2007年09月05日 (水) | Edit |
J・クリシュナムルティ 中川吉晴訳「瞑 想」星雲社より(39)



The death

that meditation brings about

is the immortality of the new


瞑想がもたらす死によって

不死なる新しいものがあらわれます





あなた自身が それに出会うなら

それが もっともすばらしいことです

わたしは そのなかに入ってゆくことができます

しかしそれについて語られていることは

語られるそのものと同じではありません

あなたが

あなた自身を見つめることによって

これらすべてのことを学ぶのです

どんな本も

どんな教師も

それについて あなたに教えることはできません

ひとをあてにしてはなりません

宗教団体に加わってもなりません

ひとは そのすべてを

自分自身から

学ばなくてはならないのです

こころは そこで

信じられないものを発見するでしょう

そこには

バラバラに引き裂かれているものは

なにひとつありません

だから そこには

はかりしれない落ち着きがあり

軽やかさがあり

流れるような動きがあります

そのような心には

時間は存在しません

それゆえ

生きることは

まったくちがった意味をおびるのです





J・クリシュナムルティ 中川吉晴訳「瞑 想」完了



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コメント
この記事へのコメント
戦後の親は
愛情と甘やかしを混同し「ノー」といえない親ばかりですわ
2007/09/05(Wed) 21:47 | URL  | マリア #-[ 編集]
ひとをあてにしてはなりません☆
こんばんは☆

>・・・一度、他者に助けられると、どうしても他人をあてにする気持ちが起こりがち・・その方が快適で楽じゃからね。

そうなんですよ。錬金術者さん!そうやって、人を当てにして甘えているうちに、常に「誰か」「何か」が手を差し伸べてくれる、それが当たり前になって、本来自分が持っている強さや力に気づかず、というより、立てる歩ける能力があるのに「おんぶ」次は「だっこ」そして「肩車」と(自分でそれと気づかずに)段々段々エスカレートして、自分から足腰弱らせていくようなものですからね。使っていないのだから当然だけれど。。。

誰だって好き好んで、わざわざ苦労したいとは思わないし、誰かが魔法のように自分の苦手なもの(人間関係も含めて)から解放してくれるんであれば、それに越したことはないけれど、いつまでもそんな訳にいかないのが人生でしょう?

借金癖のある人に、親だの親戚だのが代わりに返済しても、その人の金銭感覚のルーズさという「弱点」を、本人が克服しない以上どうにもならない。

そして、それは廻りが「手助け」している限り治らないのと全く一緒!
本人が苦労して骨身に沁みるような痛い思いをしない限り「手助け」が却って、相手の弱点を助長することに相成る。

同じことを何度も繰り返すような弱点、これこそカルマであって、それを乗り越えられるのは自分の意志と努力しかない。誰かに代わりに払ってもらうのは、まさしく「バンドエイド」的な応急処置でしかありませんものね。

私も、人間は一人で生きていけない以上、持ちつ持たれつでお互い助け合うことは、とても重要な事だとは身に沁みて思うものの、程度問題で「限界」があるし、してはいけない事も多々あるし、何より良かれと思ってしたことが、実は「甘やかし」に過ぎず、どころか益々、相手の欠点を助長していたことに遅まきながら気づいたという、苦い経験がありますのでね。

それと、助けられた人間て最初は感謝していても、いつしか「当たり前」になって、今度、助けてくれないとなると、逆に文句をいうようになるんですね。「冷たい!」とか何とか。

人の欲望には切りがないというけれど、相手に対する期待もまた然りですね。

ロス博士の『死ぬ瞬間と死後の生』に「キリストは、自分にはエルサレムを変える力が備わっている事を知っていました。しかし同時に、そんな事をしても長続きしない事もわかっていました。キリストのなした最高の選択、それは、決して自分の力を使うまいと決めた事です」という件に、私、妙に納得しましたもの。
2007/09/05(Wed) 20:56 | URL  | マリア #-[ 編集]
子育ての成功の秘密は
特に子育てに苦労しているお父さんやお母さんの
多くが今回の錬金術者さんが指摘されていることを
理解しておられないのではないでしょうか?

