すると、心が静かになる
加島祥造著「求めない」小学館より(2)
求めない――
すると
簡素な暮らしになる
求めない――
すると
いまじゅうぶんに持っていると気づく
求めない――
すると
いま持っているものが
いきいきとしてくる
求めない――
すると
それでも案外
生きてゆけると知る
求めない――
すると
改めて
人間は求めるものだ
と知る
求めない――
すると
キョロキョロしていた自分が
可笑しくなる
求めない――
すると
ちょっとはずかしくなるよ
あんなクダラヌものを求めていたのか、と
求めない――
すると
心が静かになる
求めない――
すると
楽な呼吸になるよ
求めない――
すると
体ばかりか心も
ゆったりしてくる
求めない――
すると
心が広くなる
次回につづく
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求めない――
すると
簡素な暮らしになる
求めない――
すると
いまじゅうぶんに持っていると気づく
求めない――
すると
いま持っているものが
いきいきとしてくる
求めない――
すると
それでも案外
生きてゆけると知る
求めない――
すると
改めて
人間は求めるものだ
と知る
求めない――
すると
キョロキョロしていた自分が
可笑しくなる
求めない――
すると
ちょっとはずかしくなるよ
あんなクダラヌものを求めていたのか、と
求めない――
すると
心が静かになる
求めない――
すると
楽な呼吸になるよ
求めない――
すると
体ばかりか心も
ゆったりしてくる
求めない――
すると
心が広くなる
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2007-09-27 | 悟り 解脱 道 覚醒 真理に目覚める | コメント : 6 | tb : 0
Comment
戻ってくると思っていましたわ(笑)
2007-09-28 | マリア #- | URL|[ 編集 ]
美のなかを歩かせてください
そして 赤と紫の夕陽を見させてください
私の手に あなたの創ったものを愛でさせてください
あなたの声を 私の耳に届かせてください
あなたが わが人々に教えたことを理解できるよう
私を賢くしてください
あなたが全ての葉や岩の陰に隠した教えを学ばせてください
私は力を求めます
でもそれは 兄弟より強くなる為ではなく いちばん手強い敵 自分自身と闘うためです
いつでも清潔な手と素直な眼であまたのもとへいけるよう 準備させてください
消えていく夕日のように
人生が消えていくとき
あなたのもとへ向かえるように
そのようになりますように。
ろくろくさん、マリアさん、錬金術者さん。お久さしぶりです。
やまんば、毎日絵を描き続けています。
だけど、シヨートケーキのいちごの続きが食べたくて、しばらく前から戻ってまいりました。
弱いやまんばを許してください。これからも絵をかきながら、きちんと学んでいかせてください。
でもしばらくは、今取り組んでいる絵にむかいます。
一段落しましたら、また気づきをコメントさせてください。どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。
そして 赤と紫の夕陽を見させてください
私の手に あなたの創ったものを愛でさせてください
あなたの声を 私の耳に届かせてください
あなたが わが人々に教えたことを理解できるよう
私を賢くしてください
あなたが全ての葉や岩の陰に隠した教えを学ばせてください
私は力を求めます
でもそれは 兄弟より強くなる為ではなく いちばん手強い敵 自分自身と闘うためです
いつでも清潔な手と素直な眼であまたのもとへいけるよう 準備させてください
消えていく夕日のように
人生が消えていくとき
あなたのもとへ向かえるように
そのようになりますように。
ろくろくさん、マリアさん、錬金術者さん。お久さしぶりです。
やまんば、毎日絵を描き続けています。
だけど、シヨートケーキのいちごの続きが食べたくて、しばらく前から戻ってまいりました。
弱いやまんばを許してください。これからも絵をかきながら、きちんと学んでいかせてください。
でもしばらくは、今取り組んでいる絵にむかいます。
一段落しましたら、また気づきをコメントさせてください。どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。
2007-09-28 | やまんばさん #- | URL|[ 編集 ]
