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2007年08月02日 (木) | Edit |
J・クリシュナムルティ 中川吉晴訳「瞑 想」星雲社より(24)



このような複雑なプロセスの全体を見つめることが
 
瞑想です

そのような瞑想をつうじてのみ

混乱のなかに秩序がうまれてきます

この秩序は絶対のものです

数学における秩序とおなじほど……

このような秩序から

活動がおこります

それは なにも介在しない直接の行為です。


秩序とは

整理されたものでも

計画されたものでも

配分されたものでもありません

これらは もっとあとになってやってきます

秩序は

考えごとで混乱していない心からやってきます

思考が静まっているとき

虚空があります

それが秩序です



ほんとうに みごとな河だった

広くて 深かった

河岸には 町がいくつもあった

自由奔放に流れていたが

けっして自暴自棄になることはなかった

河岸には いのちがみちていた

緑の野原



点在する家





破壊……

河には

長くて 広い橋がかかっていた

その姿には気品があり

つかい古されていた

その河には

ほかの流れや川も合流していた

その河は

小さな川にしろ 大きな川にしろ

あらゆる川の母だった

母なる河は

いつも水を豊かにたたえていた

みずからをたえず浄めていた

夕暮れどき

河をながめるのは 祝福だった

雲の色はしだいに深まり

水面は金色に輝いていた

河のいのちは

はるか遠くの小さなせせらぎからはじまっていた

せせらぎは

それをうみだすために集まってきたかのような

巨大な岩のあいだから流れだしていた

そして 河のいのちは

この河岸の果てにつづく海で終わっていた



瞑想は

この河のようだった

ただ 瞑想には

始まりも 終わりもなかった

瞑想がおこり

その終わりは

その始まりになっていた

瞑想をひきおこす原因は なにもなかった

その動きそのものが

みずからを新しく蘇らせていた

瞑想はいつも新鮮なものだった

けっして古くならなかった

それは 時間に根ざしていなかったので

けっして傷つけられることがなかった



瞑想するのは よいことだ

けっして無理をしないで

けっして努力をしないで

せせらぎからはじめ

時間と空間を超えていく

そこには 思考や感情は入りこめない

そこには 体験というものが存在しない




次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
行き詰ったとき、それが明け渡すときだ
人生には、大波に飲み込まれた時のような、
自分ではどうしようもない事態に巻きこまれる
ときがある。

受容し、自分を明け渡す必要があるのは、
そのような時である。

明け渡さなければ、悪戦苦闘のすえに消耗
しきってしまうことになる。

安心できないとき、それが明け渡すときだ。
行き詰ったとき、それが明け渡すときだ。

自分はすべてに責任があると感じたとき、
それが明け渡すときだ。
変えられないことを変えたいと思ったとき、
それが明け渡すときだ。

ものごとを無理に起そうとせず、
ものごとの進行に身をゆだねることは、
自分自身に与えるすばらしいオプレゼントである。

これまでの人生を振り返ってみるといい。
最高の瞬間、最大のチャンスは、
その実現のために悪戦苦闘していた願望からではなく、
思いがけないところからきたのではないだろうか?

それは、その時、その場所でしか起こりえないような、
幸福の偶然の産物のようにもみえる。
しかし、それが明け渡しという行為の精妙な作用であり、
人生とはそのように展開するものなのだ。



キューブラー・ロス『ライフ・レッスン』ろくろくメモ③



2007/08/02(Thu) 21:20 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
「いまのまま」の人生に自分を明け渡すこと
あしたになって事態が変わるまでは
幸福になれないと、われわれはいう。

だが、あした幸福になれるのなら、
今日だって幸福になれるはずだ。

あした愛せるようになるとすれば、
今日だって愛することができるはずだ。

仮になにも変わらなくても、
癒しをみいだすことはできるのだ。

「いまのまま」の人生に自分を明け渡すことが、
奇跡のように状況を変化させる。

明け渡しとは受容することである。

事態の進行に身をゆだねた時、
宇宙はわれわれに自己の運命を
まっとうするための道具を与えてくれる。

では、いつ明け渡せばいいのか?
どんな状況のときに?

