2007年08月13日 (月) | Edit |
五木寛之・帯津良一 著「健康問答」平凡社より(15)


五木 いま、低体温ということを問題にする医師の方が増えて
いますね。肩こり、便秘、腰痛、生理痛から高血圧症、ガンに
いたるまで、平均体温が三十五度台の低体温が、体を悪くする
原因だと。

だから体を温めて、体温を一度上げるだけで白血球のなかの
リンパ球の数がグンと上がり、病気をやっつける免疫力が
アップするということがいわれています。つまり体を温める
ことをすすめていますが、いかがでしょうか?

帯津 それはだいたいは、まちがいないでしょうね。


五木 そうですか。しかし、そうすると、昔は健康の秘訣という
のは薄着でした。厚着ほど良くないと、私たちはいつもいわれて
いたでしょう。厚着は風邪の元とか。

帯津 そうなんですが、あれは、ある負荷をかけて、体を鍛える
という意味もあるんじゃないかと思うんですね。私も薄着のほう
が好きですけどね。

五木 とすると、ふだんは体を温かめに維持したほうが、
やっぱりいいんでしょうか。

帯津 ただ、ビールのことでちょっと触れましたが、中国医学の
診断法で「弁証」というのがありますよね。人間の体質を「熱症」
と「寒症」とに分けますね。私は、実は「熱症」なんで、靴下なん
かはくのは嫌いで、冬でも素足なんですけどね。

五木 その人の体質によるんですね。

帯津 ええ、体質によるんですね。「寒症」だったら温めなきゃ
いけないでしょう。ただ、体のなかが、ある一定の温度以上ないと、
リンパ球なんかもよくはたらかないし、増えないし、

ということはありますけど、「熱症」の人は、自然にしてても
体のなかが温かいから、それでいいわけですよね。

五木 いつか薬膳料理を食べに行ったら、最初に、調理師の前に
お医者さんが出てきて、顔を診たり、手を触ったりいろいろされて、
それでメニューを決められたことがありました。その人の体質に
応じた料理を出そうということだったんでしょうか。

帯津 そうなんですね。

五木 中医といいますが、とくに東洋系の医学では、
各人各様の体質を大事にしますね。

帯津 そうです。

五木 野口整体も、各人の体の癖ということをうるさくいいますね。
それは、各人各様の性格だと思うけれども、いまの西洋医学は普遍的
な治療をめざしているわけですから、そういう医療システムのなかでは、
百人百様という風なパーソナルな対応は、できないと思っていますけど。

帯津 ええ、体質というのは一種のゆがみですから、右に傾いた人は
左に正すとか、左に傾いた人は右に正すとか、おのずからちがってくる
わけですね。右にもっていくのか、左にもっていくのか。

五木 なるほど、体を温めるために、厚着をしたほうがいいという説と、
鍛錬のために薄着という説がある。具体的に、たとえば子供などには、
薄着を指導したほうがいいか、たっぷり温かいものを着せた方がいいか、
最初の疑問に戻りますね。

帯津 そうですね。私は、子どもはやっぱり、薄着のほうがいいんじゃ
ないかと思いますけどね。

五木 温かい体をつくるためには、厚着よりも、やはり薄着のほうが
いいわけですか。

帯津 ええ。そのなかでつくっていくほうがね。

五木 真綿のように厚着でくるんで、温かくしたり、カイロをしたり
すると、体自体にあたたかくなる力がなくなるので、人工的に温める
ことを習慣にしないほうがいい、という話を聞いたことがあるんですが。

帯津 反発しなくなりますからね。そうですよ。ただ、体を冷やし
きって、低体温になってしまうのは良くないです。そのために、体が
元気なときに薄着で鍛えたほうがいいですね。

寒症の人が体質改善するときも、急に薄着にするのではなく、
寒くならない時期に少しずつ薄着に慣らしていって、耐性をつくって
いくことが大切ですね。

五木 それを体のなかで、とくに冷えるところ、たとえば耳筋とか、
お腹のまわりとかを、薄布で防御するといったワンポイント温熱法が
有効なのでは?