続くの続き☆
実際にこの分野の研究をする人、高次の意識の研究をする人、人間の生の複雑な仕組みについてもっと知りたいという人は、ふたつの本質的なことを知らなくてはなりません。
そのひとつは、現実的(リアル)と現実(リアリティ)の違いです。
いまひとつは、物理的エネルギーと心的エネルギーと霊的エネルギーの違いです。
科学者の書いた論文には、悪魔や地獄の存在について、或いは、怯えた冠動脈血栓の患者の見る恐ろしく生々しい悪夢について書かれています。そうした悪夢は現実的ですが、現実そのものではありません。
その人の恐怖の投影であって、実に現実的ですが現実ではありません。
既に述べたように、心的エネルギーは人間が作ったものです。
本来は人間に与えられた贈り物ですが、その贈り物を悪夢や醜い否定的なものにするかは、あなた次第です。
このエネルギーを癒しの為に使って下さい。破壊の為には使わないで下さい。
呪い殺すというのは、心的エネルギーを使って、呪いを恐れている人を殺すという古典的な例です。
私だってその気になれば、心的エネルギーを使って、呪いを恐れている人を殺すことができます。
反対に、ここにいる皆さん全員がどんなに強力な心的エネルギーを使って私を呪い殺そうとしても、私が呪いを恐れていない限り、この部屋に充満した皆さんのエネルギーは私に触れることすらありません。
マイナスの感情だけがマイナスの感情を育てるのです。
恐怖や罪悪感を持たずに子供を育て、その子が自分の中からヒットラーを追い出すのを手伝ってやりさえすれば、その子をマザー・テレサのような人に育てることができます。
もう1度子供のように正直になればいいのだ、自分自身とそのマイナスの感情を虚心に見つめさえすればいいのだ、ということが解るでしょう。そのマイナスの感情を捨てる勇気があれば、あなたはひとつの「全体」となり、無条件の愛と秩序を知るでしょう。
そして、ひとたびそれを身に着ければ、それを子供達に教え伝えることができるでしょう。
リチャード・アレンは、自分のではなく父親の人生を語るなかで、その事を見事に描いています。
彼にとって父親は、最初はマイナスの塊だったのに、そのマイナスの感情や頭ごなしの態度を何とか捨てようと必死の努力をした人間の類めれな例でした。
ついには全的な無条件の愛の化身となり、それを子供に、そして子供の子供に伝えたのでした。
リチャードは晩年、人生の意味をめぐる次のような詩を書いています。
愛するときには もっているものを全て愛に捧げなさい
限界まできたら もっと捧げ そしてその痛みを忘れなさい
何故なら 死と向かい合ったとき 大事なのは あなたが与え 受け取った愛だけなのだ
ほかの一切のもの
手柄 闘い 争いなどは 思い出そうとしても忘れてしまっているだろう
十分に愛したなら 全ては報われる その喜びは最後の最後まで続くだろう
でも もし十分に愛さなかったら 死は必ず早くやってくる
その死は直視できないほど恐ろしい姿をしている
最後に、人類は皆、兄弟なのだということを解って頂く為に、ひとつの祈りをご紹介します。
これはアメリカインディアンの詩ですが、全ての宗教に通じる祈りです。
何百年にも前に書かれた詩ですが、現在にも通用するし、これから何千年たっても通用するでしょう。
美のなかを歩かせてください
そして 赤と紫の夕陽を見させてください
私の手に あなたの創ったものを愛でさせてください
あなたの声を 私の耳に届かせてください
あなたが わが人々に教えたことを理解できるよう
私を賢くしてください
あなたが全ての葉や岩の陰に隠した教えを 学ばせてください
私は力を求めます
でもそれは 兄弟より強くなる為ではなく いちばん手強い敵 自分自身と闘う為です
いつでも清潔な手と素直な眼であまたのもとへいけるよう 準備させてください
消えていく夕日のように
人生が消えていくとき あなたのもとへ向かえるように
これで私の話を終わります。
『死ぬ瞬間と死後の生』 E・キューブラー・ロス 中公文庫 ¥762(税別)
そのひとつは、現実的(リアル)と現実(リアリティ)の違いです。
いまひとつは、物理的エネルギーと心的エネルギーと霊的エネルギーの違いです。
科学者の書いた論文には、悪魔や地獄の存在について、或いは、怯えた冠動脈血栓の患者の見る恐ろしく生々しい悪夢について書かれています。そうした悪夢は現実的ですが、現実そのものではありません。
その人の恐怖の投影であって、実に現実的ですが現実ではありません。
