--年--月--日 (--) | Edit |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2007年09月16日 (日) | Edit |
アルフォンス・デーケン 編著「老いと死をみつめて」同文書院より(21)


Q 五年前に妻を亡くし、
子供たちも独立して独りぽっちの生活です。

これからの人生をどう考えて
生きるべきなのでしょうか。


A 年をとるにつれて、
何よりも耐えがたい苦しみは
孤独だと多くの人が言っています。

孤独の最大の苦痛は、
文字通り独りきりでいることよりも、
むしろ人びとの中にいながらコミュニケート
できないことではないでしょうか。


現代は家族が一緒に住むだけでは、
孤独の解消にならないことが多いのです。

老人ホームで見られる問題の数々も、
大半は人間関係のトラブルが原因です。


独りぼっちは「恵みの時」

たしかに年をとって消極的になり柔軟性が失われると、
コミュニケーション困難になります。

ことに病気などのために人との交際が不可能になった
場合を考えて、不安を感じる人も覆いと思います。

しかし多くの宗教において、神や仏はどんなときでも、
母親よりも深い慈愛を惜しみなく注いでくれる存在だ
と信じられています。

『旧約聖書』の「イザヤ書」に記された神の言葉は、
こうした信仰を端的に証するものと言えましょう。

女が乳飲み子を忘れたり
母が腹を痛めた子を忘れたりできようか
たとえ忘れたにせよ
私はあなたをわすれない (49章15節)

祈りや黙想による神との交わりには、
同じ信仰をもつ者同士の共同体体験にも通ずるものが
あります。また独りぼっちであるというのは決して
無意味なことではありません。

かえってこころの眼を開き、自分のすぐそばにおられる
神の語りかけに耳を澄ますことができる「恵みの時」を
いただいたのだと考えられます。


あるがままに愛する「出会い」を

逆説的ですが、愛と出会いの出発点は自分自身に対する
愛なのです。『新約聖書』の中でイエズスは隣人愛につ
いて語るとき「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛
せよ」(マタイ22章39節)という言葉で、

自己愛をその尺度としています。
自己愛はエゴイズムとはまったく異なり、
自分の限界を認め、
あるがままの自分を受け入れることです。

自分をあるがままに受け入れて愛することのできない人は、
他人をあるがままに受け入れることなど到底できないので
はないでしょうか。

そのためには、人との「出会い」も大切です。
単に人と「会う」ことと「出会い」とははっきり違います。

たとえば、私たちは毎日街中や電車の中でたくさんの人に
会いますが、これはただ行き逢わせただけで「出会い」
とは言いません。

「出会い」とは、日本語そのまま
「自分から出て行って会う」ことです。

まず自分自身から出て、相手に心を開いて語り、積極的に
コミュニケーションのきっかけをつくろうとする働きかけです。
他人を愛するためにはこの深い心の出会いが必要なのです。

人との交流を通じて神と出会い神との交わりを深める信仰
へ招くために、ときおり神はわざと私たちに孤独を贈られ
るのではないかとさえ考えています。



次回につづく


↓↓↓あなたの応援↓↓↓(1日1クリック)お願いします。

にほんブログ村 哲学ブログへ人気blogランキング精神世界 ランキング



スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
どうすれば平和をもたらすことができるのでしょうか?
それには、
ただ解きほぐしてゆく他には方法がありません。
問題の原因となっているところに戻るのです。
自分の思い込み、
古い考え方の元となったところへ戻ればいいのです。

考えるのをやめなさい。
そのかわりに、再び愛を体験するために、
あなたの直観的な知恵を使いなさい。
瞑想をしなさい。


瞑想とVisualization(視覚化)を行なうと、
思考を止め、
自分自身の中への旅を始めるために役に立ちます。

そして癒しが始まります。
あなたが、
今まで使っていなかった心を使い始めるのです。
あなたはわかり始めます。
理解し始めます。
そして、賢くなってゆきます。
すると平和がおとずれます。


他人との間に人間関係があるように、
あなたはあなた自身との関係を持っています。
あなたは数多くの肉体の中で、
数多くの時代を生きてきました。

ですから、現在のあなた自身に、
なぜそんなに恐れているのかとたずねてみなさい。
あなたは危険を冒すのが、
なぜそんなにこわいのですか?