いかなる状況にあっても、
毎日、毎時、この瞬間瞬間が
明け渡しのチャンスである。

どんな人であれ、
生まれる時や死ぬ時は、
大きな力に自分を明け渡している。

生まれたあと、死ぬまでの間に、
われわれが道に迷うのは、
明け渡すことを恐れているからである。


キューブラー・ロス『ライフ・レッスン』ろくろくメモ②



2007/08/02(Thu) 21:17 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
決定的に克服しがたい状況をどうする
問題は、幸福を阻害しているものが
決定的に克服しがたいような状況を
どうするかである。

私達は、その状況が変わらないかぎり
絶対に幸福になれないと思っているが、
状況を変えることはできない。

不幸な子供時代を送った人がむかしに戻って、
幸福な子供時代に変えることは不可能だ。
恋人にふられたら、無理にその恋人を
とりかえすことはできない。
今がんにかかっている人は、
この瞬間には、がんのない状態には戻れない。

そうした状況のなかで、
私達は不幸のどん底にあるかもしれないが、
それでも事実を変えることはけっしてできない。

そんな時、その状況から教訓を得るための
もっとも強力かつ迅速な方法が、
人生に自分を明け渡してしまうことなのだ。


不幸だった子供時代を変えることはできなくとも、
いま幸福になることはできる。
ふられた恋人をとりかえすことはできないが、
気のない恋人をふり向かせるために無駄な時間と
エネルギーを使うのをやめることはできる。
魔法の杖で瞬時にがんを消すことはできないが、
がんになったからといって人生が終わったわけでは
ないと気づくことはできる。


キューブラー・ロス『ライフ・レッスン』ろくろくメモ①


2007/08/02(Thu) 21:15 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
わかることはわからないことだぎゃ
捨てる神ありゃ拾う神あり
捨てることは拾うことだじゃ。
失うことは得ることだぎゃ。

この世に現れるもの全ては、
この様になっておるぎゃ。

呼吸は、吐けば吸わなきゃならんじゃ。
生きることは死ぬことだぎゃ
終わりははじまりだぎゃだぎゃ。


(ろくろく)
まったくいよいよわからないので
これはいよいよわかるということぎゃぎゃ?


2007/08/02(Thu) 21:14 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
続きです☆
ほんの小さなことにさえ無条件にしたがえない人が大勢いる。講演会などでも、講演の途中で演者に異議を唱える人が必ずいる。立ち上がって、「ちょっと待ってください。先生はまちがってますよ」などという人たちだ。

そんな人たちは、聞き手という立場を理解することができない。演者がひととおり見解をのべ終わったあとに「その見解に同意できない」とか「二度とききたくない」というのはいい。しかし、そこまで待ちきれずに異議を唱えるのは、受け取ること、学ぶことに自分を明け渡していない証拠である。

世の中には、他人に喋らせることが自分の敗北だと考える人さえいる。
相手の話をきくこと、注意深くきくことは、相手の見解に多少なりとも自分を明け渡すことである。相手の見解を仔細に検討して自分の見解にとり入れようと、すておこうと、それは自由だが、いずれにしてもそれは自分を明け渡したあとの話なのだ。

ある有名レストランの支配人が、「おたくのシーザーズサラダを試してみたいんだが、ドレッシングはオイルとビネガーだけにしてくれ』とか『チキンスペシャルをひとつ。ただしブロイルしないでグリルにして。ソースはいらないから」などという、口うるさい客について語ってくれた。
「お客様に召しあがっていただく一品一品の料理は独自の工夫をこらして、当店が自身をもってテーブルにおだししているものです。それを召しあがっていただけないお客様には、料理長が精魂こめておつくりした読点独自の味をご賞味いただいたうえで、ソースを少なくといったご注文にはいかようにも応じておりますが、当店独自の料理をテーブルにおだしするチャンスもいただけないうちに、いろいろなご注文をされるお客様が多いのです」

