2007年09月02日 (日) | Edit |
J・クリシュナムルティ 中川吉晴訳「瞑 想」星雲社より(36)


瞑想するとは

時間を超越することです

時間とは

思考が その達成にむけて旅する距離のことです

その旅は

新しい装いをこらしていようと

新しい風景に囲まれていようと

いつも古い道をとおっていきます


いつも同じ道すじをたどり

苦痛と哀しみのほかには

どこにもたどりつきません



心が時間を超越するとき はじめて

真理はたんなる抽象概念ではなくなります

そのとき 至福は

快楽に由来する観念ではなくなり

言葉ではない 現実のものとなります



心が空っぽになり

時間がなくなると

真理の静寂があらわれます

それを見ることが 行うことです

したがって

見ることと 行うことのあいだには

どんな境目もありません

見ることと 行うことのあいだに

へだたりがあれば

そこから

葛藤や みじめさや 混乱がうまれます


時間をもたないものは

永遠の相のもとにあります



次回につづく


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2007/09/02(Sun) 21:36 | URL  | magazinn55 #-[ 編集]
現実を受け入れられない人
私のような外国人が座禅したいとやってくると、
必ず質問を受ける。

「期間はどのくらいやりたいんですか」

「とにかく半年でもいいから、
できるとこまでやってみたいです」
という人が、意外に長く続く。

半年のはずが一年たってもやめず、
五年たっても座禅している。

逆に、初めに「十年」と自信たっぷりにいう人は、
予想どうり、ふた月もたたないうちに
さっさとやめて帰国してしまう。必ずそうなる。


何故か。

十年やるという人には、はっきりしたイメージがある。
禅とはこういうものだ。だからやりたい。

しかし実際にやってみると、
あれもこれも自分の思ったものと違う。
イメージしていたものと現実の間にズレがでてくる。

そのことに不満を抱く人は、
実は現実を受け入れられない人なのである。

「私のイメージと違う。これはダメだ」
そういって、外国人の多くはやめてしまう。


自分がやめるだけならまだいいが、
なかには全部ウソだと決めつけて学者になって、
手のひらを返すように禅の批判者になる人が実際に何人もいる。

そういう人は、自分の夢が真実だと思って疑わない。
自分の錯覚に気付かない。
しかし、冷静に考えれば気付くはずである。

何もわかっていない自分が思い込みで描いていたイメージと、
現実とが合致するはずはないのである。
問題は、現実と自分がイメージしていたものとの
ギャップに気付いて、そこから、どうするか、である。


トーマス・カーシュナー『禅僧になったアメリカ人』より ろくろくメモ①



2007/09/02(Sun) 18:37 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
やめるか続けるか☆
日本人がいう<初心>とは、素直な心、素直な心で一生懸命やる、という意味だと私は思う。
しかし別の一面として、初心者には必ず思い込み、決めつけ、一種の錯覚が入っている。

始めたばかりの人には、その人なりの強い思い込みがある。禅に対するイメージがあって、夢もある。
だからこそやり始めるわけで、初心者であるからこそ夢を追いかける。一生懸命、頑張れる。
しかし、やっているうちに現実が見えてきて、こんなはずじゃなかったとがっかりする。
苦い経験でわかってくる。そのときが一つの危機。そこで、どうするかが、大きな問題となる。

祥福寺に居た時、私のような外国人が座禅したいとやってくると、役位酸は必ず質問する。

「期間はどのくらいやりたいんですか」
「とにかく半年でもいいから、できるとこまでやってみたいです」
という人が、意外に長く続く。半年のはずが一年たってもやめず、五年たっても座禅している。
逆に、初めに「十年」と自信たっぷりにいう人は、予想どうり、ふた月もたたないうちにさっさとやめて帰国してしまう。必ずそうなる。

何故か。

十年やるという人には、はっきりしたイメージがある。禅とはこういうものだ。だからやりたい。
しかし実際にやってみると、あれもこれも自分の思ったものと違う。
イメージしていたものと現実の間にズレがでてくる。そのことに不満を抱く人は、実は現実を受け入れられない人なのである。

「私のイメージと違う。これはダメだ」
そういって、外国人の多くはやめてしまう。

自分がやめるだけならまだいいが、なかには全部ウソだと決めつけて学者になって、手のひらを返すように禅の批判者になる人が実際に何人もいる。そういう人は、自分の夢が真実だと思って疑わない。
自分の錯覚に気付かない。しかし、冷静に考えれば気付くはずである。何もわかっていない自分が思い込みで描いていたイメージと、現実とが合致するはずはないのである。
問題は、現実と自分がイメージしていたものとのギャップに気付いて、そこから、どうするか、である。

やめるか。

やめずに、本当の現実とは何か、自分の思い込み、自分の描いた夢ではなく、禅そのものと向き合って、とにかく続けるという道を選ぶか。
私も祥福寺に居士として入った頃は夢を追って、やる気満々だった。しかし夢はやはり夢。僧堂生活を続けてゆくなかで、確かに現実とのギャップも感じたし、初心の頃と同じだけのやる気はなくなっていた。
それが祥福寺三年目のころで、一つの節目だった。多くの人が同じパターンでたどる三年目のスランプだといえるだろう。

そのとき、お寺の息子であれば自坊に帰って後を継ぐことになり、在家出身であればいろいろ迷った挙句、僧堂を出て、どこかのお寺を世話されて住職として生活していくようになる。よく見られるパターンで、これも一つの現実である。

外国人である私には、日本のお寺の住職になる道はなかったが、それでも出家したい、この道しかないという気持ちは、かなり以前からあった。

私は迷いながらも出家の道を選び、そして健長寺に入ったのである。

『禅僧になったアメリカ人』 トーマス・カーシュナー 禅文化研究所 ¥1680
2007/09/02(Sun) 08:27 | URL  | マリア #-[ 編集]
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