2007年09月21日 (金) | Edit |
アルフォンス・デーケン 編著「老いと死をみつめて」同文書院より(26)


ウィリアム・ジェームスの説によれば、
私たちは自分の中に90パーセントもの可能性を
眠らせたままでいるのです。

その一方で、人間には成しとげるべき課題が
際限なくあります。

そこで人間には、本質的に生死を超えて、
限りなく自己実現を続けなければならない
義務があると考えられます。


ジェームスは、最晩年になるまで死後の生命の問題を
まったく無視していました。しかし、死の数年前に
以上の推論に達した彼は、ようやく死後の生命の可能性
を信じるようになったのです。

その心境を尋ねられた彼は「わたしもやっと生きるに
ふさわしい人間になりかけているからだ」と答えています。

年をとってからジェームスと同じような感慨を抱く人も
結構多いのではないでしょうか。

ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、自分の学説の必然
的な要請として、魂の不死を借定していますし、ゲーテも
霊魂の不滅については、何度も繰り返し語っています。

ゲーテによりますと、死とは落日のようなもので、
私たちの眼からは隠れても、太陽そのものは地平線の
向こうで変わらず輝いているのだと言っています。

死後の生命を肯定する議論のうちで最も独創的なのは、
フランスの実存哲学者、ガブリエル・マルセルの説だと
思われます。

マルセルは自分の死ではなく、自分の愛する人の死を考察して
「問題は私やあなたの死ではない。私たちの愛する人の死なのだ」
と書いています。

彼は愛を分析して、真の愛は時間の制約を超えて相手が永遠に
生き続けることを希求すると言います。

愛する者の死に接して相手の消滅を思うならば、
それはその愛に背信を犯したことになり、

逆に相手の死後の生命を確信するならば、
それが真の愛の証だというのです。

「人を愛するとは『汝、汝死すべからず』ということだ」
というマルセルの有名な言葉は、愛と死の神秘を余すところなく、
美しく伝えていると言えるのではないでしょうか。

また人間の成長を促す喪失体験を「小さな死」と「小さな誕生」
と捉えて、そのアナロジーから「大いなる死」に続く
「大いなる誕生」を期待するという考え方もあります。

芸術家、特に文学者は死後についてのきわめて印象深い、
霊感に満ちたビジョンをくりひろげてくれます。

最近の科学的観察としては、臨死患者の体験を研究した
カーリス・オシスとアーレンダ・ハラルドスン両博士の
『人間が死ぬとき』(笠原敏雄訳・たま出版、1979年)
があります。

また、医学博士であり精神科医でもあるレイモンド・ムーディJr
の著書『かいまみた死後の世界』(中山善之訳・評論社、1977年)
は、死に瀕した人や蘇生した人たちの証言をもとにして死の体験
の客観的な再構成が試みられています。

『死ぬ瞬間』(川口正吉訳・読売新聞社、1971年)などの著作で
知られるエリザベス・キューブラー・ロス女史もオシスやムーディ
を支持して、自分も死後の生存を確信すると公言しています。



次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
臨死体験は脳内現象
私も十年以上も前ですが立花隆さんの『臨死体験』を
読みました。そのとき印象深かった説に、
「臨死体験は脳内現象である」というものでした。

そのころからわたしは
臨死体験は脳のなかにプログラミングされていて、
極端な酸欠状態のときなどに、自動的に実行されるもの
ではないのかな~と考えるようになりました。



2007/09/22(Sat) 17:35 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
臨死体験、NDE(Near Death Experience、ニアデス体験)
直訳語は「近似死体験」


死にかかったときに不思議な体験「臨死体験」をする人びとは、
それまで自分が見聞きしたものを見ているということのようです。

欧米人など、キリスト教徒はイエス・キリストや天使を見、
日本人は三途の川や阿弥陀如来など仏を見る。

幼い頃から聖書の教えを聞かされて育った人は、
信心の有る無しにかかわらず、キリスト教的なビジョンを見、
信仰心の薄い日本人であっても、
小さいときから聞かされてきた死後の世界のイメージが、
自らの臨死状態で垣間見るビジョンに色濃く反映する。