既に述べたように、心的エネルギーは人間が作ったものです。
本来は人間に与えられた贈り物ですが、その贈り物を悪夢や醜い否定的なものにするかは、あなた次第です。
このエネルギーを癒しの為に使って下さい。破壊の為には使わないで下さい。
呪い殺すというのは、心的エネルギーを使って、呪いを恐れている人を殺すという古典的な例です。
私だってその気になれば、心的エネルギーを使って、呪いを恐れている人を殺すことができます。
反対に、ここにいる皆さん全員がどんなに強力な心的エネルギーを使って私を呪い殺そうとしても、私が呪いを恐れていない限り、この部屋に充満した皆さんのエネルギーは私に触れることすらありません。
マイナスの感情だけがマイナスの感情を育てるのです。
恐怖や罪悪感を持たずに子供を育て、その子が自分の中からヒットラーを追い出すのを手伝ってやりさえすれば、その子をマザー・テレサのような人に育てることができます。
もう1度子供のように正直になればいいのだ、自分自身とそのマイナスの感情を虚心に見つめさえすればいいのだ、ということが解るでしょう。そのマイナスの感情を捨てる勇気があれば、あなたはひとつの「全体」となり、無条件の愛と秩序を知るでしょう。
そして、ひとたびそれを身に着ければ、それを子供達に教え伝えることができるでしょう。
リチャード・アレンは、自分のではなく父親の人生を語るなかで、その事を見事に描いています。
彼にとって父親は、最初はマイナスの塊だったのに、そのマイナスの感情や頭ごなしの態度を何とか捨てようと必死の努力をした人間の類めれな例でした。
ついには全的な無条件の愛の化身となり、それを子供に、そして子供の子供に伝えたのでした。
リチャードは晩年、人生の意味をめぐる次のような詩を書いています。
愛するときには もっているものを全て愛に捧げなさい
限界まできたら もっと捧げ そしてその痛みを忘れなさい
何故なら 死と向かい合ったとき 大事なのは あなたが与え 受け取った愛だけなのだ
ほかの一切のもの
手柄 闘い 争いなどは 思い出そうとしても忘れてしまっているだろう
十分に愛したなら 全ては報われる その喜びは最後の最後まで続くだろう
でも もし十分に愛さなかったら 死は必ず早くやってくる
その死は直視できないほど恐ろしい姿をしている
最後に、人類は皆、兄弟なのだということを解って頂く為に、ひとつの祈りをご紹介します。
これはアメリカインディアンの詩ですが、全ての宗教に通じる祈りです。
何百年にも前に書かれた詩ですが、現在にも通用するし、これから何千年たっても通用するでしょう。
美のなかを歩かせてください
そして 赤と紫の夕陽を見させてください
私の手に あなたの創ったものを愛でさせてください
あなたの声を 私の耳に届かせてください
あなたが わが人々に教えたことを理解できるよう
私を賢くしてください
あなたが全ての葉や岩の陰に隠した教えを 学ばせてください
私は力を求めます
でもそれは 兄弟より強くなる為ではなく いちばん手強い敵 自分自身と闘う為です
いつでも清潔な手と素直な眼であまたのもとへいけるよう 準備させてください
消えていく夕日のように
人生が消えていくとき あなたのもとへ向かえるように
これで私の話を終わります。
『死ぬ瞬間と死後の生』 E・キューブラー・ロス 中公文庫 ¥762(税別)
2007-09-28 | マリア #- | URL|[ 編集 ]
その通りだと思う。。。
今晩は、いえ、おはようございます、かな☆
お二方のコメント、その通りだと思いますわ。
喩え自分の意思に反することでも、相手の思いを尊重してあげること
これが真の「愛」で、何も一緒にいることだけが愛ではないと。
自分の気持ちを脇に置いて、それが別離に繋がるとしても・・・ね。
そして、それが頭ではなく実際に受け止められるようになりましたわ
自分自身の体験を通して。
そこに行き着くまで、非常に長い道のりでしたけれど。
お二方のコメント、その通りだと思いますわ。
喩え自分の意思に反することでも、相手の思いを尊重してあげること
これが真の「愛」で、何も一緒にいることだけが愛ではないと。
自分の気持ちを脇に置いて、それが別離に繋がるとしても・・・ね。
そして、それが頭ではなく実際に受け止められるようになりましたわ
自分自身の体験を通して。
そこに行き着くまで、非常に長い道のりでしたけれど。
2007-09-28 | マリア #- | URL|[ 編集 ]
おぉ神よ!許したまえ!