他人からの評価が、なぜこわいのですか? 
人にどう思われるかがなぜこわいのですか?

こうした恐怖は子供時代か、
それより以前に作られたものなのです。


何を失うのがこわいのですか?
起こり得る最悪の事態は何なのですか? 

こんなにこわがって、
これからの人生をずっと生きることに、
あなたは満足しているのでしょうか? 
死ぬことと比べて、
そのことはそんなに危険なことなのでしょうか?


落ち込みと心配によって、
あなたの成長を邪魔させてはなりません。
落ち込みとは見通しを見失い、
感謝を忘れ、物事を当たり前だと思い込むことです。

焦点をはっきりと合わせなさい。
物事の価値基準をきちんと見究めなさい。
当たり前だと見做す事は間違っていると思い出しなさい。

目線を上に向けなさい。
そして大切なことと、
大切でないことの区別を思い出しなさい。
決まり切ったやり方から抜け出しなさい。
希望を思い出しなさい。

不安とはエゴの中に迷い込むことです。
自分の境界線を見失うことです。
失った愛、傷ついたプライドに、
忍耐と平和の喪失のかすかな記憶がつきまとっています。
自分は決して1人ぼっちではないことを思い出しなさい。

危険を冒す勇気を失ってはなりません。
あなたは不死です。
傷つけられることもありません。


カルマ、つまり、返されなければならない負債には
色々な種類がある。

個人のカルマとは、その人物の個別の義務であり、
その個人に固有のものである。
しかし、グループのカルマ、
つまりそのグループ全体の集合的な負債というものも存在する。
そして、そのような多くのグループが存在している。
宗教、民族、国家なのである。

もっと大きなレベルには惑星のカルマというものもあり、
これは、いつしか、その惑星の運命と結末に影響を与えてゆく。


神は全てを許しています。しかし、
あなたは人々によって許されなければなりません…そして、
あなたは人々を許さなければなりません。

許すことはまた、あなたの責任でもあります。
あなたは許し、かつ許されなければなりません。
心理分析は心の傷を修復することではありません。

あなたは、理解し、変化させ、世界を改善し、
関係を修復し、他人を許し、
彼らの許しを受け入れなければなりません。




錬金術者さんタイピングによるワイス著「魂の伴侶」抜書き
「人生の目的は勝つことではなく、心を開くことである」
のそのまた興味深かった部分を抜書きしました。



2007/09/17(Mon) 20:07 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
錬金術者さん、有難う☆
おはようございます☆

錬金術者さん、お疲れ様でした☆

結構、しんどくありませんでした?(笑)・・・自分でコメントするのと違い別の神経を使いますでしょ?ですので(笑)

それを考えると、本当、ろくろくさんに対して感謝の念と、尊敬の念を覚えますよね☆

思えば、ろくろくさんの場合、それを毎日休みなくしてらっしゃるのですから。

ろくろくさん、改めまして有難う!いつも感謝ですわ☆

で、錬金術者さんが抜き書きして下さった部分、私も非常に感銘を受けた箇所でしたので、大変嬉しかったですし、読んでいて興奮してしまいましたわ♪

なので、私もお返しに『魂の伴侶』から他に感銘を受けた箇所を、ここに引用したいと思います☆

ベトナムの仏教の僧侶であり、詩人でもあるティック・ナット・ハンは、一服の茶の楽しみ方について書いている。お茶を楽しむ為には、人は完全に、今という時に目覚めていなければならない。
今という瞬間を意識している時にのみ、手は茶碗の快い暖かさを感じることができる。
今という瞬間のみに、香りを楽しみ、甘さを味わい、繊細さを感じとることができる。
過去のことを思い煩っていたり、将来のことえお心配していたりすると、一杯のお茶を楽しむ経験を失してしまうだろう。茶碗を見下ろすと、もうお茶はなくなっているのだ。

