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2007年09月20日 (木) | Edit |
アルフォンス・デーケン 編著「老いと死をみつめて」同文書院より(25)


Q この頃「人間は死んだらどうなるのか」
という疑問が頭から離れません。

いったい死後の生命の存在を説明する方法
はあるのでしょうか。


A 「人間は死んだらどうなるのか」という疑問は、
霊的ニーズ(spiritual needs)の代表的なものと
言えます。


特に死を間近に控えた病人などは、
「自分は何のために生きてきたのか」、
「何のためにこんなに苦しまなければならないのか」

といった疑問にさいなまれて、
これが肉体的な苦痛にもまさる
大きな苦しみとなることがあります。

死後の生命の存在を科学的に証明することは、
少なくとも、今の時点では不可能です。

しかし、死ですべてが終わるという証明も
まだなされてはいません。

もしも、死によってすべてが無に帰するなら、
生の営みも結局は不条理と考えざるを得ない
わけですが、

死を新たな生への入口と考えるならば、
人生の労苦も決して無駄ではないということに
なります。

私は欧米や日本の病院で多くの患者の臨終に
立ち会いましたが、死後の永遠の生命への期待と
希望は、死に臨む人びとにとって、ほんとうに
大きなこころの支えとなっていました。

しかし、死と死後に積極的な意味や希望を
見いだせない場合には何をしてもむなしいし、
この世の人生も結局はどうでもよいものに
なってしまいます。

死後の生命を信じるというのは、
現在の生にも意義を見出すことなのです。

ゲーテはこのことを「来世に希望を持たぬ人は
この世ですでに死んでいるようなものだ」という
強い言葉で表現しています。


死後の生命についての研究

近年、多くの心理学者は、人間の潜在的能力可能性
(human potential)が、ごく一部分しか実現されて
いないと主張しています。
そこであげられる数値は人によってさまざまです。

たとえば、アメリカの心理学者ウィリアム・ジェームス
は、自分の潜在能力の10パーセント以上を発揮している
人にはまだ会ったことがないと述べています。


次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
私は私であって本当に良かった
「この世は夢(ゆめ)幻(まぼろし)の如くにして、
何が本当のことかわからない。いのちははかなく、
一瞬の間に過ぎてしまう。

一度この身を失えば、二度とこの世に生まれることはない。
今ここにおいて、自分とはいかなるものなのかを
はっきりさせなければ、生きとし生けるものすべてを救わん
という仏の願いにかなうことがない。

願わくば、すべてのものは移り変わっていくという事実に目覚め、
深く悔いなく生きてほしい」

人生は、誰にも代わってもらうことができません。
二度とやり直しのきかない、
一回限りの人生を誰もが生きているのです。

この身が、たとえどんな境遇にあっても
「私は私であって本当に良かった」
「かけがえのないこの身を賜(たまわ)っていた」と
頷(うなず)くことができる、
体中で感動する「自分自身との出遇(あ)い」
を求めて私たちは生きているのではないでしょうか。

和田廣樹(神奈川県・来福寺副住職)より


2007/09/20(Thu) 20:53 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
楢山節考
マリアさんが言われるとおり映画「道」では
ジェルソミーナは「天使」ザンパノは「悪人」扱いが
常識?になっていますです。

それで思い出したのが映画「楢山節考」の受け止められ方です。

残酷なだけの「うば捨て伝説」の映画ととらえられていますが、
おりん婆さんは自分が家族のために犠牲にになるのを喜んでいる
のです。


どこまでも山ばかり―――信州の山々の間にある村、
向こう村のはずれにおりんの家はあった。
おりんは今年六十九歳だが、二十年も前に亭主は死に、
一人息子で孝行息子の辰平の嫁も谷底へ落ちて死んでしまい、
今は後に残った四人の孫の面倒より、
辰平の後妻を捜すことの方が頭の痛いことであった。
辰平も四十五歳。今のところめぼしい後家は見当たらないからである。

