風邪をひいたら、熱を下げなければいけないか
五木寛之・帯津良一 著「健康問答」平凡社より(28)
五木 単純なことなんですけれど、熱というのがありますね。
帯津 ええ。
五木 一時的に、ポッと出る熱は、体がいろいろ反応しますね。
ある抵抗をするために出てくる熱もあるだろうと思いますが。
ともあれ、熱があるということは体に辛い。
それがつづいたりすると、前進にも負担がかかってくるでしょう。
帯津 ええ。
五木 ですから、熱は極力下げた方がいいのか、
でっぱなしにしておいたほうがいいのか。
たとえば風邪をひいたときに熱が出る。
それを、解熱剤で下げるのは良くないという説もありますね。
帯津 これはもう、かなり以前からいわれていますね。
小児科の先生は、だいたいすぐ熱を下げる。
解熱剤を使ってね。
五木 下げますね。
帯津 それはやっぱり、お母さんがうるさいからなんですよ。
熱が下がらないと、いったいどうなっているのって、
ギャアギャアいうでしょう。熱が下がらないと、不安なんですね。
五木 最近、アメリカから帰国した若い奥さんの話を聞いて、
びっくりしたんですが、アメリカで人気のある風邪の療法だと、
熱が出たら、暑いお風呂に子供を入れるんだそうです。
その人の子供も四十度の熱が出たとき、
四十二、三度のお風呂に入れたといっていました。
そうすると、すぐに熱が下がるというんだけど、仰天しましたね。
これまでの常識だと、熱が出たらお風呂はだめでしたよね。
帯津 野口整体でも、似たような考えをもっていますね。
だけど、昔から、小児科の先生のなかには、
熱はやたらに下げないほうがいいという説はあったんですよね。
体の免疫機能が闘っているんですから、そのままにして、
様子を見守っていたほうがいいと。
たとえばアスピリンのような系統で、どんどん下げるんじゃなくて、
むしろ、やるなら「葛根湯」かなにかで、静かに寝かせて、
ゆっくりと下げるというのがね。
自分自身でも思いますけど、
西洋医学の解熱剤でさがったときの気分と、
葛根湯なんかでゆっくり下がったときの気分は、
全然ちがいますね。葛根湯のほうがいいですよ。
次回につづく
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五木 単純なことなんですけれど、熱というのがありますね。
帯津 ええ。
五木 一時的に、ポッと出る熱は、体がいろいろ反応しますね。
ある抵抗をするために出てくる熱もあるだろうと思いますが。
ともあれ、熱があるということは体に辛い。
それがつづいたりすると、前進にも負担がかかってくるでしょう。
帯津 ええ。
五木 ですから、熱は極力下げた方がいいのか、
でっぱなしにしておいたほうがいいのか。
たとえば風邪をひいたときに熱が出る。
それを、解熱剤で下げるのは良くないという説もありますね。
帯津 これはもう、かなり以前からいわれていますね。
小児科の先生は、だいたいすぐ熱を下げる。
解熱剤を使ってね。
五木 下げますね。
帯津 それはやっぱり、お母さんがうるさいからなんですよ。
熱が下がらないと、いったいどうなっているのって、
ギャアギャアいうでしょう。熱が下がらないと、不安なんですね。
五木 最近、アメリカから帰国した若い奥さんの話を聞いて、
びっくりしたんですが、アメリカで人気のある風邪の療法だと、
熱が出たら、暑いお風呂に子供を入れるんだそうです。
その人の子供も四十度の熱が出たとき、
四十二、三度のお風呂に入れたといっていました。
そうすると、すぐに熱が下がるというんだけど、仰天しましたね。
これまでの常識だと、熱が出たらお風呂はだめでしたよね。
帯津 野口整体でも、似たような考えをもっていますね。
だけど、昔から、小児科の先生のなかには、
熱はやたらに下げないほうがいいという説はあったんですよね。
体の免疫機能が闘っているんですから、そのままにして、