帯津 そうですね。五木さんは冷房が嫌いで、夏もスカーフを持って
いて、寒いなと思ったら耳や肩にかけると書いていましだが、
それは正解ですね。


次回につづく


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この記事へのコメント
ホメオパシーとは、
(homeopathy)「同種療法、同毒療法、同病療法」

ある症状を持つ患者に、
もし健康な人間に与えたら、
その症状と似た症状を起こす物質を
きわめて薄くしてわずかに与える ことによって、
症状を軽減したり治したりしようとする療法のことである。

たとえば、解熱を促そうとする時には、
健康な人間に与えたら体温を上げるような物質を
含む物質を患者に与える。このことによって、
極めて短時間発熱が促進されるが、
すぐに解熱に向かうとされている。


きわめて薄くしてわずかに与えるとは、
その物質が限りなく薄く希釈される
(ハーネマンの表現を借りれば「物質的でなくなる」)ほど、
霊的な治癒能力を得ることが出来ると考えた。


わたしが今一番興味がある療法です。
現在日本ではいくつかのホメオパシー研究団体がありますが
帯津三敬塾クリニックがおすすめです。
http://www.obitsu.com/menu_homeopathy.html

ホメオパシー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A1%E3%82%AA%E3%83%91%E3%82%B7%E3%83%BC


2007/08/13(Mon) 20:41 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ピエタ
有名な死んだイエスを抱えるマリア像のこと


ピエタとはイタリア語で「悲哀」という意味。
十字架上で息絶えて降ろされた我が子イエスを
抱く悲しみの聖母マリアをモチーフとする作品

ミケランジェロは4つのピエタ像を手がけましたが
完成したのはヴァチカン市国のサンピエトロ寺院にある
この像のみ。(25歳頃に完成)
http://art.pro.tok2.com/M/Michelangelo/mich04.jpg

同じミケランジェロ作のロンダニーニのピエタは
未完に終わりました。私の大好きな作品です。
http://images.google.co.jp/imgres?imgurl=http://homepage2.nifty.com/kyktak/Photo/Tour/Italia/micherangero/pieta14.jpg&imgrefurl=http://homepage1.nifty.com/mstak/Tour/milano.html&h=726&w=400&sz=13&hl=ja&start=2&tbnid=XtAu9VIKh3GmXM:&tbnh=141&tbnw=78&prev=/images%3Fq%3D%25E3%2583%259F%25E3%2582%25B1%25E3%2583%25A9%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25B8%25E3%2582%25A7%25E3%2583%25AD%25E3%2580%2580%25E3%2583%2594%25E3%2582%25A8%25E3%2582%25BF%25E3%2580%2580%25E3%2582%25B5%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2594%25E3%2582%25A8%25E3%2583%2588%25E3%2583%25AD%25E5%25AF%25BA%25E9%2599%25A2%26gbv%3D2%26svnum%3D10%26hl%3Dja%26sa%3DG



2007/08/13(Mon) 20:12 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
外形に騙されまいとして、内面に騙される
外形と内面、肉体と精神、人相と人柄、
この二つのものは、心憎いほど一致しております。

人相を見れば、その人柄は大体わかります。
そういうものなのです。

八卦見(はっけみ)のようなことをいうと
軽蔑する人がいるかもしれませんが、
事実そうなのです。

人相見や手相見が今日にいたるまで跡を断たないのも、
その根本は人間の外形と内面との一致という、
長いあいだの経験から割り出された信念に
もとづいているからでしょう。


人々は、人間の外形に騙されまいと警戒します。
人間の値打ちは地位や財産によって決まらないと考える。

衣服や持ち物によって、好悪を決めては成らぬと思う。
人相にも惑わされまいとする。が、残念ながら、
それほど用心した挙句、
最後には、彼らもまた騙されるのです。

外形に騙されまいとして、内面に騙されるのです。


恋愛している若い男女は、
愛を告白する相手の表情や恋文の文章から、
あるいはそれ以前に、
相手がふだん不用意に示す人相の動きから、
その人柄の大体を感得できるはずです。

しかし、間違いに気づいたとき、もう一度、
相手の人相を観察してご覧なさい。
相手のうちに初めて発見した不快な欠点も、
やはりその人相のうちに現れていることを、
改めておもい知るでしょう。

従って、見えるものの眼には、
全てが最初から見えているのです。
相手はなにも隠すことはできません。

また、こちら側も、相手になにも隠すことはできません。
恋愛において『騙される」ことはあっても
「だます」ことは有り得ないのです。
人相や表情が全てを語っているからです。

