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2007年08月14日 (火) | Edit |
五木寛之・帯津良一 著「健康問答」平凡社より(16)


五木 いま、ノロウィルスや新型インフルエンザの恐怖が、
いろいろいわれてますでしょう。対症療法として、とりあえず、
手洗いと、うがいを励行しろといっていますが、手洗いは有効
でしょうか。

帯津 いやー、O-157のときもそうだったんですけれど、
あまり細菌を嫌い過ぎてもいけないと思うんですよね。

ごく常識的に棲み分けをちゃんとやっていれば、
過剰反応する必要はないでしょう。われわれの子どものころは、
手なんか洗わなかったですよね(笑)。

五木 洗いませんでしたとも(笑)。


帯津 それで、なにも起こらなかったですよね(笑)。腐った饅頭
なんか食べて下痢しても、そのままで、だいたい治っていたん
ですよね。

五木 以前、免疫学者の多田富雄さんと対談したことがあります。
O-157が流行ったときに、同じ給食を食べた生徒のなかで、中毒
した子と、中毒しない子といた。その差はなんだといったら、

いつも手を洗っているか、洗っていないかのちがいかもしれないと
いう話になりました。あるレポートでは、しょちゅう手を洗ってい
る子は、免疫力がないから、中毒を起こしたという説もありましたね。

帯津 そういうことに、なりかねないんですね。

五木 汚いものでも、手で拾って食べるような子は、私たちの子ども
のころは、弁当くらいで中毒しないといわれた。

帯津 ええ、ほんとに、そう(笑)。

五木 免疫というのは、必要に応じて出てくるし、必要がなければ
退化していくものですから、多様な免疫力を身につけるためには、

子どものときから、泥だらけの手で拾ったものを食べるみたいな
ことも、必要なのかもしれない。でも、それをすすめるわけにいか
ないでしょう。もっと汚くしろ、というわけにはいきませんから。

帯津 そうですね。いま、抗菌グッズといわれるものが出まわって
いますが、わたしはおかしいと思うんですよね。O-157のテレビ報道
のときも、防衛策として学校給食のおばさんがマスクをして、ビニール
の手袋をはめて給食をつくっているのが写されたでしょう。

五木 そう、そう。

帯津 私は、ビニールの手袋は、やり過ぎだと思うんですよね。
料理するのに手袋してつくったら、旨いものができないでしょう。

五木 うーん。それが、私も驚いたのですが、いまヨーロッパでは、
すし屋の数がものすごく増えていまして、外国人が握っている例も
多いんだけど、やっぱりビニールの手袋をはめていましたね。

帯津 ああ、ヨーロッパのすし職人は、手袋をはめて握るんですか。

五木 日本でも、デパートの地下にお惣菜を買いにいくと、店員の
おばさんが、かならず薄い手袋をはめて対応するようになりましたね。
考えようでは、なんか安心のような気もしますけれどね。鼻くそほじ
った手で、つまんで載せられるよりは、いいような気もするけれど(笑)。

帯津 気分的には、そうですね。

五木 やっぱり、手洗いは、したほうがいいですかね。

帯津 まあ普通に、ということじゃないでしょうか。私なんか、
いまでもあまりやりませんけれどね(笑)。



次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
愛と気骨とユーモアの人☆
こんばんは☆

あっ、ろくろくさんもお読みになったんですね!

「人生は廻る輪のように」は「ライフ・レッスン」と同時期?くらいに購入して読みました☆

本当、感動的ですよねぇ、と同時に苛酷ですよね。。。

一難去ってまた一難、その繰り返しで、彼女の意志の強さ、志の高さ、けっしてべたべたした優しさでも愛情でもない、「博愛」という言葉がこれほど相応しい人って珍しい・・・他に思いつくのは、マザー・テレサくらいのものですわ。

黒うさぎのブラッキーとのエピソード、何十年もたってから苦痛や怒りや悲しみの感情や涙が、あることをきっかけに、思いもよらず堰を切ったかのようにこみ上げてきて、訳のわからぬまま泣き崩れたという、あのエピソードは私自身が丁度、同じ時期、同じような経験していたこともあって、非常にタイムリーな話題といいますか

