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2007年09月19日 (水) | Edit |
アルフォンス・デーケン 編著「老いと死をみつめて」同文書院より(24)


Q 昔から多くの人が、
死後にも永続する生命の存在を信じて、

来世に希望を抱いたと言いますが、
そうした歴史の流れをお教えください。


来世信仰は人間性そのものに深く根ざす

A 死後の生命の可能性については、人類史上、
耐えることなく信じられてきました。


来世信仰は、あらゆる民族、文化、時代を通じて
広く浸透しています。古代エジプトから現代アメリカ、
アフリカの未開民族からアラスカのエスキモー、

インドのヒンドゥ教から日本の神道や仏教まで、
来世信仰の伝統は至るところに脈々として流れています。


全世界に及ぶ「来世信仰」

人類最古の書物といわれる「エジプトの死者の書」は、
紀元前3500年頃から伝えられてきたもので、
この書には永遠の生命に至る霊魂の旅の行程が、
疑う余地のない事実として描かれています。

古代エジプト人が死後の生命の存在を
固く信じていたことは、壮大なピラミッドや
無数のミイラを見てもよくわかります。

アメリカ・インディアンの各部族では、
生者と死者の深い霊的な一体感が
社会生活の規範のようになっています。

また「チベットの死者の書」は、
死にゆく人に死に対する心構えをもたせ、
天国での再生という新しい段階に手引きすることを
目的として書かれました。

コーラン、聖書など、ほとんどすべての宗教書は死後に
ついて語っていますし、世界各地の死者儀礼も、明らかに
来世の存在を前提として行われているのです。

これは過去の時代や未開部族に限ったことではありません。
1975年のギャラップ世論調査では、アメリカ人の69パーセ
ントが死後の生命の存在を信じていると考えています。

もちろん日本でも例外ではなく、各地方のお盆の民族行事
や、沖縄のニライカナイ信仰などは、伝統的な祖先崇拝を
通して、生者と死者の心の交流を図る好例と言えるのでは
ないでしょうか。

死後の希望は人類共通の願望

また、哲学史上にも、死後に関する長い伝統があります。
古代ギリシャではソクラテスやプラトンが霊魂不滅説を
説いています。

これは人間の内なる本質すなわち霊魂は本来不滅であり、
善き人の魂は死後に肉体を離れて、完全なる幸福を得る
ために新たな存在の次元に移るとする説です。

思想と行動の一致を重んじたソクラテスは自分の説に
殉じて、無実の罪による処刑を従容として受け入れたと
言います。

この説は、ことさら肉体と霊魂を対立させた上で肉体を
軽視する極端な二元論です。人間を心と身体の不可分な
統一体とみる現代的な人間観とは、相容れない天があり
ますが、

人間の本質は不朽であると説くプラトンの教えは、人間性
の尊厳を端的に示していて、後代の哲学者にも大きな影響
を与え続けています。

このように死後に強い関心を抱くのはあらゆる民族に普遍
的とも言える共通の性向であり、この歴史的事実は、来世
信仰が人間性そのものに深く根ざしていることを物語って
いると思われます。


次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
「他の人は皆良いのに私は悪い
他の人は皆小麦なのに私はもみ殻だ」
と認めることができたらイスラムの世界では
謙虚な人となるようです。


タワドゥ(謙虚さ、慎み深さ)は横柄さや高慢さ、
傲慢さの反対のことです。

また、アッラーの前における自分の本当の位置
というものをわかっていることや、
その認識がアッラーと人々に対する自分の行いを
定めることとも解釈されます。

もし自分自身を平凡な被創造物の一部、
すなわち、扉の敷居や、床や敷石に広げられたマット、
小川の中の小石、野原の中のもみ殻として捉えたら、
そして、もしムハンマド・ルトゥフィ・エッフェンディが
したように心から「他の人は皆良いのに私は悪い。
他の人は皆小麦なのに私はもみ殻だ。」
と認めることができたら、
天国の住人がその人の頭に口づけるでしょう。


預言者(彼に平安と祝福あれ)の伝承で
「謙虚な人は皆、アッラーの賛美を受ける。
高慢な人は皆、アッラーが屈辱を与えられる。」
と言われています。したがって、
人の本当の偉大さは自分が偉大であるように
振る舞うことに反比例し、
本当の小ささは自分が小さい者であるように
振る舞うことに反比例するのです。

http://isuramu.netfirms.com/sufizm/sufizm24.htm


ではどうすれば謙虚な人になれるかというと

どんなに才能があっても、
傲慢な人は人を幸せにすることはできない。
人間の第一条件は、まず謙虚であること。
謙虚になるための確実で一番の近道がトイレ掃除


だそうです。なるほどね~トイレ掃除しながら
なかなか傲慢な人にはならないです・・・


http://www.itsuji.co.jp/mandara/sm/naze.htm



2007/09/19(Wed) 21:17 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
他者という鏡と自分
「ギター弾きの恋」
たまたまみつけたこの映画コラムのレベルの高さに
舌を巻いてしまい、うっかり1ページすべてを丸ごと
転載してしまいました。

