2007年09月22日 (土) | Edit |
アルフォンス・デーケン 編著「老いと死をみつめて」同文書院より(27)


Q どうしても素直に死後の生命の存在を
信じる気持ちになりません。

死後の生命を否定する意見や、
それに対する反論もお聞かせください。


A たしかにカール・マルクスやフロイトなど
宗教に批判的な眼を向ける人びとは、
死後の生命の存在を否定しました。


マルクスは来世信仰が現実社会の不正から
人びとの眼をそらし、社会を改革しようとする
意欲を失わせると説いています。

この説は一概に否定するわけにはいきません。
歴史的に見ても、抑圧された民族はこの世で望めない
幸福を天国に託す傾向が強いのです。

アメリカの黒人の歴史を見れば、この種の来世願望の
例はいくらでも見いだせます。

また、フロイトによりますと、宗教とは人間の幼児的な
全能願望の投影に過ぎず、死によって自己のすべてが
消滅するという「現実」を見据えることが、成熟した
人間の課題であると言います。

しかし、マルクス主義者のように「この世」と「あの世」
をまったくの別のものと考えて、後者を全面的に否定する
必要が果たしてあるでしょうか。

私は、むしろ両者を統合的に一つの視野に収めることの
方が大切だと考えます。

ヨハネによる福音書や聖パウロの手紙には、
永遠の生命はすでに始まっていると書かれています。

現在はまだ未完成とはいえ、永遠の生命がこの地上でもう
始まっていて、それが断たれることなく死後へも続く
道程なのだと考えると、

この世での毎日も、かけがえのない「いのちの日々」と
感じられるのではないでしょうか。


この現世と来世に関するキリスト教の考え方は、
次のように問い直してみることもできます。

ーーー自分と自分を取り巻く一切のものが、やがて消滅
すると考えるのと、自分や愛する人たちの存在や行為が、

永遠に及ぶ価値を有すると信じるのと、どちらの場合の
方が、人はこの世界をよりよくするために働こうとする
でしょうかーーーと。


次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
唯一つ重要な事は
やるべき事をいかにやるかです。
そして大事なことは、
愛を持ってそれをやるということです。


やるべき事とは、いま自分の身の回りでやるべき事。

愛を持ってそれをやるとは、思いやりをもってやる。



「いま自分の身の回りでやるべき事を
思いやりをもってやる」



2007/09/22(Sat) 19:18 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
自分の命に全責任がある
私達は自分の命というものに全面的に責任があるという事、
この事に尽きるようです。

自分の生を誰かのせいにしたり、批評したり、
また嫌ったりすることはできないのです。

限りある命をどう生きたかということに関しては、
全面的に、自分だけに責任があります。
このことに気づくと生き方は変わってきます。



大事なものは唯ひとつ、
愛だということ

それ以外の全て、
業績とか、
学位とか、
財産とか、
ミンクのコートを何着持っているか等といった事は、
どうでもいいのです。

また、私達が何をするかは重要ではない
ということも分かります。

唯一つ重要な事は、
やるべき事をいかにやるかです。

そして大事なことは、
愛を持ってそれをやるということです。


キューブラー・ロス『死ぬ瞬間と死後の生』ろくろくメモ⑨



2007/09/22(Sat) 19:17 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
「現実を直視する」
マリアさんの
「死後の生に肯定的であろうと否定的であろうと関係ない」
に大賛成です。


しかし、今日(9/22)のデーケンさんの記事

ーーー自分と自分を取り巻く一切のものが、
やがて消滅 すると考えるのと、

自分や愛する人たちの存在や行為が、
永遠に及ぶ価値を有すると信じるのと、

どちらの場合の 方が、
人はこの世界をよりよくするために働こうとする
でしょうかーーー

の問いかけには、ちょっと心が揺れ動きますね。



2007/09/22(Sat) 18:35 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
繭(マユ)と蝶☆
私達は移行を象徴するものを体験します。

それは文化によって異なり、門であったり、橋であったり、トンネルであったりします。
それを通り過ぎると、光が見えてきます。それはまさしく筆舌に尽くし難い光です。
白よりも白く、光よりも明るく、私達はその光に近付くと、無条件の愛にすっぽりと包まれます。
もし、1度でもそれを体験したら、もう絶対に死は恐くありません。問題は人生をどう生きたかという事です。

この光をほんの寸時でも見た瞬間に「全知」を得ます。
残念なことに臨死体験では、こちらに戻ったとたん、多くのことを忘れてしまいます。
覚えている事は、私達は自分の命というものに全面的に責任があるという事、この事に尽きるようです。
自分の生を誰かのせいにしたり、批評したり、また嫌ったりすることはできないのです。
限りある命をどう生きたかということに関しては、全面的に、自分だけに責任があります。
このことに気づくと生き方は変わってきます。

