2007年08月10日 (金) | Edit |
五木寛之・帯津良一 著「健康問答」平凡社より(12)


五木 緑茶の成分のカテキンが、ガン予防になるといわれていましたが、
最近の新聞に、お茶を飲むと喉頭ガンなどになるリスクが高くなると、
出ていました。これはどうなのでしょう。いったい、なにを信じたら
いいんですかね。

帯津 そうかもしれません(笑)。そうかもしれませんっていうのは、
埼玉県立がんセンターが、お茶ががん予防にいいといったのは、
七、八年前でしょうかね。

五木 ほう、がんセンターが、いい、といったんですか。


帯津 いい、といったんですよ。ポリフェノール、カテキンがね。
だけど、そうじゃないんだという説がまたすぐ出てきた。
ほんとうのところ、よくわからないんですね。

まあ、いつも両方あるんです。つまり検査をするとき、先入観という
ものもありますから、そのことに、結果が左右されることもあるんです。

五木 これも、時と、場所と、人によるんですね。新谷弘美さんは、
お茶をあまりすすめていなかったようですね。

帯津 そうですね。胃に対しては、良くないといっている。ただそれも、
なにをもってリサーチするかで、ちがってくると思うんですよね。

五木 なるほど。

帯津 疫学的な調査が基本だとすると、疫学の手法によってちっがて
くるんです。だからやっぱり、こういうのは、あんまり断定的なことは
いえないというのが、ほんとうだろうと思うんですよね。

五木 断定的には、いえないですね。自分の感覚で、良くないと
思ったらやめる。

帯津 そうですね。

五木 医学は、いまだ発展途上国であるという風に、医師自身が認識
してもわらないと。あるリサーチの結果というのも、今日一つ断定
しても、それが明日には覆されるほど、危ういものだということを、
医師は常に忘れないで発言して欲しいですね。

帯津 耳が痛い(笑)。

五木 もう完全に、ひとつの真理のように思っているのが、まちがい
なのではないでしょうか。

帯津 ほんとうに、そうですよ。

五木 昨日までの意見が、今日もう全然、ガラッとちがったり。

帯津 だから、医者も患者も、断定できない世界があると思って、
ちょうどいいんですよね。万能の療法というのは、いまのところ
ないんですから。

五木 それを、みんなあまりにきっぱりと、テレビの健康番組
南下で断定するから、おかしなことが起こるんですね。

ココアがいいというと、ココアが売り切れになり、納豆がいいと
いうと、納豆があっという間に品切れになる。しかも、その
リサーチ結果が捏造されていたという、信じられない事態が起き
ています。

どんな食材であれ、薬であれ、効くか効かないかは、まったく
個人差があるということを、しっかりと認識していなければ
なりませんね。


次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
千の死に代わって
我々は耐えられる以上の試練を与えられることはない

その時、はっと気づいたのです。
闘いをやめ、反抗するのをやめて、
戦士であることをやめ、
ただ平和に穏やかに、
自分から進んで身を任せさえすればいいのだ、

それに対して素直に「イエス」と
いいさえすればいいのだ、と。

私は声に出さず、
頭の中で「イエス」と言いました。
その瞬間、ふいに苦しみが終わりました。
呼吸が楽になり、肉体の痛みは消えました。




そして、千の死に代わって、
今度は再生を経験しました。
それは到底、人間に形容できるものではありません。


キューブラー・ロス『死ぬ瞬間と死後の生』ろくろくメモ②


2007/08/10(Fri) 22:19 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
喫茶去(きっさこ)
は禅語で「よう来られた、まあお茶でもどうぞ」
という意味だそうです。


わたくし、一時期日本茶はまったく飲まなかったですが
最近はまた飲むようにしています。
食後に限ってですけどね。

マリアさんのようにはいきませんが、
あの香りが好きなんです。
そういえばコーヒーも香りが好きで
飲んでいるようなところがあります。

喫茶去(きっさこ)
「よう来られた、まあお茶でもどうぞ」
と言われると頭の中が空っぽになって
気持ちがよいですね。


2007/08/10(Fri) 22:04 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
無分別知
「分別知」で止まるなということですじゃ。
分別知を超えて、あくまでも、
常に自分が無知ということを理解しろ
ということなのでしょう。