楢山祭りが三度来りゃよ
栗の種から花が咲く

その日、おりんは待っていた二つの声を聞いた。
一つは辰平の後妻が見つかったことを知らせに来てくれた声。
その後家は辰平と同じ四十五歳で、三日前に亭主の葬式がすんだところだという。
そしてもう一つは、あの祭りの歌であった。

この歌は、三年たてば三歳年をとる、と言う意味で、
村では七十になったら楢山まいりに行くので年寄りには
その年が近づくのを知らせる歌でもあった・・・・

おりんは辰平が言い出す時を待っていた。だが辰平はやさしい。
なかなか言い出さない。おりんは今でも丈夫な自分の歯を火打石で砕こうともする。

辰平の息子のけさ吉が、不思慮にも隣家の娘・松やんと通じ子を孕ませ、
さらに家族が増えることに至っては、
さすがに辰平も、今年の冬が越せるか深刻に悩む。

「おばあやん、来年は山へ行くかなあ」
おりんはそれを聞くとほっとした。
辰平はやっとその気になってくれたのだと安心したのである。

おりんはすぐ云った。
「向こう村のわしのおばあやんも山へ行ったのだぞ、
このうちのお姑も山へ行ったのだぞ、わしだっていかなきゃァ」


おりんは、自分が山へ捨てられることを「自然」のこととして受け止めている。
「自然」であるという認識がある上に、息子・辰平が自分に向けるやさしさ、
母親に死んでもらいたくないという愛情もまた「自然」の親子愛として受け止め、いとおしんでいる。


もう一度深沢七郎の原作を読み直してみたいです。

松岡正剛の千夜千冊『楢山節考』深沢七郎
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0393.html


2007/09/20(Thu) 20:33 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
なんのために生まれた
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも

なんのために 生まれて
なにをして 生きるのか
こたえられないなんて
そんなのは いやだ!
今を生きる ことで
熱い こころ 燃える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも
ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため

なにが君の しあわせ
なにをして よろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ!
忘れないで 夢を
こぼさないで 涙
だから 君は とぶんだ
どこまでも
そうだ おそれないで
みんなのために
愛と 勇気だけが ともだちさ
ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため

時は はやく すぎる
光る星は 消える
だから 君は いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ どんな敵が あいてでも
ああ アンパンマン
やさしい 君は
いけ! みんなの夢 まもるため




「アンパンマンのマーチ」
作詞:やなせたかし



2007/09/20(Thu) 19:49 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
訂正☆
御免なさい(笑)

一途でひたむきな女性の愛の方が・・・劣って見える、では勿論なく

一途でひたむきな女性の愛のほうが、勝っているようにみえる、の間違いです

訂正するまでもないでしょうが。。。

2007/09/20(Thu) 17:20 | URL  | マリア #-[ 編集]
死後の生☆
>死後の生命を信じるというのは、現在の生にも意義を見出すことなのです。ゲーテはこのことを
>「来世に希望を持たぬ人はこの世ですでに死んでいるようなものだ」と強い言葉で表現しています。

私自身は死後の生を殆ど確信していて、そしてそれがある種楽しみ?でもあるのですが
「来世」となると、う~ん、希望が見出せないといいますか、生まれ変わってきたくはないですわ、もう。
2007/09/20(Thu) 17:00 | URL  | マリア #-[ 編集]
それと。。。
男女の、人間の心のすれ違いをよく描いた映画でもありますよね。

ジェルソミーナだけではなく、ハッティも、彼が実はどんなに彼女を愛していたかを、その「愛情の深さ」を知ることなく年を取り、死んでいったと思いますわ。
2007/09/20(Thu) 16:43 | URL  | マリア #-[ 編集]
ギター弾きの恋☆
こんにちは☆

