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2007年08月03日 (金) | Edit |
J・クリシュナムルティ 中川吉晴訳「瞑 想」星雲社より(25)


思考が そのまわりにつくりだす空間には

愛がありません

そのような空間は

人と人をへだてるものになります

その空間のなかで

ひとは何者かになろうとし

人生の闘いがおこり

苦しみや恐れがうまれます


瞑想とは

このような空間がなくなることです

“わたし”がなくなることです

そのとき

関係は まったくちがった意味をおびます

というのも

思考によってつくられていない空間には

他者は存在しないからです

それはあなたが存在しないからです



したがって 瞑想は

なにかのヴィジョンを追求するようなことではありません

たとえ それが伝統によって

いくら神聖なものとみなされていようとも……

むしろ 瞑想とは

思考が立ち入ることのできない無限の空間です

わたしたちには

思考によって そのまわりにつくられた小さな空間

すなわち“わたし”というものが

きわめて重要なものになっています

なぜなら これが

心が知っている すべてだからです

心は その空間のなかにある あらゆるものと

一体化しているのです

そのとき

その存在を失うことにたいする恐怖が

その空間のなかでうまれます

しかし 瞑想のなかで

こうしたことが理解されると

心は べつの次元の空間に入ってゆくことができます

そこでは 行為と無為は等しいものとなります



わたしたちは

愛のほんとうの姿をわかっていません

思考によって そのまわりにつくられた

“わたし”という空間のなかでは

愛は

“わたし”と“わたしでないもの”との

争いになってしまうからです

この争い

この苦しみは

愛ではありません



思考は

まさしく愛を否定するものです

それは

“わたし”のいない空間に入ってゆくことができません

その空間には 祝福があります

ひとが追いもとめているが 見いだせないでいる祝福が……

ひとは その祝福を

思考がおよぶ空間のなかで さがしもとめています

しかし 思考は

この祝福のエクスタシーを

破壊してしまいます



次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
誤字脱字
なかなか気づかないでしょ?

私はワープロ打つのが遅いから
自分のペースでブログの本文を
打ち込んでいますが、

マリアさんこれだけ打ち込むの大変でしょ?

私だったらマリアさんの一日分は三~四日分に
相当しますね。

よけいなことですが、
もう少しペース落とされてもいいのでは
ありませんか?


わたしの周りでは「明け渡す」が
ちょっとした流行語になりつつあります。

ひきつづきどうぞよろしく
おねがいいたします。



2007/08/03(Fri) 22:26 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
『ライフ・レッスン』ろくろくメモ⑤
幸福は自然な状態なのに、
私達は幸福になる方法を忘れている。

ものごとがこうあるべきだという
観念の中で道に迷っているからだ。

幸福は、幸福な瞬間を経験すること
からやってくる。
その瞬間をひきのばしていけばいいのだ。

ある日,5分間だけ幸福を感じている自分に気づく。
次は、ふと気づくと、一時間、幸福を感じている。
やがて一晩、そしてついには一日中、
幸福を感じるようになる。


不幸への最短経路は、
ものごとを比較することにある。

自己と他者を比較している間は、
決して幸福にはなれない。

地位や財産や才能がいくらあっても、
比較すれば、誰かより劣っているところが
あるものだ。

世界一の富豪は美男ではなく、
世界一の美男は力持ちではなく、
世界一の力もちは最高の配偶者に恵まれず、
最高の配偶者に恵まれている人は
ノーベル章を受賞していない。

誰かと比較してみじめになるためには、
なんの努力もいらない。
比較というこの自己破壊行為には、
しかも、比較する他者さえ必要ではない。
過去または未来の自分と比較するだけで、
同じみじめさが味わえる。

ところが幸福は、誰と比較することもなく、
自分の過去やありうべき未来に照らし合わせたり
することもなく、

今ここで、ありのままの自分を「これでよし」と
感じるところからやってくるのだ。


キューブラー・ロス『ライフ・レッスン』ろくろくメモ⑤


2007/08/03(Fri) 22:10 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
人間に思考を与えたのは悪魔である
人間に思考、感情、意志を与えたのは
悪魔であるだ。