あらためて本文を読み直そうとしたら、
文字がぎっしりつまってはなはだ読みにくい。

で、いつもの様に興味深かった部分を下に抜書き
させて頂きました。




「他者は自らを映す鏡である」とは、
誰かが言っていた気の利いた言葉なのだけど、
僕はこれに大いに賛同したいと思っている。

揺るぎない自信を持っているわけでもない僕にとって、
より客観的な自画像を見出すためには、
他者を観察することが大事であると考えているからだ。

自分の置かれているポジションは、
自分を見ているだけではよく掴めないものだが、
他者との比較をすれば、
なんとなく自分の立ち位置が見えてくる。

自分が日々行っている生活は、
普通なのか、異常なのか。

自分の好きなものは一般的なのか、
特別なのか。自分が思っている考えは、
普遍的なのか、特殊なのか。

自分に関するあらゆることは、
他者との関係性の中ではっきりと形が
現れるものであると思うのだ。

「反面教師」であるとか、
「他山の石」という言葉があるが、
昔から人は、
他人の様子を観察し、
自分との比較の中で、
自分に関する物事を捉えていったに
違いないのだと僕は思う。


では、他者を観察せずに、
自分というものを描こうと思った時に、
一体どういうことが起こるだろうか。

相当な自己分析力がなければ、
過信や過小評価を招いてしまう
危険性はあると思われる。

今までの自分を振り返った時に、
自分が良かれと思ってしたことが、
世間的に御法度とされることであったり、
自分の基準では許せることが、
他人にとって傷ついてしまう内容であったり、
という場面が非常に多かったことを思い出す。

仲間内で浮いてしまったり、
思わぬ相手を怒らせてしまったり、
たくさんの反省を僕はしてきているのだ。

その結果、僕は他人の顔色を伺うことを
卑屈なまでにも実行してしまっている。

他人のペースを尊重したり、
場の盛り上がりを優先させたりと、
まるで自分の色が見えないような
無個性を装っているのである。

しかし、人の個性というものは、
他者との比較をしている段階では
浮かんでこないものである。

他人の目を気にせず、
自分の考えややり方を優先させた時に、
人々の個性は際立つものであり、
そうやって際立った個性は、
その人の代え難い魅力となって表れるものなのだ。

卑屈なまでに他者の目を気にしていた僕は、
そうした個性に恵まれない日々だったし、
人々を惹きつける魅力を持ち得なかったのだと思っている。



http://home.att.ne.jp/sea/afilmwebsite/1062guitar.htm




2007/09/19(Wed) 19:35 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ギター弾きの恋
1999年/アメリカ/95分/ギャガ・コミュニケーションズ