男が女を、女が男の肉体を求めてしまうのは、
自らを認識するためであり、
更にまた、個性を認識したいがために、
自分とは全く異なる相手に惹かれてしまうわけじゃね
まず、愛を与えろじゃね。
まずは、自らを周囲に委ねてみて、
そのうち、返ってきたものが、
真の自己となる。
返ってくるものがなければ、
いつまでも、同じ事の繰り返しじゃね。
つまり、一方通行の発振ばかり続けるじゃね。
自らに気づかないために、より強く発振を続け、
更に増強してしまう愚に落ち込む。
それでも、反射しないので、虚無しか残らない。
蒔いた種は自ら刈りとらねばならない。
じゃないと、自らの存在が自覚できんじゃね。
一方通行の人は、
「おぉ神よ!許したまえ!あの人たちは、
自らが何をしているのかわからないのだから」
といわれてしまうじゃ。
これがカルマの構造といえるじゃね。
(ろくろく)
多くの人が与えているつもりで、
求めていることに気づかないでいるのです。
たとえば、
「私はこんなにも彼女(彼)を愛しているのに
少しも理解してくれない」
と言うとき、これは「愛して欲しい」と求めて
いるのだということに気づいていないのです。
好意をもっている人が今何を求めているかを
洞察しなければなりません。
自分から遠ざかりたいということであれば、
遠ざかってあげることが与えることであること
なんじゃねぇ〜〜
自らを認識するためであり、
更にまた、個性を認識したいがために、
自分とは全く異なる相手に惹かれてしまうわけじゃね
まず、愛を与えろじゃね。
まずは、自らを周囲に委ねてみて、
そのうち、返ってきたものが、
真の自己となる。
返ってくるものがなければ、
いつまでも、同じ事の繰り返しじゃね。
つまり、一方通行の発振ばかり続けるじゃね。
自らに気づかないために、より強く発振を続け、
更に増強してしまう愚に落ち込む。
それでも、反射しないので、虚無しか残らない。
蒔いた種は自ら刈りとらねばならない。
じゃないと、自らの存在が自覚できんじゃね。
一方通行の人は、
「おぉ神よ!許したまえ!あの人たちは、
自らが何をしているのかわからないのだから」
といわれてしまうじゃ。
これがカルマの構造といえるじゃね。
(ろくろく)
多くの人が与えているつもりで、
求めていることに気づかないでいるのです。
たとえば、
「私はこんなにも彼女(彼)を愛しているのに
少しも理解してくれない」
と言うとき、これは「愛して欲しい」と求めて
いるのだということに気づいていないのです。
好意をもっている人が今何を求めているかを
洞察しなければなりません。
自分から遠ざかりたいということであれば、
遠ざかってあげることが与えることであること
なんじゃねぇ〜〜
2007-09-27 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]
百聞は一見にしかず
お久しぶりでござる。
死後の世界の存在を、あれこれ記述しても、統一見解は得られずに、ほとんど意味がないと思われるじゃね。それは、十人十色ですからけんね。マリアさまの書き込みにあるように、芸術的感性と同じといえるじゃね。
しかし、芸術的感性でも、芸術的評価がある程度形になるように、基準やレベルを、ある程度、大まかに定義できるじゃね。でないと、鑑定なぞ、全く不可能ということになってしまうじゃね。
死後の世界は十人十色であるけども、人間のなかで、心が1つに統一されているように、良いものや悪いものといった感性は、大まかに統一されているといえるじゃろうね。この感覚は、同じ人間だからいえることともいえるじゃろうね。
同じ人間、つまり、同じ体験を積んだものだけが、理解できるというべきもんじゃろうね。もっといえば、同じ社会や職種、更に民族、もっといえば、同じ時代と、似たような体験が重なって、共に理解し合い、共通の基盤の認識ができあがるという感じだろうじゃ。
例えば、良心というのも、「あれをしろ、これをしてはダメ」というような心のなかの叫びと考えることができるじゃ。その叫びが、真善美に叶っているかどうかは、その行為に代償として現れる。
だからといって、心が統一されているわけではなく、十人十色で、まばらであるじゃね。実は統一されている方が不自然といえるじゃ。