人生も全くこれと同じである。今という時に完全に心を向けていないならば、周りを見廻してみると、もうそれはどこかへ行ってしまっているのだ。人生の感触、香り、繊細さ、美などを全て見過ごしてしまう。

人生はただ、あなたの目の前をあっという間に通り過ぎてしまうだろう。

過去はすでに終わっている。底から学ぶことは学び、手放せばいいのだ。未来はまだ来ない。
未来に対する計画を立てるのはよい。でもそのことを心配して時間を無駄にしてはいけない。
心配は必要ない事なのだ。すでに起こってしまったことを気にやむのをやめ、起こらないかもしれないことを心配するのを止めた時、あなたは今という瞬間にいることができるのだ。
その時、あなたは人生の喜びを十分に体験し始めるだろう。

『魂の伴侶』 ブライアン・L・ワイス PHP文庫 ¥619(税別)

PS・錬金術者さん、私も古典からは学ぶべきことや真理が隠されており、哲学書に関しては無知同然で本一冊まともに読んだ事のない私ではありますが、それでもプラトン、ソクラテス等々の思想を見聞きするにつけ、共感を覚えること多々ありますわ。

いいものに古いも新しいもないですし、眼に見えることも大事ですが、眼に見えないもの(愛も信頼も形がない、眼にみえるわけではないですものね)も、それ以上に大事だと、私自身はそう思っていますので。
2007/09/17(Mon) 10:30 | URL  | マリア #-[ 編集]
人生の目的は勝つことではなく、心を開くことである。
 私もマリアさまの感化をうけて、ワイス著の「魂の伴侶」を読んでおりますが、非常に感激した部分があったので、抜書き致します。

 「全ては愛…全ては愛です。愛があれば理解できます。理解があれば、耐えられます。すると時が止まります。そして、全てが今になります。

 愛は究極の答えです。愛は抽象的なものではなく、実際のエネルギー、またはエネルギーのスペクトルであり、あなたが創造し、自分の内に保つことができるものです。ただ愛に満ちていなさい。あなたは自分の内なる神に触れ始めています。愛を感じなさい。あなたの愛を流れさせなさい。

 愛は恐怖を溶かします。愛を感じるとき、恐れることはありません。全てはエネルギーです。そして、愛は全てのエネルギーを超越しています。すなわち、全てが愛なのです。これは神の本質に関する強力な手がかりです。

 あなたが愛に満ち、恐れていない時、あなたは許すことができます。他の人達を許すことだけでなく、あなたは自分自身を許すことができます。そして正しい見方で、物事を見始めます。罪悪感と怒りを解きほぐします。罪悪感も怒りも不必要なものです。むしろ有害な感情なのです。許しなさい。それこそ愛の行為なのです。

 誇りが許しの道を邪魔することがあります。プライドはエゴの一つの現われです。エゴは偽者のあなた自身です。あなたはあなたの体ではありません。頭脳でもありません。エゴでもありません。あなたはその全てよりもずっと大きなものです。

 三次元世界で生きていくためにはエゴは必要ですが、情報を識別するエゴしか必要ありません。その他の部分-プライド、傲慢さ、防衛的なところ、恐れなど-は不要というより、もっと悪いものです。こうしたエゴはあなたを知恵から、喜びから、神から切り離してしまうのです。

 あなたは自分のエゴを超越し、本当の自分自身を発見しなければなりません。本当の自分自身は、あなたの永遠の、最も深い部分です。それは賢くて、愛に満ち、安全で喜びいっぱいの存在です。

 知性は第三次元の世界では大切ですが、直観のほうがもっと大切です。

 あなたは現実と幻想をとりちがえています。現実とは、あなたが不死の存在であること。あなたが神聖な存在であること。あなたが時を越えた存在であることを認識することです。幻想とは、あなたが一時的に住んでいる三次元の世界です。これを逆にとらえると、あなたは苦しまなければなりません。あなたは愛と知恵による安全を求めないで、安全の幻を追い求めてしまうからです。