シュタイナーは、
いつまでも「分別知はダメじゃ」といってるだけでは、
形骸化してしまうと恐れたんだと思いますじゃ。

なるほど~一理ありますね~


ところで、なにもシュタイナーとクリシュナムルティが
同じことをいっているかどうかにこだわらなくてもよいと
思います。

それぞれ特徴があってこそ
さまざまな考え方の人々にインスピレーションを
与え続けることができると思います。

「分別知」も大切ですし「無分別知」も
大切です。




2007/08/10(Fri) 21:42 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
私の神秘体験☆ー続き
私の最初の神秘体験は、*ある研究プロジェクトによって得られました。
バージニアの実験室で、懐疑的な学者達が観察する中、医学的な手段によって人工的に肉体離脱体験を得たのです。

私は小部屋に置かれたウォーターベッドに横たわりました。暫くすると、空中にふわふわ浮いていました。天井がどんな作りになっているのか、調べてみようと思いました。というのも、どんな素材でも透視できたからです。私は興奮しました。でも、実験の主任から呼び戻されてしまいました。私の反応があまりに早いので、彼は心配になったのです。私はがっかりしました。

    ☆それに対して「イエス」という☆

次に実験室に入った時、私は主任を信用できませんでした。用心深すぎるのです。
そこで、彼を出し抜いて、自分で自分を誘導し、光速よりも速いスピードで、肉体離脱を体験した人がまだ誰も行ったことがないような遠くまで行ってやろうと、ひそかに企みました。医師から誘導された瞬間、私は信じられないようなスピードで、文字通り体外に飛び出しました。でも次の瞬間、私は水平方向に突き進んでいる事、そしてそれは間違った方向であることに気づき、90度方向転換して垂直に上へ上へと進みました。スリル満点でした。誰にも追いつかれないように、できるだけ速く、できるだけ遠く区まで行ったところで、もう安全だと思いました。ここなら誰にも見つからないだろう、と。私はまさしく誰も来たことのない場所にいたのです。その後、私に何が起こったかはまったく覚えていません。

この世の肉体に戻ったとき、覚えていたのは「シャンティ・ニラヤ」という言葉だけでした。
どういう意味なのか、見当も付きませんでしたし、自分がどこに居たのかも分りませんでした。
ただ、私はひどい腸閉塞に苦しみ、床から本を拾うこともできないほど痛い椎間板ヘルニアにも悩んでいたのですが、それが治ったという感覚だけがありました。

実験室から出て来た時は、本当に腸閉塞が治っていましたし、50キロの砂糖の袋を床から持ち上げても、全然痛みを感じませんでした。みんなからは「顔が輝いている」「二十歳も若返った」などと言われて質問攻めに会いました。私がいったいどこまで行ったのかは、晩まで分りませんでした。その晩、私はブルーリッジ山脈の中にある寂しいゲストハウスに、たったひとりで泊まりました。段々、どうやら私は遠くに行き過ぎたらしい、今度はその埋め合わせをしなければならないだろう、という嫌な予感がしてきて怖くなりました。

私はなんとか眠ろうとしましたが、「それは必ず起きる」という漠然とした予感に捉われていました。
それが何を意味するのかはわからなかったのですが。
うとうとした瞬間、恐らくどんな人も味わったことがないだろうと思われるような、恐ろしく激しい痛みに襲われました。私は、まさに、それまでに接した千人の死を体験したのです。全ての出血、全ての痛み、苦しみ、涙、孤独など、すべての患者のすべての否定的な面を味わったのです。それが千回、毎回違ったふうに、でも同じ痛みを伴って繰り返されました。

肉体的、感情的、知的、霊的、全ての部分の苦痛でした。息をすることも出来ず、あまりの痛さに、のた打ち回りました。そうやって苦しみながらも、私にはわかっていました。-自分が人間の手の届かないところにいること、そして、一晩中それに耐えなければいけないことが。