なんでも自分の思い通りにしたいという人たちが増えすぎたのだ。
私達は謙虚であるということ、誰かの足元にひれ伏すということがどんなことなのかを忘れてしまっている。たとえほんの短時間、ほんの些細なことでさえも、誰かのアイディアや経験を素直に受け取ることができなくなっている。

変えることのできない状況を変えようとして消耗し、心の平和や真の力をなくしているのが現代人の特徴だ。私達は事態の進行に身をゆだねることによって、真の力と心の平和をとりもどさなければいけない。ようするに「います降伏になるぞ。幸福を先にのばす気はない」といえばいいだけのことなのだ。

明け渡しを拒否する人は、その反対に「この条件が変わらなければ降伏にはなれない。なれるはずがない」といっているようなものだ。新しい条件に変われば、もしかしたら幸福になるかもしれない。でも、条件はいつまでたっても変わらないかもしれない。それが、変わらないことによる犠牲者を生み出す。
「これとあれがおこれば、はじめて幸福になれる」というのでは、あまりにも虫がよすぎる。
その人が勝手にイメージしている状況だけが、ほんとうに「善」なのか?
幸福をもたらす状況は他にもたくさんあるのではないか?
その人が考えもしなかったような状況が幸福をもたらしてくれるかもしれないではないか?

起こることは何でもかんでも受容せよといっているわけではない。
くだらないと思ったテレビ番組に自分を明け渡す必要はない・・・チャンネルを換えればいい。仕事がいやなら、べつの仕事をみつければいい。車のノイズがうるさすぎたら修理すればいい。変えようとすれば変えられるような種類の、なんらかの状況が気に入らなかったら、それを変えればことはすむ。

問題は、幸福を阻害しているものが決定的に克服しがたいような状況をどうするかである。私達は、その状況が変わらないかぎり絶対に幸福になれないと思っているが、状況を変えることはできない。
不幸な子供時代を送った人がむかしに戻って、幸福な子供時代に変えることは不可能だ。
恋人にふられたら、無理にその恋人をとりかえすことはできない。
今がんにかかっている人は、この瞬間には、がんのない状態には戻れない。

そうした状況のなかで、私達は不幸のどん底にあるかもしれないが、それでも事実を変えることはけっしてできない。そんな時、その状況から教訓を得るためのもっとも強力かつ迅速な方法が、人生に自分を明け渡してしまうことなのだ。
不幸だった子供時代を変えることはできなくとも、いま幸福になることはできる。
ふられた恋人をとりかえすことはできないが、気のない恋人をふり向かせるために無駄な時間とエネルギーを使うのをやめることはできる。
魔法の杖で瞬時にがんを消すことはできないが、がんになったからといって人生が終わったわけではないと気づくことはできる。

   ・・・・中略・・・
あしたになって事態が変わるまでは幸福になれないと、われわれはいう。
だが、あした幸福になれるのなら、今日だって幸福になれるはずだ。あした愛せるようになるとすれば、今日だって愛することができるはずだ。仮になにも変わらなくても、癒しをみいだすことはできるのだ。

「いまのまま」の人生に自分を明け渡すことが、奇跡のように状況を変化させる。明け渡しとは受容することである。事態の進行に身をゆだねた時、宇宙はわれわれに自己の運命をまっとうするための道具を与えてくれる。

では、いち明け渡せばいいのか?どんな状況のときに?いかなる状況にあっても、毎日、毎時、この瞬間瞬間が明け渡しのチャンスである。どんな人であれ、生まれる時や死ぬ時は、大きな力に自分を明け渡している。生まれたあと、死ぬまでの間に、われわれが道に迷うのは、明け渡すことを恐れているからである。

変えられることで、あなたにそれが変える力があるときは、変えればいい。変えられる状況かどうかを判断する目が大切なのだ。人生には、大波に飲み込まれた時のような、自分ではどうしようもない事態に巻きこまれるときがある。受容し、自分を明け渡す必要があるのは、そのような時である。明け渡さなければ、悪戦苦闘のすえに消耗しきってしまうことになる。
安心できないとき、それが明け渡すときだ。
行き詰ったとき、それが明け渡すときだ。
自分はすべてに責任があると感じたとき、それが明け渡すときだ。
変えられないことを変えたいと思ったとき、それが明け渡すときだ。