他者という鏡と自分
○「他者は自らを映す鏡である」とは、誰かが言っていた気の利いた言葉なのだけど、僕はこれに大いに賛同したいと思っている。揺るぎない自信を持っているわけでもない僕にとって、より客観的な自画像を見出すためには、他者を観察することが大事であると考えているからだ。自分の置かれているポジションは、自分を見ているだけではよく掴めないものだが、他者との比較をすれば、なんとなく自分の立ち位置が見えてくる。自分が日々行っている生活は、普通なのか、異常なのか。自分の好きなものは一般的なのか、特別なのか。自分が思っている考えは、普遍的なのか、特殊なのか。自分に関するあらゆることは、他者との関係性の中ではっきりと形が現れるものであると思うのだ。「反面教師」であるとか、「他山の石」という言葉があるが、昔から人は、他人の様子を観察し、自分との比較の中で、自分に関する物事を捉えていったに違いないのだと僕は思う。
○では、他者を観察せずに、自分というものを描こうと思った時に、一体どういうことが起こるだろうか。相当な自己分析力がなければ、過信や過小評価を招いてしまう危険性はあると思われる。今までの自分を振り返った時に、自分が良かれと思ってしたことが、世間的に御法度とされることであったり、自分の基準では許せることが、他人にとって傷ついてしまう内容であったり、という場面が非常に多かったことを思い出す。仲間内で浮いてしまったり、思わぬ相手を怒らせてしまったり、たくさんの反省を僕はしてきているのだ。その結果、僕は他人の顔色を伺うことを卑屈なまでにも実行してしまっている。他人のペースを尊重したり、場の盛り上がりを優先させたりと、まるで自分の色が見えないような無個性を装っているのである。しかし、人の個性というものは、他者との比較をしている段階では浮かんでこないものである。他人の目を気にせず、自分の考えややり方を優先させた時に、人々の個性は際立つものであり、そうやって際立った個性は、その人の代え難い魅力となって表れるものなのだ。卑屈なまでに他者の目を気にしていた僕は、そうした個性に恵まれない日々だったし、人々を惹きつける魅力を持ち得なかったのだと思っている。今後は、他者の目を気にせず、自分の思うように行動をしていきたいなあと強く思うわけだが、本作の話とは離れるので、この話はここで止めておこう。
○二番目の男
○本作の主人公、エメット・レイは、他人を観察して自分を振り返る、などということをほとんどしない人間である。自分の思ったように行動し、周囲の人々を巻き込んでは、騒動を起こしている。自分はこういう男なのだ、という決め付けが彼の中には存在しているようで、とかく行動は直線的であり、破滅的な色合いが濃いのだ。「俺は一流のミュージシャンであり、だからこそ女には本気にならない」と豪語する彼の姿は、自信に満ち溢れている反面、ある種の危険性を孕んでいるように思える。彼が魅力的であるのは、誰の目にも明らかなのだが、それはギタリストとしての側面だけであり、音楽から離れた彼の身勝手な行動は、人から疎まれる。ジャズクラブではトップスター的な観客の支持を集める一方で、あまりに時間に無頓着な彼は、クラブの支配人に嫌われて一転解雇されてしまう。それでもエメットは反省しない。自分のそうした無軌道な行動こそが、芸術家たる自分のあり方であると疑わないからである。そうした彼の自己中心的な考えは、やがて決定的な後悔を彼にもたらすのである。
○自己を省みないと言っても、ギタリストとしてはパリのジャンゴに次いで自分は世界で二番目であると、エメットは意外に冷静だ。しかしそうした自己分析は、常に彼の劣等意識を刺激している点を見逃せない。ヨーロッパに行った際、ジャンゴを見て気絶したという逸話を持つ彼にとって、まさにジャンゴは神様のような存在。自分は神様になれないことを体感してしまっているから、エメットは常に自信喪失の可能性を孕んでいる状態にあるのだ。だからこそ、彼は自分が(せめて)二番目の男であると言い聞かせ、ギタリストとしての自信を確保しつつ、無軌道な“芸術家らしい”行動を繰り返しているのだろう。そう考えると、ただ自己中心的な男のように思われがちなエメットの、哀しい二面性が浮き彫りになってくる。破滅的な行動や発言も、ただの強がりに見えてくる。彼の行動は、他人を省みない無軌道なものではなく、他者との比較の中で生じた自己防衛の姿なのだ。
○ありのままの女と、かくありたい男
○本心とは関係なく「愛などいらない」となどと公言して回るエメットを、何気なく心奪ってしまうハッティが、口が利けない娘であることは偶然ではない。彼女は自分が言葉を発することが出来ない代わりに、他者の言葉に惑わされないのである。ナンパ目的で自分に近寄ってきたエメットを、勘ぐることなく自分を好いてくれる男だと思い、すぐさま裸になろうとする様は、とても愛くるしい。そして彼女のそうした他意のない行動は、少しづつエメットを本気にさせていく。心を許す女はいらない、という方針を掲げるエメットだったが、結局一年もの間同居生活をすることとなる。違う地へ仕事に行く時も、エメットと別れることは出来ずに、結婚はしないぞ、という譲歩する形でハッティを連れて行くことになる。もっとも、そうした譲歩は、エメットに対してではなく、芸術家でありたい自分への言い訳でもあるのだが…。
○次第に自分の心に侵食していくハッティの存在に、芸術家であり続けるための方針の修正を余儀なくされていくエメット。彼は結局、愛情を信じることなく、ハッティを唐突に捨ててしまう道を選んでしまう。しかし1度感じてしまった愛情に乞われるままに、新たに出会った上流階級の女性ブランチと結婚し、彼の主義はなし崩しとなる。しかも皮肉かな、ブランチは愛情を一身に注ぐタイプではなく、小説家になりたいという夢を優先し、すぐに夫婦生活は破綻をきたしてしまうのだった。後は推して計るべし。代用の女を捕まえようとするが、電車を二人見たり、ねずみを撃ったりというような彼の特異な行動は理解されず、自らを苦しめることとなる。結局は、自分を愛してくれていたハッティの下へと戻ろうとするのである。
○それでも才能は語り継がれる
○エメットの音楽的才能は、誰もが疑うところではない。しかし不必要にジャンゴの存在を意識するあまり、自分を二番目の男だと定義し、せめて二番目であり続けるためにと、無軌道な芸術家らしき行動に走ることとなる。そして、自分が決め込んだやり方に束縛され、彼を愛してくれた人を捨ててしまう。他人は自分を知るための手っ取り早い手段であることは間違いないのだが、他人を気にしすぎてもダメだし、気にしなさすぎもダメなのだ。ハッティの下へ戻ろうとしたエメットが見たものは、他に好きな人ができて、幸せそうに暮らしている彼女の姿であった。決定的に打ちのめされるエメット。地面を這いずり回るように苦しみまわる姿は、悲痛そのものである。彼はその後姿を消す。しかし彼は素晴らしい演奏をレコードに残していた。彼が他者との関係で悩もうと、彼が奏でる音楽は、疑い様のない素晴らしい音楽だったのである。