私は一晩中ずっと苦しみ続けました。その間に痛みが一時的に収まったのはたった3回だけで、お産の陣痛みたいで、いったん収まったかと思うと、殆ど一息つく間もなくまた始まるのです。
その、何とか一息つくことができた3度の小休止の間に、非常に重要な象徴的なことが起こりました。
もっとも、それが理解できたのはずっと後のことです。
最初の小休止の時、私は誰かの肩によりかかりたいと思いました。男性の左肩に頭をもたせかけることができれば痛みがもう少し楽になるだろうに、と。でも、誰かの肩を私に下さいと懇願した瞬間、優しくて同情的な、けれども厳しく深い声がしました。「だめだ」

それからまた永遠と思われるほどの時間がたって、やっと一息つくことができました。その時は、誰かの手を握りたいと思いました。それを握ることができれば、痛みを我慢しやすくなるのに、と。でも、前と同じ声が聞こえました。「だめだ」

3度目の、最後の小休止の時、私は責めて誰かの指先が欲しいと思いました。勿論、指先では握る訳に行きませんが、少なくとも指先が見えれば、誰か人が居る事がわかって少しは気が楽になるでしょう。でも、この辺が実に私らしいのですが「いやだ。手が与えられなくては。指先なんて欲しくはない」それが私の結論でした。
私にだって、最低限のものくらい与えられるべきだ。私にとっては手が最低限だ。指先じゃ不満だ。

そして私は、もっと激しい痛みと苦しみを味わいました。私は思いました。
「私は、死の床にある孤独な患者達の手をたくさん握ってきた。どうしてその私が誰かの手を握ることさえ許されないのだろうか。私はそんなに悪い人間なのか。そんな極悪人なのか」

そして、私にとっては生まれて初めて、信仰が問題になったのです。
信仰は、自分にはこの苦しみにたった一人で耐えるだけの力と勇気がある。という、深い知に繋がっていました。また、我々は耐えられる以上の試練を与えられることはない、という信仰と知をも含んでいました。

その時、はっと気づいたのです。闘いをやめ、反抗するのをやめて、戦士であることをやめ、ただ平和に穏やかに、自分から進んで身を任せさえすればいいのだ、それに対して素直に「イエス」といいさえすればいいのだ、と。
私は声に出さず、頭の中で「イエス」と言いました。その瞬間、ふいに苦しみが終わりました。呼吸が楽になり、肉体の痛みは消えました。

そして、千の死に代わって、今度は再生を経験しました。それは到底、人間に形容できるものではありません。

              (明日へ続く。。。)

『死ぬ瞬間と死後の生』 エリザベス・キュブラー・ロス 中公文庫 キ52 ¥762(税別)

*ロス博士は、これ以前に体外離脱の経験をしている。この時は、ロバート・モンローの科学研究所にてへミ・シンク法によって体外離脱実験を行った


2007/08/10(Fri) 15:38 | URL  | マリア #-[ 編集]
入れ違いでしたね☆
私の2度めの投稿、最後の2行

>本質、根源は同じだけれど・・・
>理屈をいえば・・・

は、錬金術鞘さんの最初のコメント

「個体差があるとい宇野は当たり前の原則」

「個体差を無視して、同等に比較するのは、個体差の源流を探るため」

「同等の性質を知れば、かつての原点を知ることができ・・・そこから逆算して、相違がわかる」

「・・・競争や、価値観、基準を統一することにあるわけではない」

に対するもので、早い話が「同感」ということですわ☆
2007/08/10(Fri) 12:38 | URL  | マリア #-[ 編集]
錬金術者さん☆
こんにちは☆

私、錬金術者さんの言わんとするところ、凄くよく分る気がするの。

「気がする」って、曖昧ぽい表現を使ったのは、私が勝手にそう思い込んだだけで、私の認識と錬金術者さんの認識が異なっているかもしれませんので。。。

土台、ベースは一緒というのは、たとえば、黒い襟なし長袖、膝下の飾りのないシンプルなワンピースがあるとしますよね?そのままゴテゴテ飾り立てずに着こなす人もあれば、それにボタンをつけたり、襟をつけたりフリルをつけたり、人によっては袖なんて切り落として、ノースリーブにするかもしれませんけれど(笑)

要するに、レースやフリルやボタンの違いに拘り「形」が違うから同じじゃない、という人もいれば、飾りは飾り表面的な装飾を取り外せば、基本は一緒の黒いワンピースでしょ、と思う人ありで。