この信じられないような光は、それぞれの文化によって「キリスト」とか「神」とか「愛」とか「光」と呼ばれていますが、この光の前では、私達は自分のしてきたこと全ての責任を問われます。
この時私達は、自分がいかにしばしば正しい選択をしそこなった、その選択のおかげでどれほど苦しんだかを悟るのです。そして理解します。

大事なものは唯ひとつ、愛だということを、それ以外の全て、業績とか、学位とか、財産とか、ミンクのコートを何着持っているか等といった事は、どうでもいいのです。また、私達が何をするかは重要ではないということも分かります。唯一つ重要な事は、やるべき事をいかにやるかです。
そして大事なことは、愛を持ってそれをやるということです。

この全的な無条件の愛に包まれた時、私達は人生の一つひとつの行いだけでなく、自分の存在全体の、思考、言葉、行い、選択の一つひとつが如何に人に影響を与えたかを知ることです。
私達の人生は学校に他なりません。私達はそこでテストされ、洗濯機のような物の中に放り込まれるのです。
その洗濯機からつぶれて出てくるか、磨かれて出てくるかは、誰か他の人のではなく、あなた自身の選択によるのです。

臨死体験は、必要ならいくらでも集められます。しかし私は、そんなことをする必要はない事に気づきました。
信じたい人は信じるし、知りたい人は答えを見つけます。
しかし準備のできていない人は、1万5千件の例を見せたとて、1万5千の合理的な説明を思いつくのです。
それは彼らの問題なのです。

最後に言っておきたいことがあります。ムーディの最初の本『死後の生』は、信頼できる唯一の本で役に立ちますが、死とは何かを教えてくれる訳ではありません。
というのは、あそこに挙がっている例は全て死の体験ではなく、臨死体験だからです。

物理的エネルギーである肉体を脱ぎ捨てた後、私達は第二の完全な身体を作ります。
それは、盲目でもない、手足を切断されてもいない、乳房を切除されてもいない、傷ひとつない身体です。私達は心的エネルギーを使ってそれを作ります。
この身体は、人間の心が作った、人間が操る身体です。

永遠の死、恐ろしい言葉を用いるなら、もう2度と元には戻らない死、その死を得ると、私達は違った形態をとります。それは生まれる前と死んだ後の形態です。
ムーディの言葉を借りれば、私達は光に向かってトンネルを通りぬけるとき変化するのです。
その光は純粋な霊的エネルギーです。霊的エネルギーは、この宇宙で、人間が操る事のできない唯一のエネルギーです。(続く。。。)

『死ぬ瞬間と死後の生』 E・キュブラー・ロス 中公文庫 ¥762(税別)
2007/09/22(Sat) 17:18 | URL  | マリア #-[ 編集]
アハハハハハ・・・
こんにと、って!(笑)・・・意味不明でしょ?

何のことだろうとお思いになりましたでしょ(笑)

こんにちはって打とうとして、打ち間違い消し忘れたの(笑)

御免なさいまし、そそっかしくて!

でも、見た瞬間大笑いしてしまいましたわ♪

自分で笑っている、なんて世話がないですけれど☆
2007/09/22(Sat) 15:04 | URL  | マリア #-[ 編集]
成熟した人間の課題☆こんにと
こんにちは☆

確かに「死後の生」を信じる人の、その<受けとめ方>も様々で、それを今の人生からの現実逃避にしている人がいますものね。

デーケン氏、ムーディ氏、ロス博士・・・その他大勢の人間が「死後の生」を確信すると同時に、より「今ある生」人生を尊び、大切に思うようになったのとは対照的に。

まるでゲーム感覚のように、今の人生をリセットし、「死後の世界」に「来世」に望みを託し、驚くことに安易に死んでしまった、しまおうとする人間も一方に存在しているのも事実で、そうなると、もう本末転倒!
ゲームですら今のステージを<クリア>しなければ、次の段階には進めないのと同様、「今」の人生を大切に生き抜いてこそ、次なるステップへと繋がっていくと、考えれば(いや考えずとも)分かりそうなものを。。。

死後の世界なんてない、死ねば「無」になるからと安易に考え死のうとする人間もいれば、前述のように、死後の世界に希望を託し、早まって死のうとする人間もいることを考え合わせ、冷静にその「現実を直視する」のであれば「成熟した人間」とは死後の生に肯定的であろうと否定的であろうと関係ない。

たった1度きりの○○としての人生を「今ある生」を大事に、そこに焦点をあわせて生きている人、それが真に「成熟した人間」ではないか、と私は思いますわ☆
2007/09/22(Sat) 14:48 | URL  | マリア #-[ 編集]
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