お花畑、トンネル、死者との対峙などの「死後の世界」を見たり、
一生の記憶のリピート現象(走馬灯)、
体外離脱と呼ばれる体験をしたなど、臨死体験には
一定のパターンが存在するという説もある。


2007/09/22(Sat) 17:19 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
生と死は同じ世界にある☆
今晩は☆

立花隆氏の『臨死体験』の中から、氏が記事にもあるレイモンド・ムーディ氏にインタビューした件を非常に興味深い内容ですゆえ、抜粋させて頂きたいと思います☆

ー死後の世界という場合、何が死後に存続するとお考えですか。

「実は、私は、死後の世界という表現はあまり正しいものだとは思っていないんです。
死後の世界を意美する英語の表現はいろいろあります。どの表現をとっても時間的、あるいは空間的にこの世とは隔絶した向こう側の世界であることを意味しています。
私はどうもそこのところが、根本的に違っているのではないかと思うのです。
この世とあの世とは時間的にも空間的にも別れているのではなく、実は繋がっているのではないか。
いやもっと言えば同じ世界なのではないか。同じ世界なのに見え方が違っているのではないかと思うのです。
1つのたとえ話をすると、私が子供の頃、テレビは3チャンネルしかなくて黒白でした。
ところが今のテレビでは41チャンネルもあって、カラーでステレオで、ニュースは24時間流されていて、地球の反対側の出来事とも衛星中継でリアルタイムで見られます。昔は昔で、世界を見たつもりになっていたけれど、実は殆ど何も見ていなかったのだという事が今になって分かります。
死を境にして起こる変化というのも、そういう世界の見え方の変化ではないかという気がします。
我々はこの世における認識が全てだという気がしていますが、そうではない。
我々はこの世では何も見ていないに等しい。死によって、人間の認識能力はとてつもなく拡大し、これまで見えなかったいろんなものが見えてくる。その時、どういうものがどういう風に見えてくるのか、この世に留まっている我々にはとても想像がつきません。ただ、臨死体験者の報告では多少はその想像がつくということなんじゃないでしょうか」

ーでも、臨死体験と死そのものとは違いますよね。

「違います。ですから彼らの報告も、死そのものの向こう側に広がる世界を、ほんの小さな穴を通して見たという程度のことに過ぎないと思います。本当の向こう側は、やはり自分が死んだ時でないと分からないと思います」

ーじゃあ、死ぬのが楽しみですか。

「ええ、早く死にたいということじゃないんですが、とても素晴らしい事なんだろうと期待しています。
私が臨死体験の研究をやって本当に良かったと思うのは、死に対する恐怖から完全に解放された事です。
今の私には死に対する恐怖は全くありません。そして、生きることがとても大切に思えてきました。
逆説的に聞こえるかもしれませんが、そうなんです。
昔、死によって人間の存在が完全に消滅して無になると思っていた頃は、だからこの生を大切とは思わず、生きるなんて大したことじゃないんだ、と一種のニヒルな感情を持って人生を眺めていました。それが、死後の生を確信すると共に、逆にこの世の生がとても大切になり、もっと沢山のことを学びたい、沢山の人と知り合い、もっといい人間関係を結びたいと考えるようになったのです。
つまり、死後の生の問題から解放されると伴に、もっと生きている間にやるべき事があるということに気がついたのです。死んで向こうの世界に行った時に
『いやあ、実は大した事は何もやっていません。人は死んだらどうなるかを考えているうちに一生が終わってしまいました』と、頭を掻きながら答えるような破目にはなりたくないということです」

ーその確信はいつも全然揺るぎませんか。時にはもしかしたら違うんじゃないかと思うことがありませんか。

「世界が私が考えた通りの構造になっているかどうかという点についての哲学的な確信という点では、時に揺らぐ事があります。しかし、死後の生の存続を確信し、死に対する恐怖がなくなり、死後の問題で心がかき乱されることが無くなったという点が揺らいだことは、1度もありません」