我々は、脳が、人体を用い感覚から集めた情報を整理統合してくれているので、物質も、皆、似たような統一され揃った感覚で捉えることができるじゃね。
これは、季節感や、似たような自然環境の生活観から、割と当たり前のような感覚で、習慣として人体に捉えられているが、特に、日本人には、いわば、場の空気のようなもので、日本文化として統一されているので、自然のものと錯覚しやすいじゃね。
これとは、逆に、日本人が外国にいけば、忽ち、その感覚は崩されるじゃろうね。つまり、このような日常の感覚とは、当たり前のものではなく、先祖からの風習や、風土、並びに生活感によって、あらかじめ、感覚の基準として備わっておるものといえるじゃろうね。それは特に母国語によく現れていることがわかるじゃろうね。
死後の世界というものは、このことが顕になり、自らの観点を基準にしてしまうので、他とは比較ができん代物といえるじゃね。
キリスト教圏では、なんか崇高な光をキリストにみるし、仏教圏では、仏陀や仏様にみるのは、自らを基準、原点にしてしまうからじゃね。自らが水滴の一滴になって、大海を表現しろといわれても、土台無理なお話だろうね。
我々は皆、自分の立った視点からしかみることができんじゃね。これが個性じゃね。個性をもって、みるから、その反対の個性が浮かびあがるじゃ。個性がなければ、何も浮かばんじゃね。
波動は、反射されて、自らに帰ってきて、反射した部分と、反射された部分の比較により、認識されるわけじゃ。
だから、波動は反射され、自らに戻ってこない限り、認識されずに、どんどん発振してしまうじゃろう。肉体は、いわば、魂のその波動の反射鏡といえるじゃね。その反射の分析の統合装置が脳といえるじゃね。
つまり、我々は、肉体を求めるのは、自らを認識するためであり、更にまた、個性を認識したいがために、自分とは全く異なる相手に惹かれてしまうわけじゃね。
愛が成立するのは、自らに返ってくるからである。反射波を求めても無駄で、まずは、自らの個性から発し、それが返ってきてはじめて、愛と認識されるわけじゃね。
愛を求めるなかれ、まず、愛を与えろじゃね。まずは、自らを周囲に委ねてみて、そのうち、返ってきたものが、真の自己となるじゃね。
返ってくるものがなければ、いつまでも、同じ事の繰り返しじゃね。つまり、一方通行の発振ばかり続けるじゃね。自らに気づかないために、より強く発振を続け、更に増強してしまう愚に落ち込む。それでも、反射しないので、虚無しか残らない。
蒔いた種は自ら刈りとらねばならない。じゃないと、自らの存在が自覚できんじゃね。
一方通行の人は、「おぉ神よ!許したまえ!あの人たちは、自らが何をしているのかわからないのだから」といわれてしまうじゃ。これがカルマの構造といえるじゃね。
死後の世界の存在を、あれこれ記述しても、統一見解は得られずに、ほとんど意味がないと思われるじゃね。それは、十人十色ですからけんね。マリアさまの書き込みにあるように、芸術的感性と同じといえるじゃね。
しかし、芸術的感性でも、芸術的評価がある程度形になるように、基準やレベルを、ある程度、大まかに定義できるじゃね。でないと、鑑定なぞ、全く不可能ということになってしまうじゃね。
死後の世界は十人十色であるけども、人間のなかで、心が1つに統一されているように、良いものや悪いものといった感性は、大まかに統一されているといえるじゃろうね。この感覚は、同じ人間だからいえることともいえるじゃろうね。
同じ人間、つまり、同じ体験を積んだものだけが、理解できるというべきもんじゃろうね。もっといえば、同じ社会や職種、更に民族、もっといえば、同じ時代と、似たような体験が重なって、共に理解し合い、共通の基盤の認識ができあがるという感じだろうじゃ。
例えば、良心というのも、「あれをしろ、これをしてはダメ」というような心のなかの叫びと考えることができるじゃ。その叫びが、真善美に叶っているかどうかは、その行為に代償として現れる。
だからといって、心が統一されているわけではなく、十人十色で、まばらであるじゃね。実は統一されている方が不自然といえるじゃ。
我々は、脳が、人体を用い感覚から集めた情報を整理統合してくれているので、物質も、皆、似たような統一され揃った感覚で捉えることができるじゃね。