 現実には拒否されることは有り得ないのに、あなたは受け入れられたいと強く望んでしまうのです。エゴは幻想をつくりだし、真実をかくします。あなたはエゴを解消しなければなりません。すると真実が見えてくるのです。

 愛と理解があれば、いつまでも辛抱強く、物事を見守ることができるようになります。あせって、どうなるというのですか? 時間など実はありません。あなたには、まるであるように見えているだけです。今という時を体験していない時、過去にとらわれ、未来のことを心配している時、あなたは自分自身に大きな心の痛みと悲しみをもたらしてしまうのです。時間は幻想です。

 三次元の世界においてさえ、未来とは確率のシステムにすぎません。先のことをどうしてそんなに心配するのですか?

 セラピーは自分自身に対して行うことができます。理解することはセラピーの一つです。愛は究極のセラピーです。セラピスト、先生、グル(導師)などが手を貸すことはできます。しかし、それはほんの限られた時間だけです。全ては内へと向かう旅です。この内へと向かう道は遅かれ早かれ、1人で歩んでゆかなければなりません。しかし、実はあなたは決して1人きりになることはありません。

 もし、時間をどうしても測らなければならないときには、何分、何時間、何年ではなく、学んだレッスンによって測りなさい。もし、きちんと適切な理解に達することができれば、あなたはほんの五分間で、自分を癒すことができます。あるいは五十年かかるかもしれません。でも、どちらも同じことなのです。

 過去のことは思い出し、そのあと、忘れなさい。手放してやるのです。このことは、子供時代のトラウマにしても、過去生(前世)における悲劇的な体験にしても同じことです。また、あなたの中にたたきこまれている物事に対する態度、誤解、信念など、あらゆる古い考え方にしても、同じです。

 全ての古い考え方に対してです。そのような古い考え方にとらわれたままでいると、はっきりと正しくものを見ることはできません。何か新しい事を学ばなければならない時、あなたはどうしますか? 全く新しいものの見方が必要ですね。

 観念は分離と差別の幻想を生み出します。エゴはこの幻想を益々肥大化し、この幻想は、恐怖、不安、悲しみを生み出します。恐怖、不安、悲しみは、次に怒りと暴力を生み出します。こうした混乱した感情が支配的な世界に、どうすれば平和をもたらすことができるのでしょうか?

 それには、ただ解きほぐしてゆく他には方法がありません。問題の原因となっているところに戻るのです。自分の思い込み、古い考え方の元となったところへ戻ればいいのです。考えるのをやめなさい。そのかわりに、再び愛を体験するために、あなたの直観的な知恵を使いなさい。瞑想をしなさい。

 あらゆることが互いにつながっていることに気づきなさい。あらゆることが相互に絡み合っていることを知りなさい。違いではなく、一体性を見るのです。あなたの真我に出会いなさい。あなたの中に神を見るのです。

 瞑想とビジュアライゼーションを行なうと、思考を止め、自分自身の中への旅を始めるために役に立ちます。そして癒しが始まります。あなたが、今まで使っていなかった心を使い始めるのです。あなたはわかり始めます。理解し始めます。そして、賢くなってゆきます。すると平和がおとずれます。

 他人との間に人間関係があるように、あなたはあなた自身との関係を持っています。あなたは数多くの肉他の中で、数多くの時代を生きてきました。ですから、現在のあなた自身に、なぜそんなに恐れているのかとたずねてみなさい。あなたは危険を冒すのが、なぜそんなにこわいのですか?

 他人からの評価が、なぜこわいのですか? 人にどう思われるかがなぜこわいのですか?

 こうした恐怖は子供時代か、それより以前に作られたものなのです。

 あなた自身に次のように聞いてみてください。何を失うのがこわいのですか?起こり得る最悪の事態は何なのですか? こんなにこわがって、これからの人生をずっと生きることに、あなたは満足しているのでしょうか? 死ぬことと比べて、そのことはそんなに危険なことなのでしょうか?