人間は、悪魔により
自由に思考、感情、意志を操ることが
できるようになった。

だから、思考、感情、意志を自ら操り、
思い通りにしようとすれば、
たちまち、苦悩に襲われる。


楽園とは、神々の意志に従い、
生きる人間のこと。

自ら神々の意志に身を委ね、
人生に身を委ねるなら、
神々の意志が現れてくる。


人間が自らの判断でなく、
人生に身を任せるときに、
この神々の意志が働いているのに気がつく。

思考、感情、意志を捨てれば、
自ずと、そのなかから、
神々の意志が現れてくる。

神をみようとするのではなく、
己を信じないようにすればよい。


人間の判断こそ過ちの多いものはない。
人間は知識を頼りに判断を下すが、
その知識が悪魔からくることを理解しない。

だから、判断してはならん。
思考を切り離せ。他を裁くな。
お互い赦し合いなされ。

そして、ただ神のみを愚直に信じなされ。
愛とは己を虚とし、捨てることだ。


「錬金術者さん語録」より~ろくろくメモ①


2007/08/03(Fri) 21:56 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
『ライフ・レッスン』ろくろくメモ④
死ぬまでの日数をあと何日と
数えるようになった時、
私達は自分の幸福について真剣に考え、
幸福を感じるようになる。

たいがいの人は幸福というものを、
ある出来事に対する反応として考えているが、
実際の幸福とは心の状態のことであり、
周囲でおこることとは殆ど関係がない。

じつに多くの人が、何かを得た時、
または何かをした時に幸福になり、
何か大変なことが起こったときに
不幸になると思っている。

宝くじに当たったときの幸福、
魅力的になったときの幸福、
しわをとった時の幸福は長続きしない。

それは一時的な高揚感でしかなく、
その時期をすぎると、
たちまちもとの幸福あるいは
不幸な状態へ戻ってしまう。

自分を幸福にするために必要なものは
全て与えられている。

私達はただ、自分に与えられているものの
使い方を知らないだけなのだ。

キューブラー・ロス『ライフ・レッスン』ろくろくメモ④

2007/08/03(Fri) 21:53 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
こんばんは☆
誤字脱字が多いわあ~(汗)

気をつけてはいるのですが。。。

幸福が降伏になっていたりとか、紛らわしくて意味が通じているかが、ちょっと心配ですわ。
2007/08/03(Fri) 18:41 | URL  | マリア #-[ 編集]
幸福のレッスン☆ー続き
幸福になるか不幸になるかは、周囲で起こることによって左右されるのではなく、起こることによっどう対処するかによって左右される。それをどう解釈し、どう了解し、心にどう取り込むかが、その人の幸福を決定するのだ。そして、ものごとをどう了解するかは、その人のものごとの関わり方によって決まる。

ものごとからレッスンを学び、ものごとと自己の真実を早期するバランス点はそこにある。相手や状況のなかの最悪の側面をみる傾向があるか、最良の傾向があるかによって、事態は大きく変わる。ものごとを見るときの傾向、特定の方向に注意を向けようとする習癖は、おのずから強固なものになっていく。

自分の過去を、たとえば目的も意味もなかったなどと位側面を強調して振り返る人は、似たような未来につながるタネを蒔くことになる。過去を荷物・・・持ち歩くには重いもの・・・と感じるのは、そのような人たちである。荷物かどうかはともかくとして、その人の過去は現在の足をひっぱり、幸福への歩みを遅らせる。

幸福は自然な状態なのに、私達は幸福になる方法を忘れている。
ものごとがこうあるべきだという観念の中で道に迷っているからだ。

私達は「幸福になるよう努力しなさい」といわれながら育ってきた。その努力が、幸福を実感することへの邪魔になっている。幸福は、テクニックを学んだり、「幸福創造」セミナーに参加したりすることによってなるものではなく、徐々になっていくものである。
幸福は、幸福な瞬間を経験することからやってくる。その瞬間をひきのばせしていけばいいのだ。ある日,5分間だけ幸福を感じている自分に気づく。次は、ふと気づくと、一時間、幸福を感じている。やがて一晩、そしてついには一日中、幸福を感じるようになる。

不幸への最短経路は、ものごとを比較することにある。
自己と他者を比較している間は、決して幸福にはなれない。
地位や財産や才能がいくらあっても、比較すれば、誰かより劣っているところがあるものだ。世界一の富豪は美男ではなく、世界一の美男は力持ちではなく、世界一の力もちは最高の配偶者に恵まれず、最高の配偶者に恵まれている人はノーベル章を受賞していない。
誰かと比較してみじめになるためには、なんの努力もいらない。比較というこの自己破壊行為には、しかも、比較する他者さえ必要ではない。過去または未来の自分と比較するだけで、同じみじめさが味わえる。ところが幸福は、誰と比較することもなく、自分の過去やありうべき未来に照らし合わせたりすることもなく、今ここで、ありのままの自分を「これでよし」と感じるところからやってくるのだ。