http://home.att.ne.jp/sea/afilmwebsite/1062guitar.htm
をコピペさせていただきました。




2007/09/19(Wed) 19:03 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
悪天候を「悪天皇」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070918-00000141-jij-soci


秋田県は18日、天皇、皇后両陛下の訪問に関する知事名の案内状で、誤った表記のまま上司の決裁を受けずに送付したとして、人事課班長の男性職員(55)を訓告処分とした。また、管理監督責任を問い、人事課長を厳重注意とした。
 同課は「ワープロの入力ミスが原因で、職員は作業を急いでいたため、決裁を受けていなかった」としている。
 同課によると、男性職員は先月31日、今月下旬に秋田県入りされる両陛下が帰京される際に、見送る予定となっている秋田市議ら特別奉送者に対し、案内状181通を送付した。

 このうち21通について、「悪天候などの理由により」と表記すべき個所が誤って、「悪天皇…」と記されていた。


あくてんこう 悪天候 あくてんのう 空く天皇 開く天皇 飽く天皇 

ワープロの入力ミスで簡単に「悪天皇」にはならないんですけど~ね~


何れにしても入力ミスには注意したいです。
いつもみなさんにはご迷惑をおかけしております。(^。^;)m(u_u)m



2007/09/19(Wed) 17:54 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
汝の敵を愛せ☆
こんにちは☆

この意味も私、イマイチ理解できなかったですわ。

愛にも色んな種類があるけれど「愛」という言葉の響きにも意味合いにおいても、やはり「特別」な感情だ、という思いが私の中にはあるので。

それは「好き」とは違う、好きよりもっと深い大きい感情、感覚ですすので、好きなものはたくさんあっても「愛している」となるとなかなか。

それは「憎しみ」も同様で「嫌い」なものは多々あるけれど憎むとなると、その瞬間憎く思ったりはしても、
長い間思い続けるような人ってそうそういない・・・いや皆無かもしれない。嫌いな人やものはあっても。

「愛」にしろ「憎しみ」にしろ、それくらい極端で、強烈な、好き嫌いのレベルを超えた激しい感情
思いであるという感覚が私にはあるせいか。

だからこそ「愛憎」ともに卒業しなければ、輪廻の輪から外れない、逃れられないというのは、非常~によく分かる気がするんですね。

で、「汝の敵を愛せ」は無理!と思っていたんですね、私。愛するという言葉に囚われて、前述の通り、愛は特別なものという気持ちが強いだけに抵抗もあって。「敵を?愛す?できるの?・・」と。

でも、慈悲を持つ、思いやりを持つ、哀れみを感じることならできるかもしれない、嫌いな相手でも。
実際、それを感じる時が意外や意外!思えば結構ありますし・・・愛するのは金輪際無理ですけれど(笑)

愛することは無理でも、その立場を理解することはで可能。好き嫌いを越えて、冷静な眼で、理性的に。
2007/09/19(Wed) 17:07 | URL  | マリア #-[ 編集]
謙虚な人☆
自分にも欠点が多々あること、綺麗な面ばかりではないこと、好き嫌いがあること、その自覚のある人が本当の意味で「謙虚な人」だと思う。

どうも、世間一般の謙虚な人と、私の感じる謙虚な人とは正反対である場合がよくあるの(笑)・・・

いい人、悪い人、純粋な人、というのもそうなんだけれどね(笑)
2007/09/19(Wed) 12:37 | URL  | マリア #-[ 編集]
いい人、悪い人はいない☆
おはようございます☆