とかく、人間はこの「装飾」の部分ばかりに目がいきやすいのかな、と思うんですね

「木をみて森をみず」といいますか・・・前にスーフィ?だったかの記事に「言葉に囚われずに、その言葉の先をみろ」みたいなことが書いてあって、その時、ロス博士の言葉の「言葉にすると理解もされるけれど、誤解もされる」という、極めて分りやすい言葉と重なり合ったことがあって

それを端的に示すエピソードが、ロス博士のセミナーに、3歳で臨死体験をした男の子を持つ母親が、子供の「マリア様が(このまま、ここへ居たい。戻りたくないと言い張るその子供に対して)まだ早すぎるので帰らなければいけません。ママを火から救っておあげなさい。」と聞かされて以来、何年間もその母親は苦しんでいたそうで、それはクリスチャンであった彼女は「火=地獄の業火」と思い込み、自分が地獄に落ちるのだと考えて誰にも相談できず、それから13年というもの一人悩みに悩み、ロス博士の前で泣き崩れたというお話でして

(因みに、私なんかは、この母親の受けとめ方に正直びっくりしたのですが。こんなの比喩で、彼女の今まさに愛する子供を失うか否かの「地獄の苦しみ」を表現したのであって、いきなりストレートに「火=地極」ってここまでは解るものの、次なる発想「地獄へ落ちるかもしれない」って、どうすればそこまで飛躍できるんだか(笑)理解に苦しみましたわ。正直なところ。)

それに対してロス博士がいったのが、先の言葉で、彼女いわく「霊的な存在はみな象徴的な言葉をつかう。ものが言葉になると、解釈もされるが、多くの場合、誤解もされるということです」

「もし子供が戻らなかったら、どうなっていた?」と聞かれた母親自身が「毎日毎日、地獄で火に焼かれているような日々を送っていたでしょうね」と答えたことで、やっと、その本意が理解できたという内容でしたが。。。

本質、根源は同じだけれど、人間もひとりひとり全く別物で「同じ」jものはひとつとしてない、ということですよね。

理屈をいえば、似ていることは違いがあるからこそで、似ていても「全て同じ」物はこの世に、ひとつもありませんものね。






2007/08/10(Fri) 12:08 | URL  | マリア #-[ 編集]
商業主義と官能主義が問題
 宇宙は愛と叡智からなると秘教は説くだに。愛と叡智を常に創造している神々(天使)が、我々の上位に存在するだに。
 かつて、その神々たちも、人間だったという。人間のときに、愛と叡智を創造する修行を合格した者だけが、上位に進んだという。残念ながら、落第したものは、堕天使となって、人間の周りに存在するというだに。堕天使たちは、人間を絶えず商業主義と官能主義で誘惑しているというだに。
 愛と叡智からなる宇宙にとっては、愛と叡智の創造の源だけしか、共有し、受容されないので、拒否された行為は、いわば、ゴミとして闇に残される。闇に堕天使たちは生息するだに。
 人間は、神々の候補生といえる存在なので、人生のなかで、他の人間と、愛と叡智を創造しながら仲良くやっていくことを学ぶ研修生であるといえるだに。
 人生のなかで、愛や叡智に対して破壊的で、闘争的で和を乱し、仲良くやっていけなかった思い出は、死後、その部分を、宇宙から拒否され、自らで、その宇宙ゴミを解消しなければならんじゃ。これが最後の審判であり、カルマじゃね。
 人間は、そのゴミの部分を背負って、再度、それを解消するために、この世に生まれてくるじゃ。つまり、個性とは、自分の魂がやり残した宿題といえるじゃね。
 個性のなかのエゴを殺し、他の人と、和気藹々、愛と叡智をいかに創造し、生きていくかが人生の課題といえるじゃね。
 いかによく生きるかとは、以上のことなりき。
 商業主義と官能主義は、結局、宇宙ゴミを増やし、自らで背負う闇の部分が増えることを意味するじゃね。
 闇が増えると、人生に対する、恐怖や不安が増し、自らのエゴを知り、克服するために、過去の過ち、個性をより深く知らなければいけなくなるじゃ。
 汝自身を知れば、宇宙は自ずと明らかになる。
 宇宙のゴミを知れば、宇宙がわかるのと同じじゃね。
2007/08/10(Fri) 10:33 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
お茶☆
おはようございます☆

私、大変なお茶飲みでして、お茶というお茶全て好きなんですね。

お寿司屋さんみたいな大振りの湯飲みに、なみなみと入れ、がぶがぶ何倍もお変わりしてしまうという。。

で、そんな私の影響を受けて、二人暮しにも関わらず我が家のお茶の年間消費量は相当なもの!