自分を犠牲者に仕立て上げ、「なぜこの私が」と嘆いて不幸をかこつのは、あらゆることを悪く解釈して、侮辱されたように感じるからである。全てのことが自分の都合の悪いように起こると考える時、人は自分を犠牲者のように感じる。
照る日もあれば曇る日もある。失うときもあれば得る時もある。
ものごとは自分を標的に起こっているわけではないのだ。
誰かが自分を傷つけたときでさえ、自分には無関係な事情でそうなったということが少なくない。
それに気づけば、犠牲者のように感じる心理から抜け出すことができる。
その人の感情やその人のリアリティは、周囲の事情によってではなく、その人の思考によって規定されるものである。あなたは世界の犠牲者ではない。

私達は「たら」の世界に住んでいる。期待していることが起こったら、新しい職についたら、いい相手がみつかったら、子供たちが独立したら自分は幸福になれると、たえず自分にいい聞かせている。そしてたいがいは、期待していたことが起こっても幸福にはならなかったことに失望している。
だから、つぎなる「たら」を設定する。定年になったら、初孫が生まれたら、その子がいい大学に入ったら・・・。「たら」が現実になっても、喜びは長続きしない。幸福は「たら」とは無関係に、今ここで選び取るものである。

私達は状況をありのままに見ようとせず、その状況が「こうあるべき」だというイメージをそこに投影しがちである。状況に「あるべき」姿を投影することによって、真実を否定している。幻影をみているのだ。
真実を見るということは、たとえ何が起ころうとも、宇宙は一定の方向に進んでいるのだという冷厳な事実を知ることである。
だからこそ、人は時にその方向からはずれるが、その人の運命は決してはずれないのだ。
周囲に起こる出来事がその人にとって最悪であろうと最良であろうと、世界はその人にレッスンをもたらすような方法で一定の営みを続けている。

たとえものごとが悪い方向に向かっていると思われるときでさえ、世界は人を幸福から遠ざけるのではなく、幸福に近づけるような働きをしている。この世には、神が対処できないような問題や状況は存在しないのだ。
人生は私達に、ありとあらゆる逆説と格闘するようにしむけてくる。   (続く。。。)

『ライフ・レッスン』 エリザベス・キューブラー・ロス 角川文庫 ¥705(税別)
2007/08/03(Fri) 18:23 | URL  | マリア #-[ 編集]
絶望の淵に神は現れる
 もともと、人間には、いまのように思考、感情、意志は与えられていなかっただ。それを与えたのは、嘘の様な本当の話、悪魔であるだ。
 人間はいわば、悪魔により神から離れ、自由に思考、感情、意志を操ることができるようになっただ。だから、思考、感情、意志を自ら操り、思い通りにしようとすれば、たちまち、苦悩に襲われるだ。
 神々はそのような人間を認めてなかっただ。これが聖書の楽園からの追放の意味であるだ。楽園とは、神々の意志に従い、生きる人間のことだ。自ら神々の意志に身を委ね、人生に身を委ねるなら、神々の意志が現れてくるだ。
 人間が自らの判断でなく、人生に身を任せる絶望のときに、この神々の意志が働いているのに気がつくだ。
 思考、感情、意志を捨てれば、自ずと、そのなかから、神々の意志が現れてくるだ。神をみようとするのではなく、己を信じないようにすればよいだ。これが真の懐疑主義だ。己を常に懐疑的にみるだ。
 しかし、自らの思考、感情、意志を信じて疑わない者は、神々の意志を永遠にみることなく、悪魔の言われた通り自らの力を頼みにし、葛藤、闘争の地へと赴くだ。
 思考、感情、意志を物質として、その力で相手を倒そうとするだ。だが、それは真の自分ではない。本当の人間ではない。悪魔に魅了された人間の姿、獣の姿だ。悪魔にとりつかれ、我が者顔で、地を徘徊する姿だ。だから、地を徘徊できなくなる死を異様に怖れるだ。我が者顔をなくす自分が恐ろしくてたまらないだ。
 人間の判断こそ過ちの多いものはないだ。人間は知識を頼りに判断を下すが、その知識が悪魔からくることを理解しないだ。だから、判断してはならんだ。思考を切り離せ。他を裁くな。お互い赦し合いなされ。
 そして、ただ神のみを愚直に信じなされ。愛とは己を虚とし、捨てることだ。
2007/08/03(Fri) 14:15 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
幸福のレッスン☆
末期がんで最期の日々をホスピスですごしていた45歳のテリーは、私に「すべて順調です」といった。
そのあまりに明朗さに好奇心をそそられた私は、彼の病状について質問した。淡々と答えてくれたが、否定的なところはみじんもなく、現実にしっかりと足をつけた態度に終始していた。そこで私はこう尋ねた。

