2007年08月05日 (日) | Edit |
J・クリシュナムルティ 中川吉晴訳「瞑 想」星雲社より(27)


The flowering of love

is meditation

花がひらくこと

それが瞑想です



瞑想のなかで

ひとが見いださなくてはならないのは


知識に終わりがあるかどうか ということです

そうして

すでに知らされているものからの自由を

見いださなくてはなりません



夜も昼も

雨が激しくふりつづいていた

谷底では 濁流が海へ流れこみ

海を 茶褐色に染めあげていた

あなたが浜辺を歩いていたとき

並はずれて巨大な波が押しよせ

大きな弧を描きながら

力づよく砕け散った

あなたは風にさからって歩いた

突然 あなたは

空とあなたのあいだに

無がひらけているのを感じた

そこにひらかれたのは 天だった

丘や 海や 人にたいして

完全にひらいていること

感じやすくなること……

これこそ 瞑想の真髄だ



なにひとつ抵抗しないこと

なにものにたいしても

心のうちにまったく壁をつくらないこと

ささいなものであっても

衝動や 脅迫感や 要求

それらの葛藤や偽善のすべてから

ほんとうに 完全に自由であること……

それは

腕を空っぽにして

人生を歩いていくようなものだ



その夜

湿った砂の上を歩いているとき

カモメが あなたのまわりを飛んでいた

あなたは 

ひらかれた自由の たとようもない感覚をあじわった

愛のすばらしい美しさを感じた

それは

あなたの内側や周辺だけでなく

あらゆるところにあった




次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
最後に海を眺めたのはいつの事だろう?
死の床にある人達が教えてくれた
意外なレッスンのひとつは、

命に関わるような病気の宣告を受けた時に
人生が終わるのではなく、
その時に人生が本当に始まるのだ
ということだった。

死の宣告を受けた時に真の生が始まるのは、
死をリアリティとして認めたとき、
同時に生のリアリティを認めざる得なくなるからだ。

その人は自分が「まだ生きている」ことに気づく。
今、自分の人生を生きなければならないこと、
今生きるべき人生はこれしかないことに気づく。


要するに、死にゆく人達が教えてくれる
第一のレッスンは、
毎日をフルに生きるということなのだ。



あなたが最後に海を眺めたのはいつの事だろう?
朝の空気を味わったのは?
赤ん坊の髪の毛に触ったのは?
美味しい料理をたべたのは?
はだしで草の上を歩いたのは?
青い空を眺めたのは?

それらは全て、もしかしたら2度と得る事の出来ない
貴重な経験になるかもしれない。

死にゆく人達が「もう一度だけ星空がみたい」
「もう一度、しみじみ海を眺めたい」
というのを聞くとき、
私達はいつもハッとさせられる。

海のそばに住んでいる人は沢山いるが、
しみじみ生みを眺め、
海を味わい尽くす人は殆どいない。

殆どの人は空の下に住んでいながら、
星を眺めようともしない。
私達は本当の人生に触れ、味わい、
堪能しているだろうか?


今の人生と同じ人生は
二度と手にすることができない。

この人生で果たしてきた役割を
もう一度演じることも、もう一度、
これまでと同じように人生を経験する事も、
決して出来ない。

あの両親の元に生まれ、
この家族を持ち、
この子供に恵まれ、この環境、
この状況のもとに生まれてきたように、
この世界を経験する事は2度とできない。

同じ顔ぶれの友人を持つ事も、
今回の生かぎりである。

あの海、あの空、あの星、あの愛する人を、
最後にもう一度だけみたいと願うようになる時まで
待つ必要はない。今こそ、それを、
しみじみとみてほしい。


キューブラー・ロス『ライフ・レッスン』ろくろくメモ⑨



2007/08/05(Sun) 22:00 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
終わりは逆向きの始まりにすぎない
果てしなく続きそうな嵐に翻弄され、
生命の危機に見舞われているるような時、
何故そんな試練が与えられるのか、