「人生は時間と共に展開していくが、教訓はその人が必要とするときにやってくる」

本の中の言葉その通りだったので、何事にもその時期、タイミングというものが確かにあるんだと、何より感情は消えてなくなるわけじゃなく、いつかは表面化してくるのだという厳然たる事実に、変な話、万感胸に迫るといいますか、感無量になりました。

今、私も「その時」処理できなかった感情の膿を出しているんだな、って。

ロス博士は私の魂の「恩人」ですわ☆
2007/08/15(Wed) 00:33 | URL  | マリア #-[ 編集]
私達は自由でも平等でもない
皆さんは次のことを知っていなければ
ならないと思います。さもないと、
あとでひどい目にあうでしょう。

それはなにかというと、前にも申しましたように、
私達は自由でも平等でもないということです。

私達が個人の自由と平等に思いついたときは、
じつはもう手遅れで、その頃までには、
私達の自我は、遺伝や環境によって、
殆ど身動きのとれぬほどに決定されてしまっている。

皮肉な話ですが、どうすることもできません。


極端にいえば、私達は自分の自由意志で
うまれてきたわけではない。

私達は何国人にうまれる自由もなければ、
父母の人格や職業や階級を選ぶ自由もない。

そもそも「うまれる」という言葉は
「うむ」の受動態で、
「母が私をうんだ」の受動態が
「私は母によって生まれた(うみだされた)」

となるのですから、
人間は出発点から受動的であり、
自主的ではないのです。


同じ条件、同じ機会を与えられても、
誰か他の人のように、それを上手く利用できない自分、
或いははその反対に、
他人よりは上手くそれを利用しうる自分、
そういう自分というものに気づくでしょう。

また、性懲りもなく、同じ過ちを繰り返す自分、
嫌になるほど同じようなことに腹を立てたり
同じようなことに憂鬱になったりする自分、
そういう自分のしょうことなさに気づくだしょう。


この前、人格というものも、顔の美醜と同様、
努力しだいで簡単に変えることのできぬものだといったのは、
そういう意味においてであります。


福田恒在『私の幸福論』より ろくろくメモ②


2007/08/14(Tue) 21:46 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
「人生は廻る輪のように 」
エリザベス・キューブラー・ロスの自叙伝
を昨日~今日で一気に読み上げました。
息つく暇もないほどに面白く感動的な内容でした。
マリアさんは、もちろんもうお読みですよね。



内容(「BOOK」データベースより)
世界的ロングセラー『死ぬ瞬間』で死の概念を変え、生涯を通じて「生と死」の考察に深いまなざしを注ぐ精神科医キューブラー・ロスによる、最初で最後の自伝。スイスで過ごした少女時代、難民救済活動、ナチス強制収容所で出会った蝶の壁画の謎、医師への道、結婚とアメリカへの移住、終末期医療と死の科学への取り組み、夫との別離、体外離脱体験、詐欺及び殺人未遂被害、ヒーリングセンターの設立、放火によるすべての焼失…。魂の名医が綴った、愛と死と生の秘密。ページをめくるごとに、希望と感動が溢れてくる一冊。


2007/08/14(Tue) 21:21 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
人体を健康に保つためには
ウイルスや細菌が、繁殖しにくくすれば
よいことになる。

そのためには
肉や乳製品や小麦粉でつくられたものを
食べないことだという。

ケーキもプリンもクッキーも
パンもうどんもラーメンもパスタもやめて

ご飯と味噌汁だけ 日に1~2食で十分なのだそうだ。
われわれは食べ過ぎにより肝臓、すい臓などの
内臓を疲れさせて抵抗力が弱っているのだという。


2007/08/14(Tue) 21:05 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
O-157が流行ったとき
同じ給食を食べた生徒のなかで、
中毒した子と、
中毒しない子といた。
その差はなんだといったら、

いつも手を洗っているか、
洗っていないかのちがいかもしれないと
いう話になりました。

あるレポートでは、
しょちゅう手を洗っている子は、
免疫力がないから、
中毒を起こしたという




O-157が流行ったとき
しょちゅう手を洗っている子の方が
中毒を起こしたというのには
チョッとびっくりでした。

でもよく手を洗うようになって
明らかに風邪を引かなくなりました。



2007/08/14(Tue) 20:35 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
やっぱり(笑)
そうじゃないかと思いましたわ♪