ー死後の世界というと、霊媒による交信とか、チャネリングといったことがよく話題になりますが。

「ああいうことには全然関心がありません。チャネリングの可能性については肯定も否定もしません。
関心がないから何も知らないのです。ひとつだけ言っておきたいのは、ああいうことに熱中しすぎると、健全な判断力を全く失ってしまう危険性があるということです」

ーIANDSの国際会議の記念講演で、自分は超常現象一般には懐疑的であると述べられておられましたね。

「ええ、言葉の本当の意味で、懐疑的です。そういうものは絶対にないと積極的に否定しているわけじゃないんです。未だ信じるに足る証拠を見せてもらってないということです」

ー臨死体験の研究者や体験者の中には、臨死体験をそういう超常現象一般と共通の基礎を持った現象であると考える人達がいます。臨死体験者は、さまざまな超能力が開発された、進化した人間である、来るべき未来においては、人間全体がそういう方向に進化していくのであって、連枝体験者はそのそういう人類進化の先駆けなのだという、いわゆる「ニュー・エイジ」の考え方がありますが。

「私は、ああいうのは悲しむべき現象だと思っています。ああいう人達は、あらゆるものに警戒心を無くしてしまって、何でも無批判に受け入れてしまうのです。極端に懐疑的になって、科学的に厳格に証明されないものは何一つ信じないという人も困りますが、反対に、何でも信じてしまう人も困りものです。
私は、真理に一番近付くための健全な態度は両者の中間にあると思っています」

ーでも、最終的には科学的証明がないと、広く一般の人に受け入れられないんじゃないですか。

「それはその通りです。世界中どこでも現代社会は科学主義の基盤の上に立っていますからその通りでしょう。
しかし、厳密な科学主義は世界をあまりに縮めてしまいます。この世界には、厳密な科学的方法論を適用できない現象がまだ沢山あるのです。そういう現象を無視することはできません。
しかしまた同時に、こういう科学的方法論を適用できない対象について語ろうとする時には、自分達はそれについてまだ確実な事は何も言えないのだということを常に認識しておくことが必要です」

ー臨死体験についても、そうですか。

「そうです。私はいつも、科学的には何も証明されていないことを強調しています。死後の世界の問題についても、私はそれを信じるようになったというだけで、そういうものがあると証明されたとは考えていません」

ーすると先程、超常現象を信じる人を批判されましたけれど、彼らにも、証明されないけれど自分は信じるようになったという権利もあるんじゃないですか。あるいは、懐疑派の人が、自分には信じられないという権利もあるんじゃないですか。結局、何をリアリティとするかは、主観的判断によるということになってしまうんじゃないですか。

「多分そうなんでしょう。最終的にはそれは主観的判断を拠り所とする点において、それは美学の範疇に属する問題なのかもしれません。素晴らしい臨死体験を聞いた時に、それに感動して新しい世界認識を持つか、それとも、そんなのは下らない幻覚だよといって笑い飛ばすかは、美しい絵を見て感動する人もいれば、チラリと見て、肩をすくめて歩き去るという人もいるというのと同じ様なことなのかもしれません」

ー今も臨死体験の研究は続けておられるのですか。

「関心は持ち続けていますが、具体的には特別の研究は何もしていません」

ー今はどんな研究を。

「私は、人間の心の神秘にふれるあらゆる現象に興味を持っています。人間の心の世界はまだ分からないことばかりです。科学はまだ人間の心の世界の入り口にやっと辿りついたくらいのところで、何も分かってはいないのです。臨死体験の研究をした元々のモチベーションもそこのところにあった訳です。
人の心の不思議を解き明かすアプローチは他にも色々あるわけで、このところひとしきりやっている研究は、入眠時幻覚(hypnagogic hallucinations)に関する研究です」(56~61ページ)

『臨死体験』下巻 立花隆 文芸春秋 ¥1800 
2007/09/22(Sat) 00:29 | URL  | マリア #-[ 編集]
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