神は何故それほどまでに無慈悲なのかと
疑問に思うことがある。


試練を受けている人は
甌穴(おうけつ)の中の岩に似ている。

穴の中で川の激流にもまれ、
翻弄されているうちに、
角がとれて磨きがかけられ、
以前よりまるい、希少な岩になる。

穴から出てきたときは、
もっと大きなレッスンを学び、
もっと大きな人生を生きる準備ができている。
全ての悪夢が祝福に変わり、
それが人生の一部となる。


もし、グランドキャ二オンが嵐よけのカバーで
覆われていたら、あの美しい景観は永遠に見られる
ことがなかっただろう。

末期がんの患者の多くが「もし、がんにならなかった
としたら、今の自分はなかったろう。がんになって
よかった」というのも、きっとそのことなのだろう。


喪失はあらゆる方法で「何が大切か」を、
愛はあらゆる方法で「本当の自分とは何か」を
教えてくれている。

人間関係は自己への気づきの契機となり、
成長への得難い機会を与えてくれる。

恐れ、怒り、罪悪感、忍耐、そして時間でさえ、
偉大な教師になる。

人間はもっとも不遇の時期でも成長を続けている。
現世における自己の真の姿を知ることがいちばん
大切なのだ。

そして成長と共に、
最大の恐れである死への恐怖が少なくなっていく。


「生がいいものだと分かれば死もいいものであるはずだ。
生も死も、同じ名匠の手によって作られたものだからだ」

というミケランジェロの言葉を味わって欲しい。

私達に生命、幸福、愛など、素晴らしいものを
たくさん与えてくれる名匠の手が、
死だけを醜悪な経験にするはずがないというのである。

誰かがいったように
「終わりは逆向きの始まりにすぎない」のだ。



※おう‐けつ【甌穴】
河床の岩盤にできる円筒形の穴。岩のくぼみや割れ目に小石が入り込み、回転して深く削られたもの。ポットホール。かめあな。


キューブラー・ロス『ライフ・レッスン』ろくろくメモ⑧



2007/08/05(Sun) 21:54 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
最終レッスン☆
最初から最期まで、人生は学校であり、ひとりひとりに、その人に必要な試験が課せられている。
学べる限りのことを学び取り、教える限りのことを教えきったとき、私達は本当の家へ帰ることができる。

自分に課せられたレッスンを知ることは、かならずしも容易ではない。
たとえば2才で亡くなった子供のことを、慈悲と愛について両親に教えるために生まれてきたのだと理解するのは、そう簡単なことではない。現に自分に与えられている教えを理解するのが難しいだけではない。そもそも自分がどんなレッスンを学んだらいいのか、それさえわからないことが多いのだ。

第一、全てのレッスンを完璧に学びきることは、まずできないだろう。
人生のどこかには、現世では倒すことのできない竜がひそんでいるものだ。時には竜を倒せないことがレッスンになる。誰かに対して、「ああ、気の毒に。あの人は死ぬまで許しのレッスンを学ぶ事ができなかったのだ」というのは簡単だ。だが、もしかしたらその人は、死後も必要なレッスンを学んでいるかもしれない。あるいは、学ぶ機会は与えられたけれども、その人が学ぶことを選ばなかったのかもしれない。それは誰にもわからないことだ。
もしかしたら、その人をみることによって許しのレッスンを学ぶ機会が与えられ手いたのは、あなたのほうだったのかもしれない。私達はみな学ぶと同時に、教える存在でもあるのだ。

果てしなく続きそうな嵐に翻弄され、生命の危機に見舞われているるような時、何故そんな試練が与えられるのか、神は何故それほどまでに無慈悲なのかと疑問に思うことがある。
試練を受けている人は甌穴(おうけつ)の中の岩に似ている。穴の中で川の激流にもまれ、翻弄されているうちに、角がとれて磨きがかけられ、以前よりまるい、希少な岩になる。穴から出てきたときは、もっと大きなレッスンを学び、もっと大きな人生を生きる準備ができている。全ての悪夢が祝福に変わり、それが人生の一部となる。
もし、グランドキャ二オンが嵐よけのカバーで覆われていたら、あの美しい景観は永遠に見られることがなかっただろう。末期がんの患者の多くが「もし、がんにならなかったとしたら、今の自分はなかったろう。がんになってよかった』というのも、きっとそのことなのだろう。

喪失はあらゆる方法で「何が大切か」を、愛はあらゆる方法で「本当の自分とは何か」を教えてくれている。人間関係は自己への気づきの契機となり、成長への得難い機会を与えてくれる。恐れ、怒り、罪悪感、忍耐、そして時間でさえ、偉大な教師になる。
人間はもっとも不遇の時期でも成長を続けている。現世における自己の真の姿を知ることがいちばん大切なのだ。そして成長と共に、最大の恐れである死への恐怖が少なくなっていく。