お料理も、下手な主婦よか断然!美味しいものを同じ材料で作ると思う、錬金術者さんは☆
2007/08/14(Tue) 15:14 | URL  | マリア #-[ 編集]
どうもマリアさま!
 お料理はあまりしないですが、食べるのはグルメです。滅茶苦茶、凝り性ですね。腹八分がよいのでしょうけど…。
2007/08/14(Tue) 13:24 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
錬金術さんて
お料理、凄く上手いんじゃない?プロ並みに☆

なんか玄米とか食べなさそう(笑)

AB型ってグルメというか、凝り性というか味に敏感な人が多い気がしますので♪



2007/08/14(Tue) 11:02 | URL  | マリア #-[ 編集]
三 自我について☆ー続き
皆さんは、ちょうど自由平等の観念に目覚める年頃でしょう。幼稚園の子供が自由だの平等だのとは叫びはしません。誰も自我意識を持ちはじめるのは、15・6歳から17・8歳にかけてでしょう。

その頃になって、自分が1個の独立した人格であり、他人とは異なる存在であることを自覚します。
自分とは相容れない人間、自分と利害を異にする人間、そういうものを発見することによって、逆に自分がどういう人間か、その輪郭を知るようになるのです。そういう他人の中に、父母、兄弟、姉妹も登場します。

つまり、父母をはじめとする家庭の成員を他人として眺めるようになった時、その人の自我意識はようやく根付きはじめたといえましょう。

平生は意識していない肩というものに触られて、初めて肩を意識する。
それと同様に、私達は父母の干渉や容喙(ようかい)にぶつかって、初めて自分の輪郭を意識するのです。
そういうふうに幼児から徐々に意識してきた輪郭が、成年期にいたって、はっきりした線をとるようになる。そうなると、父母の干渉に、それまでは感じなかったほどの苦痛を覚えるのであります。それが自我意識を、つづいて自我の反抗を呼び起こします。

この自我意識は、社会とか国家とかいう家庭よりももっと大きな集団にぶつかることによってさらに強化され、明確化されるでしょう。それに伴って、反抗意識も強くなります。そのと気自由平等という概念が皆さんの脳裏に浮かぶのも当然です。反抗意識が自由平等の観念を呼びおこし、自由平等の観念が、また逆に反抗意識を補強するのです。

そういう時期は大切です。この反抗の時期を持たぬままに成長した人間を、私は信用することができない。それは何かが欠けていることです。

同時に、そういう時期においても、皆さんは次のことを知っていなければならないと思います。さもないと、あとでひどい目にあうでしょう。
それはなにかというと、前にも申しましたように、私達は自由でも平等でもないということです。
私達が個人の自由と平等に思いついたときは、じちはもう手遅れで、その頃までには、私達の自我は、遺伝や環境によって、殆ど身動きのとれぬほどに決定されてしまっている。皮肉な話ですが、どうすることもできません。

極端にいえば、私達は自分の自由意志でうまれてきたわけではない。
私達は何国人にうまれる自由もなければ、父母の人格や職業や階級を選ぶ自由もない。
そもそも「うまれる」という言葉は「うむ」の受動態で、「母が私をうんだ」の受動態が「私は母によって生まれた(うみだされた)となるのですから、人間は出発点から受動的であり、自主的ではないのです。

普通、高等学校や大学を卒業した知識階級は、なんとなくお互いどうし共通の地盤の上に立っているような錯覚を抱きやすいものです。なぜかといえば、与えられた知識が共通のものだからです。

だが、共通なのは知識だけではないでしょうか。
人間は自由平等だという知識くらいのものではないでしょうか。

まして、貧民層にでも生まれてしまえば、そして小学校もやっと卒業できる程度の家庭に生まれたのでは、そういう知識も身につけられず、自由だの平等だのと唱えるすべも知らずに終わりますし、それに気づいたところで、そんな家庭に生まれ上級学校も卒業できぬとすれば、今更どうにもなりはしますまい。

また共通の教育を受けたといっても、人間の人格、たとえば攻撃的な性格とか、引っ込み思案ばかりしている性格とか、そういう本質的なものは、自由平等に気づく成年期には、もう動かし難いものになっているでしょう。
その人の幼年期における家庭の状況によって、すべてが決定ずみです。