様子を見守っていたほうがいいと。
たとえばアスピリンのような系統で、どんどん下げるんじゃなくて、
むしろ、やるなら「葛根湯」かなにかで、静かに寝かせて、
ゆっくりと下げるというのがね。
自分自身でも思いますけど、
西洋医学の解熱剤でさがったときの気分と、
葛根湯なんかでゆっくり下がったときの気分は、
全然ちがいますね。葛根湯のほうがいいですよ。
次回につづく
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Comment
マリアさま、ありがとうございます
2007-09-14 | 錬金術者 #- | URL|[ 編集 ]
忠恕(ちゅうじょ)=愛の道
仁道つまり「愛の道」ということで、何とか理解することが
できましただに。
『論語』に「夫子の道は忠恕のみ」の言葉がある。
「先生の一貫した道とは忠恕、思いやりの道、仁道である」
(曾子が、他の門弟に、孔子先生の一貫した道とは何か、
と問われて答えた言葉で、忠恕の心が治国の根本である、とする)
人として、最も大切なことは、
忠恕すなわち思いやりの心、「愛」をもつことではないか
だから、どれだけ常なる「愛の道」を体得しているかで、
外見や形態上は変化しているが、
常に、揺るぎがないバランスを見出す、
ゼロ点を所有することができるといわけじゃね?じゃね?
http://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2001/1011p.html
小泉内閣メールマガジンバックナンバー. 盧溝橋記念館で「忠恕(ちゅうじょ)」と揮毫(きごう)する小泉総理.
できましただに。
『論語』に「夫子の道は忠恕のみ」の言葉がある。
「先生の一貫した道とは忠恕、思いやりの道、仁道である」
(曾子が、他の門弟に、孔子先生の一貫した道とは何か、
と問われて答えた言葉で、忠恕の心が治国の根本である、とする)
人として、最も大切なことは、
忠恕すなわち思いやりの心、「愛」をもつことではないか
だから、どれだけ常なる「愛の道」を体得しているかで、
外見や形態上は変化しているが、
常に、揺るぎがないバランスを見出す、
ゼロ点を所有することができるといわけじゃね?じゃね?
http://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2001/1011p.html
小泉内閣メールマガジンバックナンバー. 盧溝橋記念館で「忠恕(ちゅうじょ)」と揮毫(きごう)する小泉総理.
2007-09-13 | ろくろく #- | URL|[ 編集 ]
中庸☆
おはようございます☆
博識家よねぇ、錬金術者さんは。。。
>簡単にいえば、バランス感覚。それも足して2で割ったものでなく、質的に2倍に統合し、全体として進化したもの
単純に足して2で割るのではなくて、質的に2倍に統合すること=次元が増える
分り易いですわ♪とても!割るんじゃなく重複し、幅も厚さも深みも広がる事が、結果「中庸を得る」のは、私的には凄い納得!その通りだろうな、って思います☆
種々様々な経験や人生体験の喜怒哀楽を重ねる事で、人間的な重厚さや魅力が磨かれていくわけで、それは自らが習得していくもので「奥義」同様、教えられるものでは決してないですし、お手軽に「マニュアル化」できませんし、してみたところで「頭」だけの理解に終わると思いますわ☆
博識家よねぇ、錬金術者さんは。。。
>簡単にいえば、バランス感覚。それも足して2で割ったものでなく、質的に2倍に統合し、全体として進化したもの
単純に足して2で割るのではなくて、質的に2倍に統合すること=次元が増える
分り易いですわ♪とても!割るんじゃなく重複し、幅も厚さも深みも広がる事が、結果「中庸を得る」のは、私的には凄い納得!その通りだろうな、って思います☆