にもかかわらず『騙された』といいたいなら、
そのときは、潔く「まちがえた」とか
「見そこなった」とかいうべきだと思います。


私の幸福論をなぜ容貌の問題から始めたかというと、
私は、世の中にはどうにもならないことがある
ということをいいたかったからであります。

しかも、そのどうにもならないことが、
人生の些末事に現れるならまだしもですが、
殆ど決定的な場所に、それは現れる。

いろいろ努力したあげくに、
自分の力ではもうだめだという限界点に達するのではなく、
私達は最初からこの限界を背負って出発するのです。

そう考えている私は、
いわゆる「平等」とか「自由」とかいうものを信じません。

私には私なりの自由、平等の観念はありますが、
それはあくまで世間でいう「平等」や「自由」を
否定したあとに出てくるものです。

ですから、私はまず世にいう「平等」と「自由」が
虚偽でしかないということから話を進めようと思います。



福田恒在『私の幸福論』より ろくろくメモ①



2007/08/13(Mon) 18:00 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
自分の中にヒトラーがいる
自分の中の否定的な側面を外面化する方法を
みつけることは苦痛を伴う。

ガンジーからヒトラーまで、
私達はどんな人間にもなれる素因を持っている。

ところが、殆どの人は、
自分の中にヒトラーがいると考えることを好まない。
そんな話には耳を傾けたがらない。

しかし、どんな人のなかにも否定的な側面、
もしくはその萌芽が潜んでいて、
それを拒絶することほど危険な物はないのである。

内なる否定性を認めるのが怖いからこそ、
暗い側面を全面的に否定し、
自分には否定的な思考や行動ができない、
などと主張するのだ。

内なる否定性の存在を認めることは
人間に必須の条件である。

その存在を認めさえすれば、
そこに働きかけ、
それを手放すことも可能になる。

自分が完全無欠の超善人ではなかった
ということが分ったら、
超善人のイメージを脱ぎ捨てて、
ありのままの自分でいる時にきた
というだけのことなのだ。

人生のいかなる局面においても
常に並外れていい人であるとしたら、
それはまやかしであり、偽者である。


内なる否定的な側面を認めることができなければ、
内奥の否定性に働きかけることはできない。

自己のあらゆる感情を素直に認めた時、
私達は全体的な自己に立ち戻ることができるのだ。


キューブラー・ロス『ライフ・レッスン』ろくろくメモ⑪



2007/08/13(Mon) 17:26 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
食事は黄金律バランスが重要
 なんでも、過度に摂取するのは、思想の偏りと同じでよくないじゃ。陰陽五行説では、主要な5つの気の流れがバランスする五芒星の象徴で表すじゃ。霊光の流れでもあるから、光る星となるじゃね。
 さて、前回のブログで、玄米食主義は、青い顔になり、前立腺癌は治すが、狭心症を生じた例が挙げられいただね。

 おっと、ここで間違い発見で土(脾)でした!