「生がいいものだと分かれば死もいいものであるはずだ。生も死も、同じ名匠の手によって作られたものだからだ」というミケランジェロの言葉を味わって欲しい。
私達に生命、幸福、愛など、素晴らしいものをたくさん与えてくれる名匠の手が、死だけを醜悪な経験にするはずがないというのである。誰かがいったように「終わりは逆向きの始まりにすぎない」のだ。

本書のはじめのほうで、自分が彫った彫刻は既にそこに、大理石のなかにあったものだという、ミケランジェロの言葉を紹介した。ミケランジェロはただ余分な部分を削り取って、ずっとそこにあった美の本質をあらわにしただけなのだ。

人生のレッスンを学んでいる貴方も、同じことをしている。
余分なものを削り取って、内部に隠れていたワンダ(驚異に)フル(満ちた)なあなたを露わにしようとしている。

神からの素晴らしい贈り物の一部は、祈りに応えて与えられたものかもしれないが、祈りに応えられなかったものの中にも贈り物が含まれているかもしれない。
人生の終末期にある人達からレッスンを学べば、生にはいつか終わりが来るという事実を冷静に受け止めることができるようになる。同時に、いま現在の生についての自覚も深まってくる。
本書を読めば分るように、著者である私達自身も人生のレッスンを学び続けている。
人生のレッスンを全て学び終わり、それを血肉化した人は誰もいない。
もし学び終えていたら、その人はもう地上にはいないだろう。私達はまだ学びあい、教えあう存在なのだ。

現実に死の床につくまえに死の対処をするのは難しいことだが、死の間際にこそ人生の本質があるという事実は否定できない。私達は死の床にある人達に教えを乞うてきた。死はそれに備えて実験することもできなければ、事前に経験することもできない、ただ一回きりの経験だからだ。だから私達は、死に直面している人達を師として、頼りにするほかないのだ。

人は死の間際に、目覚しい変化を遂げる。私達は死の床にある人達から貴重なレッスンを受け取り、変化の結果を享受するだけの時間の余裕がある人達に、それを伝える為にこの本を書いた。

死の床にある人達が教えてくれた意外なレッスンのひとつは、命に関わるような病気の宣告を受けた時に人生が終わるのではなく、その時に人生が本当に始まるのだということだった。死の宣告を受けた時に真の生が始まるのは、死をリアリティとして認めたとき、同時に生のリアリティを認めざる得なくなるからだ。その人は自分が「まだ生きている」ことに気づく。今、自分の人生を生きなければならないこと、今生きるべき人生はこれしかないことに気づく。
要するに、死にゆく人達が教えてくれる第一のレッスンは、毎日をフルに生きるということなのだ。

あなたが最後に海を眺めたのはいつの事だろう?朝の空気を味わったのは?
赤ん坊の髪の毛に触ったのは?美味しい料理をたべたのは?
はだしで草の上を歩いたのは?青い空を眺めたのは?それらは全て、もしかしたら2度と得る事の出来ない貴重な経験になるかもしれない。死にゆく人達が「もう一度だけ星空がみたい」「もう一度、しみじみ海を眺めたい」というのを聞くとき、私達はいつもハッとさせられる。海のそばに住んでいる人は沢山いるが、しみじみ生みを眺め、海を味わい尽くす人は殆どいない。殆どの人は空の下に住んでいながら、星を眺めようともしない。私達は本当の人生に触れ、味わい、堪能しているだろうか?非凡なものを、とりわけ平凡の中にある非凡な物を、感知しているだろうか?

「赤ん坊がひとり生まれるたびに、神は世界を持続させようと決心してきた」という至言がある。毎朝、目が覚めるたびに、あなたは経験すべき人生をもう一日だけ与えられたのだ、といっても同じことだろう。その一日を、あなたが最後にフルに経験したのはいつだろうか?

今の人生と同じ人生は二度と手にすることができない。
この人生で果たしてきた役割をもう一度演じることも、もう一度、これまでと同じように人生を経験する事も、決して出来ない。あの両親の元に生まれ、この家族を持ち、この子供に恵まれ、この環境、この状況のもとに生まれてきたように、この世界を経験する事は2度とできない。同じ顔ぶれの友人を持つ事も、今回の生かぎりである。

あの海、あの空、あの星、あの愛する人を、最後にもう一度だけみたいと願うようになる時まで待つ必要はない。今こそ、それを、しみじみとみてほしい。

『ライフ・レッスン』 エリザベス・キュブラー・ロス 角川文庫 ¥705(税別)
2007/08/05(Sun) 14:11 | URL  | マリア #-[ 編集]
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