つまり子育ての奥義は正に「見守る」ことに
つきるのです。

過保護な両親に育てられた子供たちは
貴重な失敗の体験が出来ないまま
大きくなってしまいます。

貴重なものを学ぶチャンスを奪ったとして、
子供たちはいつまでもご両親を恨むことになります。


お父さんやお母さんたちは
子供たちを助けられるというエゴがあるじゃ。
そして、子供たちを助けるのは正しい行為という
自負心があるじゃ。

つまり、謙遜がない。
人間は必ず間違うのだから、
全く正しい行為など有り得ないものといえるじゃろう。
正しいかどうかは、神々が判断することで、
我々人間は、ただ、その判断を神々に委ねるしかないといえるじゃ。


子育ての成功の秘密は
すべての人間関係の成功の秘密であるかもしれません
それは錬金術者さんが指摘された次の言葉のなかにあります。

秘教では、仲間を助けるのに
力を行使するよりも、
自らの中に静かに引き篭もり、
祈りを通じて、魂の力に働きかける。



南無観世音菩薩 
オン・マニ・パドメ(ペメ)・フム



2007/09/05(Wed) 20:15 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
優しく見守ること
誰かを救った(レスキュー)からといって、
必ずしもその人を助けた(ヘルプ)ことにはなりません。

私達は相手に負い目を持たせる「救う」という事と、
相手が求めてきた時に「助ける」事の違いを
知らなくてはなりません。

そもそも、謙虚でなくては助けることは出来ないのです。


人を救う事は出来ません。
救われた人は、救ってもらったお陰で学ばずに済んだことを、
結局は学び直さなくてはならないのです。

誰かの代わりに高校に行って試験を受け、
卒業免状を受け取ってやるわけにはいかないのと同じ事です。

私の先生達は、愛とはいったい何かという
最高の定義を教えてくれます。
それは、救いの手を出さずに、
相手が自分で学ぶのを優しく見守ることです。

愛とは、いつ補助輪をつけてやったらいいか、
いつ外したらいいかを知ることです。それが愛です。
補助輪を外すのはつけるよりも遥かに難しいです。
でも結局は外さなくてはならないのです。

だから、もし誰かが救いを求めたら、
優しくこう言ってあげることです。

あなたが自分の苦痛から学ぶ事は全て、
試験に合格する為に必要なんですよ、と。

楽にさせてあげようと思って気安く手を貸してしまうと、
飛躍的な成長の機会を奪ってしまうことになります。


キューブラー・ロス『死ぬ瞬間と死後の生』ろくろくメモ⑧



2007/09/05(Wed) 19:28 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
天は自ら助ける者を助けるその2
 真事に、マリアさまは良きことを、お書きになりますだに。正に「見守る」こと、重要ですだに。

 秘教では、例えば、仲間を助けるのに力を行使するよりも、自らの中に静かに引き篭もり、祈りを通じて、魂の力に働きかける人の方が、賢いというだに。

 現代人の感覚で、傍からみれば、仲間を助ける行為の方が、道義的で、ただ、祈るだけの行為が、いかにも怠惰にうつるだろうじゃ。

 しかし、視点を変えると、それはある意味、自惚れに近いともいえるだに。第一、自らが他を助けられるというエゴがあるじゃ。そして、仲間を助けるのは正しい行為という自負心からくる判断があるじゃ。

 つまり、謙遜がない。人間は必ず間違うのだから、全く正しい行為など有り得ないものといえるじゃろう。正しいかどうかは、神々が判断することで、我々人間は、ただ、その判断を神々に委ねるしかないといえるじゃ。
 
 つまり、ここに信仰が見出される。もし、神々がこの世をつくり、今も猶、その働きがあるなら、各人各人に降りかかる苦悩や苦痛、災難や困難は、その人の為であり、その人の魂の養分ともいえるじゃろうね。

 だから、その人を見守り、自らの足で立って歩けるように叱咤激励するしかない。これは、ただ、その人の魂に訴えるしかないわけじゃね。

 しかも、怠惰な人間のことだから、一度、他者に助けられると、どうしても他人をあてにする気持ちが起こりがちじゃね。その方が快適で楽じゃからね。
 
 しかし、快適で楽なのは、つまり自らの意志で動いていないということで、誰かの意志に乗っかっていることになるじゃ。だから、自分を失っていることになるだに。

 自分がやりたいと思うことは、実は、自分のなかにある闇のエゴが、自分を使ってやらせたいだけで、これは本来の自分ではないじゃ。本来の自分とは、この誘惑から、逃れ、自らの足で立つことをいうじゃね。