 先の植物の例で説明すれば、ここにも間違い発見で、種子と果実が逆になってました、以下が正しいもの。
 根-脳(脾)
 葉-肺
 花-腎
 果実-心
 種子-血(肝)
 で、それぞれ、左を食すると、右の臓器を過度に働かせる。
 玄米は植物の種子を食べているわけで、血(肝)の気を強く働かせることになるから、肝は木星で、五色でいえば、青色になる。
 だから、過度な玄米食は、血行をよくし、肝臓を過度に働かせるが、逆に、心臓には負担をかける。だから、適度に熟した種子の果実を食さないとバランスが崩れるわけです。
 果実を食せずに、玄米ばかり食うと、顔が青色になり、心臓が血流についていけずに、狭心症になる恐れありというわけですじゃね。 
2007/08/13(Mon) 13:24 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
パラケルススがいったこと
 ホムンクルスで有名な錬金術師パラケルススは、「自然のなかに治療法がある」といったじゃ。それは、人体が小宇宙なので、宇宙、つまり大宇宙の天体の運行による、地球の自然の生成のなかに、大宇宙の治癒力が隠されているのだから、注意深く観察すれば、それに対応する小宇宙の治癒力、つまり人体の治療法も発見できるということをいいたかったわけじゃね。
 人体には、天体の惑星と同じように、肉体という物質体があるが、その背後に、霊光の「気の流れ」があり、天体に主に5つの惑星の運行があるように、気の流れも主に5つの人体のなかの流れがあるというだに。
 これを五行で表し、土(腎)、火(心)、水(腎)、木(肝)、金(肺)とし、大宇宙の地球上の金属形成の自然観察を基に、五行説の五行相剋や五行相生の錬金術の原理を用い、非常に微量な霊光レベルの金属、つまり土(錫)、太陽(金)、月(銀)、火(鉄)、水(水銀)、木(鉛)、金(銅)で治療させることをいうじゃ。いまでは、これはホメオパシー療法と呼ばれているだに。
 人体のなかの天体といっても、臓器そのものではなく、霊的なものを表すので、仏教のチャクラに近いものであるようだに。肝、心でも、臓器ではなくて、その背後にある太陽神経ゴウからの気が通過するツボのようなもののようじゃ。だから、コツを掴む熟練が必要だという。
 金属治療は非常な毒にもなり、薬は元々毒だが、諸刃の剣なので、食べ慣れている日頃の食物の植物から、大まかに挙げると、
 植物の根-脳 (思考に依存する、周囲に流されやすい)
 葉-肺(呼吸器系が過度に働く;アレルギー)
 花-腎臓(腎臓が過度に働く)
 種子-心臓(心臓が過度に働き、血液循環に過度に抵抗する)
 果実-血液(血液循環が過度に働き、心臓を降伏させる)
 の大まかな働きがあるというだに。
  水は硬水か軟水かで、異なる働きがあり、玄米では、籾の果実部分を食べるかどうかで、上記から異なり、心臓と、血液のバランスを調節できるわけじゃね。
 癌は、気の流れが滞ったところ(気が流れないところ)で、物質形成が過度に進んだものだから、玄米で、血流の調整はできるが、気の流れは難しいといえる。だから、気の流れを整える呼吸法が重要になるといえるじゃ。
2007/08/13(Mon) 12:10 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
人体は小宇宙
 週末訪問しない間に、ろくろくさま、マリアさまは随分と進まれてますね。
 水や玄米、更には身体を温める等は、既に中医、漢方にありますじゃね。中医、漢方では、秘教でいわれていることと同じことがいわれてますじゃ。
 中医も秘教も、宇宙を大宇宙とし、人体を小宇宙としておりますじゃ。宇宙には天体が運行していますが、人体の中にも同様に天体か運行しておりますじゃ。土、日(太陽)、月、火、水、木、金ですじゃ。
 中医では、陰陽五行を元に人体を、月(陰)、太陽(陽)、土(腎)、火(心)、水(腎)、木(肝)、金(肺)においておりますじゃね。
 天つまり、宇宙も、太陽(霊)光の他の星への反射具合、例えば月の満ち欠け(月光)、及び他五星の(霊)光の反射具合が、地球にもたらす影響から、地球の地質等の性格が決まるという太古の占星術に対し、人体内も、陰陽五行の働きで性格が決まるというものであるじゃね。
 天体の配置により、地球の中の金属の分布が変わるというのが錬金術の基礎であるじゃ。土(錫)、太陽(金)、月(銀)、火(鉄)、水(水銀)、木(鉛)、金(銅)であるじゃね。太陽光が主に地球に作用するときは、金の産生が多くなるというもんだに。
 人体に対しては、太陽経絡、太陽神経ゴウを中心に、陽の気(いまでいう男性ホルモン)と、陰の気(いまでいう女性ホルモン)が、上記の各臓器(土(腎)、火(心)、水(腎)、木(肝)、金(肺))の気の蓄えにいかに影響するかで、性格が決まるというもんだに。気はエーテルで、(霊)光を表すじゃ。
 天体の太陽は、物質光だけでなく、霊光も絶え間なく放射しておるじゃ。それを受けるのが、人体の太陽神経ゴウで、遥か昔に、月との反射霊光から、脊椎神経を形成したというだに。脊椎の中枢神経が月の相の28部位に分かれるのはその名残だという(自律神経の交感神経と副交感神経は、陽と陰)。
 陰陽五行を基にすれば、大宇宙の天体の運行と、小宇宙の人体の運行も、同様のものと考えられるわけだに。大宇宙は神々が司り、人体は、太陽の霊光を基に、人間の自我が司るわけじゃね。
 しかし、人間の自我には、太陽の霊光に曝されていない闇の部分、月光のない(月が欠けている部分)があるじゃ。これが硬い物質の骨を形成するじゃね。霊光(理解)が行き届かないところは、骨(無理解)となるじゃ。光が通らないところは、重くなり重力となるじゃ。つまり闇の物質となる。血が物質となるには骨髄を得ねばならんわけじゃね。
 人間は骨格(無理解)、つまり十字架を背負いながら生きていかねばならんじゃ。骨を絶えず変化させ、死により骨が無くなると、天に向かうわけじゃ。絶えず、自らが背負う骨(十字架)と戦うことが重要だぞな。
 このことを、月の満ち欠け(三日月)の聖杯で象徴するぞな。月光の発する部分が、聖杯じゃね。有名な死んだイエスを抱えるマリア像は、聖杯の象徴といえるもんだに。
 自らの十字架(自らに対する無理解)を背負い、聖母マリアの子を思う愛(理解)の太陽光を受けて克服し、肉体を残し、昇天、再生する像であるね。
 つまり、自らの人体を理解することが生きることでもあるじゃね。
2007/08/13(Mon) 10:48 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
三 自我について☆
個人の魅力について多くの人が誤解しやすい点は、人間の外形と内面とは別物だと考えたがることです。
外形と内面、いいかえれば肉体と精神、あるいは人相と人柄、この二つのものは別物であるどころか、じつは心憎いほど一致しております。人相を見れば、その人柄は大体わかります。そういうものなのです。