私、いい人も悪い人もいないと思います。

唯、人それぞれ時と場合と相手(相性)によって「いい面」「悪い面」がでるだけのことで。

そして誰でも例外なく、いい面、悪い面も持っていますでしょ。当然ながら。

世間一般俗に言う「いい人」にも悪い面があるし、「悪い人」と言われている人にもいい面がある。

でも、多くの人ってそれを認めたがりませんでしょ。

あくまでも、自分の「好き嫌い」が基準で、自分の好きな人=いい人、嫌いな人=悪い人

そう思う事によって溜飲を下げているような・・ね。

私が今更ながらに驚くのは「いい人」「悪い人」白か黒、あるかないか・・・というどちらかにはっきりと分けている単純な人が少なからずいるという事実。

そして自分は「いい人」だと爪の垢も信じて疑わない人がいるのが、まず信じられない!

そもそも、自分は「悪くない」「間違っていない」と思えるほうが、よっぽど不思議!

人間のやる事ですもの。生きている限り間違いも勘違いもあるのは、当たり前。

でも、その「当たり前」のことが、当たり前なだけに気づきにくいのかもしれませんが。。。

2007/09/19(Wed) 12:11 | URL  | マリア #-[ 編集]
他者は自分の鏡
 肉体が魂の鏡であるように、他者の存在は、自らの鏡でもあるだに。

 他者は、自らの鏡でもあるのに、人には好き嫌いというものがあるじゃ。同じ行為でも、嫌いな人だと評価せず。好きな人だと評価してしまうのも、先入観や癖といえるじゃね。

 嫌いな人とは少しでも一緒にいたくないが、好きな人とは、少しでも一緒に長くいたいと思う。それはとどのつまり、自らのエゴに心地が良いか悪いかという問題に帰することができるじゃ。

 エゴに心地がよいことを求める余り、心地が悪いことを許す事ができず、排撃し、攻撃しようともするだにね。

 しかし、我々人間は、本人も知らぬ間に、嫌いな人と同じことをしていることがあるだに。その事には自分だから、外に出ない内面なので、よく知っていると錯覚し、目をつぶっておるじゃ。

 嫌いな人がやることは許せないが、自分がやることは許せるというのは、不思議としかいいようがないじゃね。嫌いな人と自分との間には、無関心、無理解が立ちはだかっているといえるじゃね。

 エゴが大きいほど、他者との無関心、無理解のこの差異は広がっていくじゃ。天からすれば、人間がする行為はどちらも似たようなもんじゃ。天からみれば、同じなのに、自他のなかでは溝が深まるじゃ。

 自分だって、同じような境遇に立たされた場合、似たような行為を行ってしまうこともありえるじゃ。しかし、それが、自分ではなく、他者であるから、裁くことができるだに。

 天からは平等な裁きや許しを得ているのにも関わらず、我々は、独りよがりで、他者を自由に裁くことができる。

 しかし、他者を裁くことで、同時に他者への無関心や無理解は、永遠に残され、溝は深まるじゃ。その代償を補うために、今度は、裁かれる立場になるであろう。でないと、魂の開発、永遠なる存在の芽を摘むことになるじゃ。天からの恵みをうけることができないからであるじゃ。

 魂は、永遠なる全能の存在を目指して、あらゆる立場を理解するために、経験を積んでいるというじゃ。なので、エゴは、その存在への進化を阻む、最たるものといえるじゃろうね。

 あらゆるこの世の事象は理解のためにあるというじゃ。それは理解のための思考ではなく、理解のための許しであるというじゃ。

 人は、自分の行為を忘れて、偉そうに他を批判するが、実は、自分だって同じ類のことをしているのが常であるじゃ。他を批判し裁けば、忽ち、自らに返ってくるじゃ。だから、他を許すことで、自らを許すことができるじゃね。

 他を裁く者は、一時足りとも、平和でいられることはないじゃ。常に好き嫌いが悪天候のように訪れるじゃね。雷が起きたり、地震が起きたり、嵐が来たりで、休まる平穏がないじゃ。

 そうして、心の平穏は乱され、ストレスが溜まり、その警告として、物質性の病気を生じるようになるじゃね。腫瘍はエゴの塊といえるじゃ。

「他を裁くな。互いに赦し合いなさい」とキリストが言ったことはやはり真実のようであるじゃ。
2007/09/19(Wed) 09:49 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
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少しでも「ん?」って思うとこがあれば、読んでみて欲しいです。きっと、今のあなたに必要な部分だけ、スッと心に入ってくると思います。そんな本でした。全部理解できたとは思いません。全部納得できたとも思えません。でも、よかったです。また読みたいって思いました。今
2007/10/12(Fri) 23:41:38 |  思想の日

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