 それには、苦痛や苦悩や困難を自らで克服するのが最もよいわけじゃ。何かに頼りたくなるときこそ、自らの力で解決するのは、誘惑に負けないということであるじゃね。
2007/09/05(Wed) 15:46 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
「救う」と「助ける」の違い☆
誰かを救った(レスキュー)からといって、必ずしもその人を助けた(ヘルプ)ことにはなりません。
心のどこかでは誰もがそのことを知っている筈です。

何故なら、誰かを救った場合、上下関係ができて、救われた人は下に救った人は上の立場になります。
誰かを救ってバンドエイドを貼ってあげても、ちっともその人を助けたことにはなりません。
私達はお互いに、兄弟姉妹の守り手です。誰かが助けを必要としている時には、手助けする責任があります。
しかし、私達は相手に負い目を持たせる「救う」という事と、相手が求めてきた時に「助ける」事の違いを知らなくてはなりません。そもそも、謙虚でなくては助けることは出来ないのです。
救う事と本当に助けになる事との差は紙一重でしかありませんが、助ける事こそ真に人間のすべき事ではないでしょうか。

・・・・中略・・・

私が何に気づいたかというと、学ぶべきことはいずれにせよ何らかの形で学ばなければならないということ、そして学ばなければならない理由はあなた自身にあるということです。

また、母のことはやはり神のみ御業だということに気づきました。
それはある程度離れないと見えないのだということにも気づきました。
あまりに近くにいると客観的になれず、よく見えないのです。はっきり見る為には距離が必要なのです。
目つきで私に罪悪感を覚えさせた、あの苦しみ抜いた母と離れた時、全てはやはり神の御業だったのだということが見えてきました。神は母に、79年間ひたすら与え、愛し続けることを許しました。でも母はぞの為に最後の4年間、受け取る事を学ばなければならなかったのです。

お分かりになったでしょうか、寛大ということの意味が。

過去に学べたものを、今になってさんざん苦労して学んでいる人を見ると、ああ神の御業だなと思います。
本当はずっと前に習ったことなのです。ただ、私達はちゃんと聞いていなかったのです。責任は私達にあるのです。
頭の上にツーバイフォーの材木があります。それをちゃんと理解しないと、次にはもっと太い木がのしかかってきて、頭が割れてしまうかもしれないのです。

・・・・中略・・・

最初に過大を与えられた時にちゃんとやらないと、必ずまた課題を与えられます。しかも前より難しいものを。
もし私が母を安楽死させていたら、きっと母箱の世に戻ってきて、最初からやり直し、受け取ることを学ばなくてはならなかったでしょう。それによって、母は受け取ると言う事を否応無しに学んだことでしょう。

つまり、私は、母を愛していたからこそー今でもその愛は変わりませんー安楽死を望む母に「ノー」といい、そのお陰で母は苦痛に満ちた一生を送らずにすんだのです。どういうことか、お分かりですか。

人を救う事は出来ません。救われた人は、救ってもらったお陰で学ばずに済んだことを、結局は学び直さなくてはならないのです。
誰かの代わりに高校に行って試験を受け、卒業免状を受け取ってやるわけにはいかないのと同じ事です。
自分でやらなくてはいけないのです。真実の愛こそ答えです。
私の先生達は、愛とはいったい何かという最高の定義を教えてくれます。
それは、救いの手を出さずに、相手が自分で学ぶのを優しく見守ることです。
愛とは、いつ補助輪をつけてやったらいいか、いつ外したらいいかを知ることです。それが愛です。
補助輪を外すのはつけるよりも遥かに難しいです。でも結局は外さなくてはならないのです。

だから、もし誰かが救いを求めたら、優しくこう言ってあげることです。ーあなたが自分の苦痛から学ぶ事は全て、試験に合格する為に必要なんですよ、と。楽にさせてあげようと思って気安く手を貸してしまうと、飛躍的な成長の機会を奪ってしまうことになります。
貴重なものを学ぶ最後のチャンスを奪ったとして、その人はいつまでもあなたを恨むことになるでしょう。

お分かりになりましたか。救う事と助ける事とは紙一重です。これを覚えておく事は大変、大事です。

『死ぬ瞬間と死後の生』 E・キュブラー・ロス 中公文庫 ¥762(税別)



2007/09/05(Wed) 11:01 | URL  | マリア #-[ 編集]
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