 あなたの成長の過程で、他の人々の怒りを買うことを恐れてはなりません。怒りとは、単に彼らの不安の表現にすぎません。しかし、この怒りを恐れていては、あなたは前に進めません。怒りが非常に大きな苦痛を生まない場合、怒りは単に愚かなだけです。あなたの中にある怒りを、愛と許しによって解き放ちなさい。

 落ち込みと心配によって、あなたの成長を邪魔させてはなりません。落ち込みとは見通しを見失い、感謝を忘れ、物事を当たり前だと思い込むことです。焦点をはっきりと合わせなさい。物事の価値基準をきちんと見究めなさい。当たり前だと見做す事は間違っていると思い出しなさい。目線を上に向けなさい。そして大切なことと、大切でないことの区別を思い出しなさい。決まり切ったやり方から抜け出しなさい。希望を思い出しなさい。

 不安とはエゴの中に迷い込むことです。自分の境界線を見失うことです。失った愛、傷ついたプライドに、忍耐と平和の喪失のかすかな記憶がつきまとっています。自分は決して1人ぼっちではないことを思い出しなさい。

 危険を冒す勇気を失ってはなりません。あなたは不死です。傷つけられることもありません。

 カルマ、つまり、返されなければならない負債には色々な種類がある。個人のカルマとは、その人物の個別の義務であり、その個人に固有のものである。しかし、グループのカルマ、つまりそのグループ全体の集合的な負債というものも存在する。そして、そのような多くのグループが存在している。宗教、民族、国家なのである。もっと大きなレベルには惑星のカルマというものもあり、これは、いつしか、その惑星の運命と結末に影響を与えてゆく。

 グループのカルマにおいては、個人の負債が蓄積され、清算もなされるが、その結果は、そのグループ、国、惑星にもかかってくる。こうしたグループのカルマは、そのグループ全体、あるいは国の未来を決定してゆく。しかし、それはまたカルマをつくったとき、そのグループに属していなかったが、後にそのグループに生まれてくる個人にもかかってくる。

 人間の行ないは、道にそった行ない、神の道に従ったとき、正しい行ないとなる。これ以外の道は、結局は行き止まりの道か、幻影にすぎず、正しい行ないとはなり得ない。正しい行ないは個人の霊性を高め、神への回帰を促進する。公正、憐れみ、愛、知恵、そして我々が神的、霊的と呼んでいる特性を育む行為は、必然的に正しい行ないである。

 正しい行ないから得られる果実は、望んでいた到達点である。正しくない行ないの果実は、過渡的で、錯覚にすぎず、偽りのものである。こうした果実は人々を騙すが、それは私たちが真に望んでいるものではない。正しい行ないの果実は、我々のあらゆる目的、あらゆる願望、あらゆる必要、あらゆる希望を超越している。

 名声を例にとってみよう。名声それ自体を目的として求める者は、しばらくの間は名声を得るかもしれない。しかし、その名声は一時的なものにすぎず、心を満たすものではないだろう。しかし、正しい行ない、すなわち道にそった行動の結果として、求めずして与えられた名声は、永続し、正しいものであろう。しかし、道を行く者にとって、そのようなことは、どうでもよいものだ。

 これが、利己的に追い求めた名声と、求めもせず、望みもせずに、正しい行ないの副産物として与えられた名声の違いである。第一のものは幻想であり、永遠のものではない。第二のものは本物であり、永遠のものであり、魂に属するものである。第一のものはカルマを作り、いつか返さなければならない。第二のものはカルマを作らない。

 目的は勝つことではなく、心を開くことである。

 神は全てを許しています。しかし、あなたは人々によって許されなければなりません…そして、あなたは人々を許さなければなりません。許すことはまた、あなたの責任でもあります。あなたは許し、かつ許されなければなりません。心理分析は心の傷を修復することではありません。

 あなたは、理解し、変化させ、世界を改善し、関係を修復し、他人を許し、彼らの許しを受け入れなければなりません。行ないの中に徳を示すことは、最も大切なことです。口で言うだけでは十分ではありません。実際に応用せずに知的に理解するだけでは、十分とは言えません。あなたの愛を実際に表現することが大切なのです。」
2007/09/17(Mon) 01:48 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。