八卦見(はっけみ)のようなことをいうと軽蔑する人がいるかもしれませんが、事実そうなのです。人相見や手相見が今日にいたるまで跡を断たないのも、その根本は人間の外形と内面との一致という、長いあいだの経験から割り出された信念にもとづいているからでしょう。もちろん、過去の固定化した占い術というものは、ずいぶんでたらめが多い。たとえ経験から割り出されたものにせよ、それは大昔の狭い社会集団から掻き集められた結論にすぎず、さらにそれを箇条書き的にして原理を造ろうとしても無理であります。

現代の社会はもっと複雑であります。また、いくら人相によって人柄がわかるといったからとて、高い鼻や薄い唇はどういう人柄を表すといったふうに、公式的な判断を下すことはできません。人相は人柄を表し、人柄は人相を裏付けするにしても、両者の関係はまことに微妙なものです。

しかし、例えば、昔から、多くの人と接触してきた商人とか、人と人との激しい摩擦のなかで苦労してきた政治家とか、そういう人達は、多かれ少なかれ、人相からの読心術を心得ていたものです。
いわゆる成功者で、それを知らぬものはないといっていいでしょう。ただ複雑な現代社会では、人と人とのつながりが浅薄になり、距離も遠くなって、人相と人柄との相関関係を類推したり認知したりする余裕も機会も乏しいのです。つまり自分の読心術を鍛える場が少なくなってしまったのです。

ひとつの例をお話しましょう。皆さんの中には在学中の方も多いと思いますが、同郷の友人の性格や環境は、まことに種々雑多でありましょう。ことに東京のような大都会の学校ですと、上級学校になればなるほど、生徒はあらゆる地方から集まってきます。仲の良い友だちでも、貴方がその両親や兄弟姉妹まで知っていることは稀でしょう。

彼らは、今までのあなたが聴いたこともない町に住んでいて、自分とは異なった風俗習慣のもとに生活しております。また、その友だちの父親や兄弟は、あなたには見当のつかなぬ機講の職業に従事しているのです。
あなたとその友だちとのつながりは、たまたま学校を同じくしたということだけでしかありません。
昔の寺小屋なら、そんな事は在りません。両親も兄弟も同町、同村のもので、以前から共同の生活体農地に在り、共同の利害関係を持っていたのです。

そういうところでは、人相と人柄との相関関係をつかむことは容易でしょう。自分の経験から相手の気心を推し測ることもできましょう。が、今日では、そうはいかないのです。だからといって、人相と人柄との間に関係が断ち切れたとはいえません。ただその結びつきが複雑になっただけのことです。容貌などどうでもいい、大事なのは人格だけだとはいえません。

人格だけを尊重するのが近代的であり知的であると思い込む習慣は、思うに、人相と人柄との関係が複雑になり、つかみにくくなった結果でありましょう。
しかし、この知的な理解に基づく人格主義は、今日、人と人との関係を、はなはだ不幸なものにしているのではありますまいか。人を雇う場合にも、政党やグループを造ったり、選挙をしたりする場合にも、友情や結婚や恋愛の場合にも、自覚した人ほど、この種の間違いを犯しやすいように思われます。
彼らは、人間の外形に騙されまいと警戒します。人間の値打ちは地位や財産によって決まらないと考える。
衣服や持ち物によって、好悪を決めては成らぬと思う。人相にも惑わされまいとする。が、残念ながら、それほど用心した挙句、最後には、彼らもまた騙されるのです。外形に騙されまいとして、内面に騙されるのです。