その家庭の貧富の差は勿論、それよりも父母やその他の家庭の成員たちの性格、及び人間関係などが、幼児の性格構成に大きな影響を与えられるのです。

社会や家庭という自分以外のものの存在に気づき、それによって自我意識が生じると共に、今度は逆に自我の敵として社会や家庭をとらえはじめるのはいいのですが、もう少し、その自我意識を徹底させていってご覧なさい。

ままにならぬのは、家庭や社会ばかりではなくて、他ならぬ自分自身だということに気づくでしょう。

同じ条件、同じ機会を与えられても、誰か他の人のように、それを上手く利用できない自分、
或いははその反対に、他人よりは上手くそれを利用しうる自分、そういう自分というものに気づくでしょう。
また、性懲りもなく、同じ過ちを繰り返す自分、嫌になるほど同じようなことに腹を立てたり
同じようなことに憂鬱になったりする自分、そういう自分のしょうことなさに気づくだしょう。

この前、人格というものも、顔の美醜と同様、努力しだいで簡単に変えることのできぬものだといったのは、そういう意味においてであります。

さて、ここまでくれば、宿命というものについてお話できる用意が皆さんのうちにできたろうと思います。
といって、私は何も暗い厭世観を宣伝しようというのでは在りません。依然として、私の目的は幸福論にあります。

『私の幸福論』 福田恒在 ちくま文庫 ¥640

2007/08/14(Tue) 10:44 | URL  | マリア #-[ 編集]
アカシックレコードの存在
 生きているうちにどうして、天国にあるものがわかるのかという疑問が浮かぶだろうじゃ。ここに、秘儀参入法と呼ばれる、神々との対話が挙げられるというだに。つまり、神々との対話から知ったわけであるなり。
 太古から、秘儀参入は、特定の霊能力者を選んで、神殿で行われてきたというだに。その有名な人物が、ノア(マヌ)、ゾロアスター、ヘルメス、モーセであるという。その対話ははじめは口伝だったが、後に文書に残されてきた。文書化されることにより、形骸化し、嘘が混じり、人類は、物質的になり、どんどん退廃的になり、人類のエゴ故に、霊能力が失われていったという。
 このままでは不味いので、キリストが太陽から使者として、神の言葉を伝えにきたというだに。太陽の教え、太陽系の黄金律のバランスの教えを、キリスト教として広めたわけだが、いまでは、そのキリスト教でさえも、唯物化し、悪魔アーリマン教となっているようだに。
 自然霊たち、特に精霊たちは、かつて、神々と対話できた人類が、いまでは、精霊の存在をも気がつかないというので、馬鹿にしているというだに。にもかかわらず、この宇宙が、物質世界だけではないことを、メッセージで送っているというだに。
2007/08/14(Tue) 10:30 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
アカシックレコード
 この宇宙で起こる全てが記録されているものがアカシャ記録というものぞな。そこには、思考、感情、意志の全てが記録されているという。
 それはアストラル領域(幽界)と、デヴァチャン(Devachan)と呼ばれる天国(神界)にあるというだに。
 幽界のものは、天国のもののゴーストみたいなもので、擬似だという。つまり、幽界のものは、同じ振る舞いをするので、天国からみないと、本物か偽者か区別がつかんというだに。
 つまり、天国にあるのが真実で、幽界にあるのは、嘘を含んだ真実であるという。これは例えると、電子と電子軌道がつくる電子雲のような関係といえるぞな。位置と運動量が同時に決められない双対性、二元性のハイゼンベルグの不確定性関係ともいえるだろう。
 天国に達するには、三種の神器の、マナス、ブッディ、アートマンを手に入れなければ無理だというじゃね。人体のなかには、既にこの3種の萌芽があるという。マナスからは霊視力、ブッディからは霊聴力、アートマンからは霊人力、つまり、神の存在になるという。
 何度も転生を繰り返し、人生において、遣り残した体験を克服し、もう、やることなく、無我の境地に至ると、はじめて、天国にいけるというだにね。
 それはそれは遥かな道程だという。いまは、マナスを手に入れる段階で、これは、自分以外の他の幸せを願うことから始まるという。他幸福本願の他力本願といえるじゃね。
2007/08/14(Tue) 10:08 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
病は気から
 唯物科学では、ホメオパシーの原理はわからんぞな。なにしろ、人体は肉体で、物質のみから構成されると思い込んでいるからだに。偶像崇拝といってよかろうね。
 人間が宇宙や自然から生まれたとするなら、一体、物質のどの段階で、生命体が生まれたとするのだろうかね? DNAやRNA、蛋白質レベルで自然発生したとするのなら、生命がもっと多様に生まれてもおかしくないが、人類が生まれる確率は、計算すると、非常に少ないというじゃ。
 その僅かで少ない確率が起こることは、統計では有り得ないのだから、非常に稀なことが起こったので、確率計算がおかしいのか、実は多様な人類が既に存在していて、みえないだけなのか、仮説検定でいえば、「人類や生命は、自然に発生する」の帰無仮説は棄却され、「人類や生命は、既に発生しているものの焼き直しである」の対立仮説が有用となるだろうじゃ。
 第一、コンピューターみたいな計算機以上のものが、自然に発生するというのは、どう考えても、有り得ない話で、例えば、人工物をもってきて、「これは自然発生したものだ」というのなら、馬鹿扱いされるだろうじゃ。
 是と同じように、実験で、宇宙の創造を物証したとしても、その実験を行っている知性存在の実験者の人間をも考慮に入れなければ意味がないのであるだに。
 しかし、唯物科学者は、宇宙には、知性体など存在せず、自然に生まれたというのだから、一体、どっちが馬鹿なんじゃろうね?
 宗教の源流を辿ってみれば、既に宇宙は神々が創造したといって証言しているわけだにね。どちらを信じるのも自由じゃが、他方を否定する態度は、よくなかろうね。
 とどのつまり、唯物科学は、物質範囲で成り立つことだに。だから、目に見えない非物質、知性体なぞは、理解できないのは当然といえるじゃね。感覚、意識がその物質領域に止まっているのだから、当たり前の話であるね。このような連中には「無知の知」を説くしかないじゃろね。
 さて、そのような例で、有名なのは、ウイルスや細菌病因説で、病気をウイルスや細菌のせいにするものだが、これは、例えば、殺人の原因を、犯人でなく、直接の死因、例えばナイフ等の凶器に求めるもので、滑稽にみえるだに。
 殺人現場に、刑事が来て、犯人は、このナイフだから、捕まえろなんていうのは、コントにすらならないだろうじゃ。
 つまり、ウイルスや細菌は、繁殖に適した土壌を好んでやってきただけで、問題は、そのような物質環境をつくった点にあるわけだに。人体のなかにウイルスや細菌が繁殖しやすい土壌をつくった点にあるだに。
 だから、問題は、人体を健康に保つためには、何が必要かというわけだに。それはバランスであり、気であるわけだにね。目にはみえない、気の流れが重要ぞな。また、精神の状態は、気の流れに影響するぞな。
2007/08/14(Tue) 09:26 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
錬金術者さん☆
アカシック・レコードの記事、凄い衝撃的!