いい映画ですよね☆

サマンサ・モートン演じるところのハッティも、ギター弾き役のショーン・ペンも、とても良かったし。
ハッティが、演奏する彼のその姿とギターとにウットリ・・とした目で聴き入っている、その表情が恋する女心そのものを物語っていて、恍惚とは「惚れる」とはまさにこのこと!(笑)・・・それくらい「ウットリ」とし、トロンとした潤んだような目で。

この映画ってウディ・アレンがフェリー二の『道』にオマージュして作られた作品でしょう?
それだけに、設定は違えどそのベース的な部分では、重なり合うというか「テーマ」は同じですよね。

『道』のザンパノにしてもギター弾きにしても、ともに芸人であり、その人生観、恋愛観といい共通していて、ともに最初の出会いは、一目惚れでも激しい恋に落ちていくというのではなく、徐々に徐々に彼らの心に(それと気づかぬうちに)愛情を芽生えさせ、彼ら本人も思いもよらぬ程、心の中深く大きな位置を占めていったのも、そしてどこかその「想い」に抵抗し否定し認めたくないという気持ちも・・・そして失った後で、初めて、その「想い」の深さに気づき愕然とし、「後悔」という激情に激しく揺さぶられるのも・・・そして、その彼らの気持ちも痛い程よく解ります。今の私には。。。

それで思い出したのが、やはり『道』の映画批評をネットで見ていた時に、あるプログにて、ザンパノに対して痛烈な批判をしているのを読んで(大体、どの批評でもジェルソミーナは「天使」ザンパノは「悪人」扱いされてはいたのですが)ビックリした事があります。

いわく「虐待」「DV」「人権云々」「極悪非道の限りを尽くす」「いじめにいじめつくす」「男女差別」「冷酷無比」etc・・・田嶋陽子かと思いました!(笑)・・

少なくとも「その手」に毒され、影響をモロに(それも大真面目に)受け取っている「女」であるのは絶対確実!間違いなし、って。暫し呆然とし、絶句した後、思わずーどんな人物が書いたのであろうーと、思わずプロフィールに目をやると案の定「30歳、主婦、性格ー猪突猛進」とあり、妙~に納得したのですけれど(笑)

私、最初、同名の違う映画評を読んでいるのでは?、という錯覚を覚えたほど(笑)
でもザンパノ、ジェルソミーナと書いてあるからには『道』である事は疑いようもなく。。。
観ている観点、視点が全っ然違うの!時代背景や人物のその裏にある背景を、全く見事なくらい無視して!

これも『ギター弾き・・』も、勝手な男とそれに振り回される一途で純情な女、という面と同時に、勝手ではあるけれど不器用ではあるけれど、彼女らに対する彼らなりの「愛情表現」も所々あって、むしろ、その「情」を感じさせるようなさり気無いシーンが対比的に、根底にあるのに。

ザンパノにしろギター弾きにしろ「芸人」という、旅から旅へひとつ所にいられない根無し草。それが彼らの人生観、恋愛観にも影響しているわけで、定住である「家庭」とは無縁の生活。その日暮らしで自由気儘、気楽に誰にも縛られないためには、特定の相手に「情を移す」ことは、その根底を覆すようなただならぬ事態ですもの。

でもその一方で、それ故の孤独があって一旦、一途なひたむきの愛情その心地よさ温かさに触れると、なし崩し的に吸い寄せられていくだけに(笑)今まで自分だけを頼りに人を当てにせず生きてきただけに、それに抵抗するが如く、意識的にセーブして心の中には立ち入らせまい、引きずられまい、と一線を引こうとしているのも解りますし(笑)

遠藤周作さんが『道』を評して「数ある恋愛映画の中で『愛』を描いた数少ない映画のひとつ・・」というような趣旨のエッセイを昔読んだことがあって、あ~、なる程なぁ・・と深く納得したことを覚えています。

