るけれど、
行くかもしれないというくらいの状況では、
ふとんをかぶって寝ていたりする。

‥‥これは、「空気を読む」そのものではないか?!
言葉以外のなにかを、犬は読みとって、
次の行動を決定しているのだ。

おそらく、幼児が社会に参加していくときにも、
同じようなプロセスがあるのだろう。

また、外国に生活しながら
その国の言葉を憶えていくときにも、
「空気を読む」ことが、
先んじて行われているのだろうと思う。

と考えていたら、わかるじゃない?
言葉が、空気を読むことのじゃまをしているのだ。
いや、そういう言い方は、言葉にもうしわけないな。

言葉と事実が一対一でしか対応できてないような
「痩せた言葉」が、空気を読むことを妨害するのだ。

言葉を話せない犬や、
親の仕事の都合で海外に住むことになった幼児は、
全身を感覚器にして、空気を読む。

そうやって、生きるためのコミュニケーションを
磨いていくということなのだ。

だとしたら、「空気を読め」ということを
教育するためには、
いったん「言葉を禁じる」のが
いちばんいいことなのかもしれない。



http://www.1101.com/darling_column/2006-01-23.html


2007/10/19(Fri) 20:33 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
感情はどんなに強くとも去っていく
やまんばさん夫婦は

ばあちゃんの前では、
なるだけけんかはしない。
怒りに燃えるとお互い目配せして二階に向かう。

階段の半分までは、
怒りくるっているが三分の二位になると、
しだいに納まってくる。
おまけにうちの階段はよそより少し多めで、
二階に上がった頃には、
なんでけんかしてるのやら、
わからなくなりいつのまにか
一緒にお茶など飲んでいる。


やまんばさんちは一階の天井が高いのでしょうね
二階に上がった頃には、気持ちがおさまってしまう
というのがいいですね。

夫婦喧嘩の原因なぞは、
ホントに馬鹿げたことです。

席をはずして、
深呼吸を三回位して
気持ちをそらしていたら
大概は忘れてしまいますね。

若いうちはそうもいかなかったですけど(^。^;)



2007/10/19(Fri) 20:01 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
生物と非生物の違い
 唯物論的科学では、致命的なのは、生物と非生物の区別がつかないところぞなもし。だから、西洋医学では、生物と非生物の区別がつかないから、生物を機械的、もしくは非生物のように扱ってしまうじゃね。

 東洋医学では、この区別ははっきりしている。特に漢方でいう「気」をもつものを生物とするじゃ。そして、漢方では、「気」の他に「血」「水」を基に、人体における、そのバランス状態を鑑定するわけじゃね。
 
 「気」とは、目にはみえないものじゃね。だから、計測不可能じゃ。では、なぜ、目にはみえないかといえば、目は、光を見る為にできたというじゃ。光がなければ、目はなかったというじゃ。

 「気」は、光のなかの純粋な生命力のことを指すようじゃ。光は唯物的科学では、電磁波とされているが、電磁波だけでなく、太陽光には、純粋な生命力が、隠されているというじゃ。

 この「気」を古代ギリシア時代では、「アイテール(エーテル)」、パラケルススは、「アルケウス」と呼んだというじゃ。この「気」の簡単な確認法は、下等動物の自己再生をみればよいじゃね。

 例えば、トカゲの尻尾の再生や、ゴキブリの再生じゃね。植物の再生なども、この「気」の力じゃね。つまり、生物には自己再生力があるが、無生物は壊れたら壊れたままじゃね。

 人間は、太陽光から、この「気」を上手く取り出しているというじゃ。「気」を人体に蓄えておるというじゃ。これを、「霊光」というようじゃ。

 「霊光」をあまり使い果たしてしまうと、「気」の流れが不規則になり、病気になるわけじゃね。「霊光を拝む」というが、これは元々、太陽光から「気」を蓄えることからきているわけじゃね。

 だから、朝に、太陽に向かって拝むと、人体のなかに、霊光が蓄積され、元気になるというわけぞなもし。

 だから、病気に罹ると、お前は信仰心が足りないなどと、いまでは、馬鹿にされるようなことを、昔は、当たり前のように言っていたわけじゃね。

 日本人は、「病は気から」とか、「元気」とか、「気枯れ→穢れ」と、気を日常的に使っているじゃ。恐らく、太古の日本人は、霊視により、この「気」の流れがみえていたと思うじゃね。

 直観というのは、霊視の一歩手前の認識状態で、この「気」を理由はわからないが、感じるというもんじゃね。日本語では、「気配」、つまり、気の配分を感じるわけじゃね。気を配るともいうじゃ。

 日本人は、東洋医学をいわば体得しているともいえ、これは古くは陰陽師の働きが大きいといえるじゃね。行動する前に、必ず、「気配」を感じるために、方位や天候、つまり吉兆を占うわけじゃね。

 日本文化は、日常生活から、「霊視」に至る修行を自然に取り入れたものといえるわけじゃね。人間関係から、自然に「霊視」能力を身に着ける工夫があるわけじゃね。

 いまでは、ほとんどが形骸化し、仏教伝来やら、キリスト教伝来で、偽者宗教が流行り、本質の霊能は忘れ去られてしまったが、アレンジした形で残っているといえる。勿論、お釈迦さまも、キリストさまも、本質の霊能のことを説いたのに、形骸化した現世利益的な俗物ばかりが流行ってしまった。

 日本人の以心伝心は、この「気」を感じる直観力を重んじる文化といえるが、その文化もほとんど形式化、形骸化して久しいじゃね。

 論語読みの論語知らずや、日本文化読みの日本文化知らずがホントに多い世の中だよね。勿論、ろくろくさまを除いてです。ろくろくさまは、よお~くわかっておられます。
2007/10/19(Fri) 09:46 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
人体は小宇宙
なるほどぴったりの表現ですね!
やまんばが自分が本当にふしぎ!っと感じるのは、こうした、体の構造自体も、驚異で、不思議に満ちていると感動するのですが、もう一つ、
「直感」とか「信じる」とか「愛の力」などなど。目にはみえないことを、人間はあたかもみえるがごとく、生きているということです。
やまんばはすぐに起こる自分の感情は最近あんまり頼りにしません。あれは、空に次々に湧いてる通りすがりの雲のようなものだと思うからです。 

感情はどんなに強くとも去っていく。

例えば私と夫がけんかする時
私たちは、ばあちゃんの前では、なるだけけんかはしない。怒りに燃えるとお互い目配せして二階に向かう。
階段の半分までは、怒りくるっているが三分の二位になると、しだいに納まってくる。おまけにうちの階段はよそより少し多めで、二階に上がった頃には、なんでけんかしてるのやら、わからなくなりいつのまにか一緒にお茶など飲んでいる始末です。

よくマリアさんに反応が遅い!といわれるのは、
感情が自然に去るのを待っていて、心の底から、おもむろに湧き上がる言葉を拾い上げて行動を起こしているから、遅いのだと思います。

この心の底からの声は不思議の不思議です。

すぐに教えてくれるときもあり、
感情が過ぎ去って教えてくれるときもあり、
時には、起こる前に教えてくれるときもあり、
それはそれは頼りがいがあり、やまんばの行動の本源となっています。

人間は毎日平気で、こんな不思議なことをやってのけている。すばらしい生き物!本当に感動します。
2007/10/19(Fri) 06:48 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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