それも1972年って、35年も前にそんな技術が開発?されていたなんて!ビックリ!!

私、自分のアカシックレコードにアクセスしてみたいと、かねてから思ってはいたものの、それは「死後」のお楽しみ?にしていまして♪

とはいえ、ただ単に「死ぬ」だけでは無理なような、ある程度、浄化していないとできないような、もしくは(あくまで守護霊の判断で)必要に応じて部分的に見せてもらえる、ような気がしていますが。。。
2007/08/14(Tue) 09:24 | URL  | マリア #-[ 編集]
過ぎたるは及ばざるが如し☆
おはようございます☆

何事も程度問題ですね。食事でも何でも、大切なのはバランスだと。

いくら、体にいいものだからといって、そればかり食べていれば事足りる、なんてものはありませんもの。

体に悪いものを、あえて摂る必要もないけれど、好きな物なら精神的な、少なくとも心の栄養にはなっているわけですし

世のなか生きていくには、清濁併せ呑めるようになって、初めて行きやすくなる気がしますわ。

肉体的にも精神的にも、無菌、抗菌、純粋培養の温室で育てられるのは(記事にもあるように、)本来の「免疫力」までを失ってしまい、抵抗力のない虚弱体質に(わざわざご丁寧にも)結果的にしているようなもので。

潔癖も過ぎれば「潔癖症」という病的なものになって、人生愉しめないと思いますし、ある程度の「毒」はむしろ必要だとさえ思いますわ
2007/08/14(Tue) 08:58 | URL  | マリア #-[ 編集]
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