前にも書いたことがありますが、戦後の若い人達はよく「だまされた」という言葉を濫用しました。戦争中、軍人達に、国粋主義者達に、町や村の指導者達に、ことごとく騙されたという。私に言わせれば、理由は簡単です。人相と人柄との究極的な一致という原理を無視したからに他なりません。

もっと厳密にいえば、言葉も文章にも、外形的なものと内面的なものとの両面があります。文章にも人相と人柄とがあるのです。語る調子やリズム、すなわち文体が、その人相にあたり、語られる意味内容が、人格にあたると考えられましょう。もし戦争中、若い人達が、言葉や文章の調子や文体という外形的なものから、その真偽を判断する訓練を受けていたなら、戦後になって「だまされた」などという苦情は出なかったはずです。

同じように、恋愛している若い男女は、愛を告白する相手の表情や恋文の文章から、あるいはそれ以前に、相手がふだん不用意に示す人相の動きから、その人柄の大体を感得できるはずです。

勿論、私達は神様ではないのですから、それでも多くの見まちがいをします。それは仕方がない。
しかし、間違いに気づいたとき、もう一度、相手の人相を観察してご覧なさい。相手のうちに初めて発見した不快な欠点も、やはりその人相のうちに現れていることを、改めておもい知るでしょう。
従って、見えるものの眼には、全てが最初から見えているのです。相手はなにも隠すことはできません。
また、こちら側も、相手になにも隠すことはできません。恋愛において『騙される」ことはあっても「だます」ことは有り得ないのです。人相や表情が全てを語っているからです。
にもかかわらず『騙された』といいたいなら、そのときは、潔く「まちがえた」とか「見そこなった」とかいうべきだと思います。

先程、私は文章について語りましたが、もっと適切には、造型美術、そのうちでも陶器などについてお話した方が分りやすいかもしれません。一個の茶碗の形よさということ、その美しさを感得するように、人相を扱うことが大切なのです。茶碗の場合、人間の文章のときよりは、もっと厳密に外形と内面とが、一致しております。
極端にいえば、そこには形だけしかない。形はいいが、内容はつまらぬとか、形はまずいが、内容はいいとか、そういう馬鹿な事は有り得ないのです。形が全てです。美は形の内側や向こう側にあるのではない。
美というものは、そんな曖昧な物でも、神秘的なものでもありません。眼に見え、手で触れうる、物の形そのものです。

私達が生半可通の観念や知識にわずらわされず、じかにものを見る習慣を身につけていさえすれば、人間もまた茶碗と同様、私達の眼にたんなる物の形として映ってくるでしょう。重い、軽い、厚い、浅い、あるいは鋭い、鈍い、強い、弱い、硬い、柔らかい、その他、土や石という物質で形づくられた茶碗にあてはまる形容詞は、そのまま、私達の人柄を表す言葉になりうるのです。

従って、私達は他人と接触する場合、何よりも自分の美意識と感覚とを頼りにしなければならぬし、同時に、自分というものが、他人の眼に、その外形を通じてしか受け入れられぬということも覚悟していなければなりません。

私自身、人に対する好悪を決めるのに、今まで常に人相に頼ってまいりました。それで間違ったことは一度も在りません。勿論、私のいう美しい人相は映画俳優的な美男美女を意味しないこと、お断りするまでもないと思います。

以上、あまりに容貌にこだわりすぎたように思いますが、私の幸福論をなぜ容貌の問題から始めたかというと、私は、世の中にはどうにもならないことがあるということをいいたかったからであります。しかも、そのどうにもならないことが、人生の些末事に現れるならまだしもですが、殆ど決定的な場所に、それは現れる。いろいろ努力したあげくに、自分の力ではもうだめだという限界点に達するのではなく、私達は最初からこの限界を背負って出発するのです。

そう考えている私は、いわゆる「平等」とか「自由」とかいうものを信じません。
私には私なりの自由、平等の観念はありますが、それはあくまで世間でいう「平等」や「自由」を否定したあとに出てくるものです。ですから、私はまず世にいう「平等」と「自由」が虚偽でしかないということから話を進めようと思います。(続く。。。)

『私の幸福論』 福田恒在 ちくま文庫 ¥640
2007/08/13(Mon) 10:27 | URL  | マリア #-[ 編集]
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