「健康にいいから」とか、お茶の効能云々に関係なく、ただただ「好きだから」飲んでいますわ♪
2007/08/10(Fri) 09:57 | URL  | マリア #-[ 編集]
全ては個人差からくる
 どうも、ろくろくさまには、拙者の言葉が足らず、シュタイナーとのクリシュナムルティが同じということがご理解いただけなかったようで、残念ですじゃ。
 マリアさまがよい喩えをお示しになっておるじゃね。「全ての宗教は、1つの源流から分かれた」と。
 そう、知識体系化というのは、あくまで、知的な人に関心をもってもらうために、真意は伝わらなくても、その雰囲気を伝えるために、あえて、シュタイナーは秘儀を公開したのですじゃ。
 もし、シュタイナーが東洋に生まれていたら、クリシュナムルティのように、知識体系など何の役にも立たないと説いたでしょう(シュタイナーも同じ事を言っています)。それは日本での禅の態度にも顕れておりますじゃね。東洋では、知識を使って他を支配しようという欲、権威主義が大きいのもあるようですじゃ。
 なぜ、シュタイナーは、そのような無意味なことをしたのかというと、まぁ、孤独感というのもあったと思いますが、西洋はやはり、知識偏重の社会なので、単純にいえば、西洋を、東洋化したかったのだと思いますじゃ。どうも、西洋は、やはり論理が先にくる文化なので、とりあえず、興味をもたせ、後は、自ずと体験してもらう切欠を与えたかったのだと思うですじゃね。
 そのような種を植えておけば、何年後かに実るということを叡智として知っていたようですじゃ。
 一重に知識といっても、段階や個人差がありますじゃ。仏教でいう感覚からくる「分別知」は一番、下のもので、確かに人生の体験や、エゴを無くすどころか、かえって増長させるものですが、だからといって、疎かにはできませんじゃ。誰もが通った道で、そこから始まるわけですじゃ。
 つまり、「分別知」で止まるなということですじゃ。分別知を超えて、あくまでも、常に自分が無知ということを理解しろということなのでしょう。
 シュタイナーは、時代にあわずに、いつまでも「分別知はダメじゃ」といってるだけでは、形骸化してしまうのを恐れたんだと思いますじゃ。
 日本にも空海という秘儀参入者がいたのですが、それすらも知っている人は皆無ですからね。ただただ、言われるまま宗教をやっていて、何にも考えない人間は、知識に頼る人間と大差ないのですじゃ。
 しかし、知識体系といえども、それを知ることで、空海の偉大さがわかるわけですから、一概に馬鹿にはできませんよ。
 今回のブログのテーマでも、結局は、人による個体差というものがあるということですが、そんなことは、当たり前の原則なのです。では、なぜ、個体差を無視して、同等に比較しようとするのかといえば、個体差の源流を探るためですじゃ。
 元々同じものが時と場所で分かれたわけなので、同等の性質を知れば、かつての原点を知ることができるわけですじゃ。過去の歴史を知ることができる。そこから、逆算して、相違がわかる。
 つまり、お互いの理解を深める目的で知識は得るのであり、競争や、価値観、基準を統一することにあるわけではないのですじゃね。
 早い話、まぁ、昔は同じだったのだから、その共有部分を分かち合っていこうよ!ということですじゃ。
 叡智と愛は、切り離してはいけないもんです。だから、茶やコーヒーがよいからといって、他に勧めるとか、そういうことではなく、自分には、何がよいのかを自ら選択する自由が大切なのです。
 全ては、自分を知ることですじゃ。
2007/08/10(Fri) 09:29 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
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