どうしても対比として、一途でひたむきな女性の愛の方が、勝手気儘な男性の方の彼女らに対する愛より、劣ってみえる・・・というより対照的に描かれて、それが一般的で普遍的な男と女の本質的な違い、愛情表現の違い、を浮き上がらせてはいるものの「愛情」にかけてはザンパノもジェルソミーナも、ギター弾きもハッティも何ら変わらない「深さ」を私は感じましたので、先の女性の「男性横暴説、女性被害者説?」のような(私からすると)極端で一方的な偏った見方には違和感を感じるのと同時に、改めて、人の観点てさまざまだなぁ、と思い知らされましたわ。

御免なさいまし(笑)

『ギター弾きの恋』の映画評を読んでいて、つい『道』の映画評を思い出してしまいましたので。。。
2007/09/20(Thu) 16:18 | URL  | マリア #-[ 編集]
我の内が死後であり、外が生なり
 秘教によると、太古の人間は、現在に比べて、自我がまるでないかのように弱かったというだに。だから、「私」という言葉はなかったじゃ。

 「私は思う。感じる。行う。」ということはなかっただに。それは現在のような、肉体のなかで、肉体の感覚、肉体を駆使し、非常に粗い波動の物質波を捉えることができるようになってから、自我認識が生じてから生まれた意識というだに。

 だから、太古人は、自分がないので、自らの行為を、まるで他者が行ったかのようにみたというじゃ。だから、全てが、神々が行ったようにみえたというじゃ。ただ、人間は、それをまるで映画をみるように見たというじゃね。

 この状況は、いまでも、人間の手の届かない領域、例えば、原子雲以下(プランク長以下)のミクロや、宇宙のマクロ領域に当てはまるといえるじゃろう。そこでは、人間は、観測しか行えないのであるからだに。そこでは、まだ自然という神々の領域じゃね。

 つまり、現在の人間の可視領域と可聴領域を超えたところには、かつての太古人が体験したものと同じ感覚が残っているといえるじゃね。

 太古人は、現代人が、この領域を観測機を用いて観測するように、かつては肉体を用いて、神々の行為を眺めていたというだに。それは、いまでは、まるで、PCを使って、ネットの世界を覗くものに相当するだろうね。

 肉体は、いわば、観測機、或いはPCなので、止まってしまい、使えなくなると、その観測領域では、何も見えなくなるので、その観測領域に居留まろうとすると、まるで、存在がなくなったかのように思えるが、他の観測領域があるので、その水準に戻ればいいわけじゃね。観測機がなくなっても、死ぬわけではない。

 だが、その領域での観測値が取れなくなり、位置感覚がなくなるので、つまり「私」という感覚がなくなってしまうので、全てが、他者の行うものにみえるわけじゃね。だから、あの世の世界は、この世と反対の鏡にみえるというわけじゃね。

 だから、あの世では、私というのがどういう存在だったのか、特に、どういう行為を行うのかがわからないと、途端にパニックになるわけじゃね。特に、何事も他人任せにしていると、忽ち迷子になり、路頭に迷うわけじゃね。

 人間の本性としては魂の同じ傾向(波動)に惹きつけられるわけじゃ。だから、悪人は悪人に、善人は善人に惹かれ会うじゃね。いわば、生前、つまり肉体を基に行った観測値の近い者同士が、寄り集まるわけじゃね。

 しかし、宇宙は進化し、常に拡大、膨張しているので、何時までも気の合った者同士がくっついているわけにはいかないし、それでは進展もないじゃろう。だからバラエティに富んだ交際や、新たな展開も必要になるじゃろう。その為に、また地球に生まれてくるじゃね。

「自分は何のために生きてきたのか」という答えは、多種多様な人との愛の育みを営むためであり、「何のためにこんなに苦しまなければならないのか」は、自らの魂がより大きく、宇宙の発展のように、波動が常に微妙にフレキシブルになるために、いわば脱皮するための、生みの苦しみというべきものじゃろうね。
2007/09/20(Thu) 10:16 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
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