種々様々な経験や人生体験の喜怒哀楽を重ねる事で、人間的な重厚さや魅力が磨かれていくわけで、それは自らが習得していくもので「奥義」同様、教えられるものでは決してないですし、お手軽に「マニュアル化」できませんし、してみたところで「頭」だけの理解に終わると思いますわ☆
2007-09-13 | マリア #- | URL|[ 編集 ]
熱は相対的で、無常なもの
科学では、絶対温度というケルビンという単位があり、確か、273ケルビンが、摂氏温度の単位の零度という定義になっていたはずで、絶対零度、つまりゼロケルビンは、摂氏マイナス273度に該当するが、それは概念で、絶対零度には到達できんじゃね。
それは測定に際し、なんらかのエネルギーのやりとりが発生してしまうからだに。
なぜなら、この宇宙構造が既になんらかの熱をもつ形であり、光自身がエネルギーをもつのだから、至る所で、粒子が励起されてしまうわけじゃね。そもそも、この絶対温度の概念が、理想化した気体のなかの粒子運動を基準としたものであるじゃ。
感覚からくる現実と、思考上の理想の概念では、大きく異なるわけだにね。
では、摂氏温度は、恐らく人間生活の便宜上の単位、水の凍る熱量を、ゼロという基準にしたものなんじゃろうね。対して絶対温度は、物理的環境を測定するのに都合のよい便宜上の単位といえるじゃね。
水が凍るというのは、科学的には、液体から固体に結晶構造を構築することで、相転移と呼ばれるじゃ。相転移というのは、いわば、モノの形状が変わるから、物質的思考からすれば、不思議な現象にみえるじゃろう。
水が氷になると、水に関わるライフスパン、生活環がバランスを失うからじゃね。簡単にいえば、量的変化から質的変化に変わってしまうわけじゃ。経済でいえば、金持ちがいきなり貧乏になるようなもんと考えてよいじゃろうね。
それは全て、概念でいえば、ゼロという正負のバランスをとる基準が変わるから起こることといえるじゃね。実際は、その背後で、宇宙の構造が変わったり、地球に占める全物質量が変わったり、全情報量が変わったりしているわけじゃね。
これらの全量があまり巨大だから、大きく変わることなく、そのマクロ量に比べて、人間が取り扱う量が微量なので、単位の基準を変えることなく、絶対的な概念で把握できているわけじゃね。
つまり、体系の質的変化、大きな相転移が生じていないから、いわば健全な秩序が保たれ、バランスよく、病的な状況に陥っていないわけじゃね。
これを情報量で考えてみれば、マクロ量として、より多くの情報をもっている方が、安全といえるわけだにね。マクロ量というのは、いわば時間毎に変化しない大きな構造的な数といえるじゃろう。マクロ量というよりも、バランス数、スケール量といった方がよいかもしれんじゃ。
この宇宙全ては変数からなるが、それはこの宇宙が刻々と変化し、無常な性質から現れるわけじゃが、無常を蓄積していくと、そのなかに、常なる全体の体系が現れてくるわけじゃね。これを体系化したのが易学で、応用したのが占いといえるじゃね。
だから、どれだけ常なる全体の体系を体得しているかで、外見や形態上は変化しているが、常に、揺るぎがないバランスを見出す、ゼロ点を所有することができるといわけじゃね。
これを中庸といい。かの孔子が忠恕と呼んだものだと思うじゃね。簡単にいえば、バランス感覚。それも、足して2で割ったものでなく、質的に2倍に統合し、全体として進化したものといえるわけじゃ。
数学的にいえば、スカラー量でなくてベクトル量なわけですじゃ。次元が増えるのですじゃね。だから相転移が生じても揺らぎがないのですじゃ。やっぱり、簡単には解説できんじゃが、イメージとして捉えて欲しいじゃ。
それは測定に際し、なんらかのエネルギーのやりとりが発生してしまうからだに。
なぜなら、この宇宙構造が既になんらかの熱をもつ形であり、光自身がエネルギーをもつのだから、至る所で、粒子が励起されてしまうわけじゃね。そもそも、この絶対温度の概念が、理想化した気体のなかの粒子運動を基準としたものであるじゃ。