ものごとを無理に起そうとせず、ものごとの進行に身をゆだねることは、自分自身に与えるすばらしいオプレゼントである。これまでの人生を振り返ってみるといい。最高の瞬間、最大のチャンスは、その実現のために悪戦苦闘していた願望からではなく、思いがけないところからきたのではないだろうか?
それは、その時、その場所でしか起こりえないような、幸福の偶然の産物のようにもみえる。
しかし、それが明け渡しという行為の精妙な作用であり、人生とはそのように展開するものなのだ。

『ライフ・レッスン』 エリザベス・キューブラー・ロス 角川文庫 ¥705(税別)
2007/08/02(Thu) 11:37 | URL  | マリア #-[ 編集]
何がいいたかったかといえば
 知識をもとめるよりも、自らの立場を変えなさいということじゃね。みえなければ、みえる位置に立つことが肝要かとね?
 これが瞑想の極意じゃね。
2007/08/02(Thu) 11:33 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
暗号
 捨てる神ありゃ拾う神ありという諺ありき。つまり、捨てることは拾うことだじゃ。失うことは得ることだぎゃ。この世に現れるもの全ては、この様になっておるぎゃ。呼吸は、吐けば吸わなきゃならんじゃ。
 立場によって拾うものになり、立場によって捨てるものになる。立場、つまり、立つ位置を変えれば、反対になるだぎゃ。それは場面場面により移り変わる。
 つまり、生きることは死ぬことだぎゃ。わかることはわからないことだぎゃ。
 つまり、これは暗号だぎゃ。暗号は、翻訳を必要とするだぎゃ。翻訳とは、自らの立つ位置ぞな。
 あるものを美しいと感じる立場、あるものを醜いと感じる立場、それぞれ立ち位置により移り変わるじゃね。
 その人にとれば意味をもつことも、他の人には意味不明なこと、それが暗号じゃ。料理屋さんは包丁に意味をもつが、野球選手には意味がなく、バットやグローブに意味づけを行う。野球選手に、どんな包丁がいいかを聞いても無駄なことじゃ。生き方により、暗号の取り方、翻訳はかわるじゃね。
 白色光には、元々あらゆる色彩が埋まっている。赤が好きな人は、赤といい。青が好きな人は青という。しかし、元々、赤も青もなかった。人間がつけた翻訳じゃね。つまり暗号じゃね。
 そのようなものは知識では理解できんじゃね。知識では理解できない暗号だからね。
 だから、立場により終わり、立場によりはじまるじゃ。終わりははじまりじゃね。
2007/08/02(Thu) 11:29 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
明け渡しのレッスン☆ーNO2
神は痛烈だった。脳卒中で倒れても、わたしの頭脳は明晰だった。試験のなかでレッスンを教えよと、髪はいわれた。左半身は不随になったが、わたしはまだ喋ることができ、考えることができた。

左半身の不随とともに喋ることができなくなる人も少なくないが、わたしは首からうえが無償のままだった。麻痺している左半身と明晰な頭脳がのこされたこの状態を、わたしは逆説的脳卒中と呼んでいる。
頭脳活動に障害がないのに、女性的な側面である左半身が発育不全状態におちいっているのだ。
女性的な側面とは受動的な側面である。ピンクは女性的な色だとされているが、はたせるかな、わたしはピンクが大嫌いだ!しかし、いまはピンクが好きになることを学ばされている。

受け取ることを、ありがとうということを、わたしは学ばなければならない。
忍耐と明け渡しを学ばなければならない。若いころからずっと、与えることばかりで、受け取ることを学んでこなかった。愛をうけ、世話をうけ、介護するよりされることを学ぶ。それがわたしのレッスンだ。心臓の周りに大きな石の壁があったということに、わたしは気づいた。それは傷つけられることを防御するためのものだったが、それは愛をうけることも防御していた。
2007/08/02(Thu) 10:00 | URL  | マリア #-[ 編集]
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