これは、季節感や、似たような自然環境の生活観から、割と当たり前のような感覚で、習慣として人体に捉えられているが、特に、日本人には、いわば、場の空気のようなもので、日本文化として統一されているので、自然のものと錯覚しやすいじゃね。
これとは、逆に、日本人が外国にいけば、忽ち、その感覚は崩されるじゃろうね。つまり、このような日常の感覚とは、当たり前のものではなく、先祖からの風習や、風土、並びに生活感によって、あらかじめ、感覚の基準として備わっておるものといえるじゃろうね。それは特に母国語によく現れていることがわかるじゃろうね。
死後の世界というものは、このことが顕になり、自らの観点を基準にしてしまうので、他とは比較ができん代物といえるじゃね。
キリスト教圏では、なんか崇高な光をキリストにみるし、仏教圏では、仏陀や仏様にみるのは、自らを基準、原点にしてしまうからじゃね。自らが水滴の一滴になって、大海を表現しろといわれても、土台無理なお話だろうね。
我々は皆、自分の立った視点からしかみることができんじゃね。これが個性じゃね。個性をもって、みるから、その反対の個性が浮かびあがるじゃ。個性がなければ、何も浮かばんじゃね。
波動は、反射されて、自らに帰ってきて、反射した部分と、反射された部分の比較により、認識されるわけじゃ。
だから、波動は反射され、自らに戻ってこない限り、認識されずに、どんどん発振してしまうじゃろう。肉体は、いわば、魂のその波動の反射鏡といえるじゃね。その反射の分析の統合装置が脳といえるじゃね。
つまり、我々は、肉体を求めるのは、自らを認識するためであり、更にまた、個性を認識したいがために、自分とは全く異なる相手に惹かれてしまうわけじゃね。
愛が成立するのは、自らに返ってくるからである。反射波を求めても無駄で、まずは、自らの個性から発し、それが返ってきてはじめて、愛と認識されるわけじゃね。
愛を求めるなかれ、まず、愛を与えろじゃね。まずは、自らを周囲に委ねてみて、そのうち、返ってきたものが、真の自己となるじゃね。
返ってくるものがなければ、いつまでも、同じ事の繰り返しじゃね。つまり、一方通行の発振ばかり続けるじゃね。自らに気づかないために、より強く発振を続け、更に増強してしまう愚に落ち込む。それでも、反射しないので、虚無しか残らない。
蒔いた種は自ら刈りとらねばならない。じゃないと、自らの存在が自覚できんじゃね。
一方通行の人は、「おぉ神よ!許したまえ!あの人たちは、自らが何をしているのかわからないのだから」といわれてしまうじゃ。これがカルマの構造といえるじゃね。
2007-09-27 | 錬金術者 #- | URL|[ 編集 ]
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あなたはご自分で思っている程「弱く」はないですから
というより人間「弱さ」と「強さ」は裏表かな?
だからこそ、あなたの「さよなら宣言」に対し、うんとも寸とも反応しなかったのだけれどね、私。
せいぜい一週間で戻ってくるであろうと。
なので、一月とは予想外ではありましたけれど(笑)
むしろよく我慢できましたね!と褒めてあげたいくらいです☆
何故なら、私、その前にその時はそう思っても「いずれ必ず戻って来る」と
ネットの現状を見、自分自身も経験していただけに、あなたが「コメントしない」ような発言をした時
そういう「宣言」をしない方がいいとコメントしたことを覚えてらっしゃいますかしら?
ネットの世界では、必ずしも「挨拶」して去ることが、礼儀に反することもあるんですね。
それが逆に「慇懃無礼」になることがあると。
本当に「さよなら」できるのなら、それは又「別」ですけれどね。
今後、もし「去りたい」という気持ちになったとしても、2度と「さよなら宣言」は
たとえ、その時、そう思ったとしてもいわないことですよ。
もう、今回のご自身の経験からお分かりになったと思いますが。。。
いきなり、温かい言葉を掛けるわけでもなく、辛口のコメントを致しましたけれど(笑)
御免なさい。でも、また同じ轍を踏みたくはありませんでしょう?
なので、あえて言わせて頂きましたわ☆
どうぞ、こちらこそ宜しくお願い致します☆