感覚からくる現実と、思考上の理想の概念では、大きく異なるわけだにね。
では、摂氏温度は、恐らく人間生活の便宜上の単位、水の凍る熱量を、ゼロという基準にしたものなんじゃろうね。対して絶対温度は、物理的環境を測定するのに都合のよい便宜上の単位といえるじゃね。
水が凍るというのは、科学的には、液体から固体に結晶構造を構築することで、相転移と呼ばれるじゃ。相転移というのは、いわば、モノの形状が変わるから、物質的思考からすれば、不思議な現象にみえるじゃろう。
水が氷になると、水に関わるライフスパン、生活環がバランスを失うからじゃね。簡単にいえば、量的変化から質的変化に変わってしまうわけじゃ。経済でいえば、金持ちがいきなり貧乏になるようなもんと考えてよいじゃろうね。
それは全て、概念でいえば、ゼロという正負のバランスをとる基準が変わるから起こることといえるじゃね。実際は、その背後で、宇宙の構造が変わったり、地球に占める全物質量が変わったり、全情報量が変わったりしているわけじゃね。
これらの全量があまり巨大だから、大きく変わることなく、そのマクロ量に比べて、人間が取り扱う量が微量なので、単位の基準を変えることなく、絶対的な概念で把握できているわけじゃね。
つまり、体系の質的変化、大きな相転移が生じていないから、いわば健全な秩序が保たれ、バランスよく、病的な状況に陥っていないわけじゃね。
これを情報量で考えてみれば、マクロ量として、より多くの情報をもっている方が、安全といえるわけだにね。マクロ量というのは、いわば時間毎に変化しない大きな構造的な数といえるじゃろう。マクロ量というよりも、バランス数、スケール量といった方がよいかもしれんじゃ。
この宇宙全ては変数からなるが、それはこの宇宙が刻々と変化し、無常な性質から現れるわけじゃが、無常を蓄積していくと、そのなかに、常なる全体の体系が現れてくるわけじゃね。これを体系化したのが易学で、応用したのが占いといえるじゃね。
だから、どれだけ常なる全体の体系を体得しているかで、外見や形態上は変化しているが、常に、揺るぎがないバランスを見出す、ゼロ点を所有することができるといわけじゃね。
これを中庸といい。かの孔子が忠恕と呼んだものだと思うじゃね。簡単にいえば、バランス感覚。それも、足して2で割ったものでなく、質的に2倍に統合し、全体として進化したものといえるわけじゃ。
数学的にいえば、スカラー量でなくてベクトル量なわけですじゃ。次元が増えるのですじゃね。だから相転移が生じても揺らぎがないのですじゃ。やっぱり、簡単には解説できんじゃが、イメージとして捉えて欲しいじゃ。
2007-09-13 | 錬金術者 #- | URL|[ 編集 ]
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よく、昔の人の言ったことを、現代の視点からみて、迷信だとかいって、科学的でないと馬鹿にする人がいるじゃないですか? 確かにそういうもんもありますが、全てが迷信とはいえないと思うんです。
特に、ギリシア時代の哲学者などは、現代でいれば、その道の達人、オーソリティなわけで、そのような立場の人が、現代からみたとしても、馬鹿なことをいうはずはないと思うわけです。
タレスの万物の根源は水であるとか、アリストテレスの4大元素とか、現代の物質的視点だけからみれば、確かに疑問符がつきますが、それは、彼らが間違っているのではなく、現代の理解、意識が及ばない領域のことを語っているという風に、謙虚に捉えたいと思うわけです。つまり簡単にいえば、自分が無知だからこそ、理解できないのです。
たとえ間違いであった(勿論、彼らの言ったことは間違いではないですが)としても、その間違いに至る背景は理解できなければいけないと思うわけです。
つまり、他者を馬鹿にする行為は、自らの無知を棚に上げている証拠だと思うわけです。