「死期を間近に感じて生きるって、どんなことですか?だれだって知識としては、自分がいつか死ぬということを知っています。でも、あなたの場合は単なる知識ではなく、リアリティです。リアルな死といっしょに生きている」

テリーは答えた。「リアルな死と、とてもうまくつきあっています。じつは、いままでの人生で、いまがいちばん幸福なんです。へんな話なんですが、僕の人生の大半は不幸でした。これでもしかたがないと、何でも受け入れてきた人生だったんです。でも、いよいよ時間がなくなってきた今、自分の人生を振り返って、決心したんです。生きているあいだは本当に生きよう、死ぬなら本当に死のうって。それと、死ぬ前に自分が本当はなにをしたいのかについても考えました。そんなことを考えているうちに、今がいちばん幸福だということに気づいたんです」

残り時間がないということに気づいたとき、人生の意味に関するなにかが変わる。
死の淵から脱して寛解期に入った患者が、「残り時間がないと思っていた時の方が幸福だった」などということは珍しくない。テリーのように、死ぬまでの日数をあと何日と数えるようになった時、私達は自分の幸福について真剣に考え、幸福を感じるようになる。

たいがいの人は幸福というものを、ある出来事に対する反応として考えているが、実際の幸福とは心の状態のことであり、周囲でおこることとは殆ど関係がない。じつに多くの人が、何かを得た時、または何かをした時に幸福になり、何か大変なことが起こったときに不幸になると思っている。
宝くじに当たったときの幸福、魅力的になったときの幸福、しわをとった時の幸福は長続きしない。それは一時的な高揚感でしかなく、その時期をすぎると、たちまちもとの幸福あるいは不幸な状態へ戻ってしまう。

自分を幸福にするために必要なものは全て与えられている。
私達はただ、自分に与えられているものの使い方を知らないだけなのだ。
私達の治世、感情、そして魂は、文句なく幸福になるように作られている。幸福の遺伝子は完璧に設計され、配置されている。どんな人でも幸福を見つけることが出来る。必要なのは、それを正しい場所でみつけることだけだ。

幸福は自然な状態なのだが、私達は不幸な状態に安住するように訓練されている。奇妙なことだが、私達は幸福に慣れていないのだ。せっかく幸福な状態にあるのに、それを不自然だと感じ、自分はそれに値しないなどと思ってしまう。
だからこそ、私達は誰かについて、なにかの状況について、つい最悪のことを考えてしまう。
また、だからこそ、幸福な状態をいいことだと感じる訓練や幸福になるための訓練が必要になるのだ

その訓練のひとつは、幸福の探求が人生に目的に不可欠であるという信念を受け入れることにある。多くの人がその信念に反発を感じ、それは自己中心的であり、思いやりのない態度だなどという。人生の目的が幸福になることだという考えに、人はなぜ抵抗を覚えるのだろうか?

私達は幸福であることにやましさを感じ、恵まれない人が沢山いるのに自分だけ幸福を求めることは出来ないと考える。臆面もなく、「なぜ幸福になる必要があるんだ?」などという人もいる。

その答えは「あなたは神の尊い子供だから」ということになる。貴方はこの世のあらゆる驚異を教授するために生まれてきたのだ。そして、あなたが幸福であれば、苦しんでいる人達により多くのものを与えることが出来る。充足していれば、欲求や欠如から生まれる行動はしなくなる。与える余裕が出来、自分の時間を、自分自身を、自分のお金を、自分の幸福を、誰かと分ちあえるようになる。

実は、幸福な人は自己中心主義からいちばん遠いところにいる人である。
幸福な人は、不幸な人より親切であり、愛と許しの力をもち、しばしばボランティアなどで他者に奉仕している。不幸な人は利己的な行動に走りやすいが、幸福な人は自然に利他的な行動をとるようになる。

真の幸福はできごとの結果ではなく、状況に左右されるものでもない。幸福になるかどうかは、周囲でおこっていることがきめるのではなく、あなたが決めることなのだ。     (続く。。。)
2007/08/03(Fri) 11:09 | URL  | マリア #-[ 編集]
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