2007年08月01日 (水) | Edit |
J・クリシュナムルティ 中川吉晴訳「瞑 想」星雲社より(23)


だから ひとは

からだからではなく

心からはじめなくてはなりません

思考と化した心

さまざまなかたちで表出される思考からはじめるのです

しかし たんなる精神集中は

思考をせばめ 制限し 不安定にさせるだけです


むしろ 思考のはたらきに気づいているとき

集中は 自然なものとしておこってきます

このような気づきは

思考する人からはうまれません

思考する人は

選んだり 捨てたり

固執したり 拒絶したりします

しかし 気づきには

選ぶということがありません

外側のことにも気づいているし

内側のことにも気づいています

そのような気づきは

両方のあいだを行き来しながら

流れていきます

そこでは 外と内の分裂はなくなります



思考は 感じる力を破壊します

感じるとは

愛にほかなりません

思考がもたらせるものは

快楽しかありません

快楽を追いもとめると

愛は わきへ押しやられてしまいます

食べたり飲んだりする快楽は

思考のなかで たえずうみだされます

だから この快楽という

思考によってもたらされたものを

たんにコントロールしたり 抑圧するだけでは

なんの意味もありません

そこからうまれてくるのは

さまざななかたちの葛藤や強迫観念だけです



思考は 物質です

思考には

時間を超えたものを希求することができません

思考は記憶にほかならないからです

記憶のなかにある体験は

死んでいます

秋のおわりに舞い落ちる枯れ葉のように……



このようなことにすべて気づくなかで

注意が生まれてきます

注意は 不注意から生まれてくるものではありません

不注意というのは

快楽をもとめる からだの習慣を強め

感じる力を弱めてしまうものです

不注意が注意に変わることはありえません

不注意に気づくことが

注意です




次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
おはようございます☆
先生、全然わかりまちぇん(笑)
2007/08/02(Thu) 09:22 | URL  | マリア #-[ 編集]
わけのわからない空理空論
「わけのわからない空理空論」はわかろうとするからわからないのだに。わかるまで待とう不如帰だに!
いつかわかるときがくるぞよ!
2007/08/02(Thu) 09:08 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
思考は物質なので
たくさん考える人々は非常に物質的です。

床、壁、電話機が物質であるのと同様、
思考は物質です。

ある型の中で機能しているエネルギーは
物質になります。
エネルギーがあり、また物質があります。
それがあるがままの生のすべてです。

思考は物質ではないと考えるかもしれませんが、
思考は物質です。

思考はイデオロギーのように物質です。
エネルギーがあるところでは、
それは物質になります。

物質とエネルギーは相互関係があります。
一方は他方無しには存在できません。
そして二つの間に調和があればあるほど、
脳細胞はより釣り合いが取れ、
より活動的です。

思考はこの快楽、苦痛、恐怖の型を組み立て、
何千年の間その内部で機能してきており、
思考が型をつくりだしてきたので、
その型を破ることができません。


新しい事実は思考によって見られることができません。
新しい事実は、あとで思考によって、
言葉の上で理解されることはできますが、
新しい事実を理解することは思考にとって現実ではありません。

思考は心理的問題などを決して解くことができません。
どんなに利口で、どんなにずるく、どんなに学識があっても、
科学や電子頭脳や強制や必要によって、
思考がどんな構造を作り出しても、思考は決して新しくなく、
したがって途方もない問いなどに決して答えることはできません。

古い脳は生きていることの巨大な問題を解くことはできません。

思考はひねくれています。
なぜなら思考は何でもつくりだすことができ、
そこにないものを見ることができるからです。

それは最も並外れたごまかしをすることができます。
したがってそれは当てにされることはできません。

しかしあなたが、どのようにあなたが考えるのか、
なぜあなたは考えるのか、あなたの使う言葉、
あなたの日常生活でのふるまい方、人々にたいする話し方、

人々を扱うやり方、歩き方、食べ方の全体の構造を理解するなら―
これらのものごとすべてに気づいているなら、
そのときあなたの心はあなたを騙さないでしょう。

そのとき騙されることは何もありません。
心はそのとき、要求し、服従させるあるものではありません。

それは途方もなく静かで、柔軟で、敏感で、
ただひとりになります。
そしてその状態の中にすこしも欺瞞はありません。

完全な注意の状態にあるとき、観察者、思考者、中心、
「私」が終わることに気づいたことがあるでしょうか?
その注意の状態の中で、思考は衰え始めます。



クリシュナムルティの「既知のものからの自由」から
思考は物質の一部を抜粋掲載させていただきました。


クリシュナムルティに興味をお持ちの方には
たまらないないようだとはおもいますが
多くの人にとっては、

わけのわからない空理空論のように感じられる
のではないでしょうか?


どうぞみなさまのご感想をひとことでかまいません
コメントをおまちしております。


2007/08/01(Wed) 22:06 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
自分を明け渡すこと
どんな時でも、人は明け渡すことによって、
かぎりない平和をみいだすことができる

すべてうまくいくという想念に
自分を明け渡すこと


抵抗しなければ、人間は自然に
リラックスするようにできている


どのように自分を明け渡せばいいののか?
綱引きゲームを終わらせる時と同じ・・・
手を放せばいいだけ。


手を放すということは、
ものごとがこうなるべきだとする
イメージをすて去り、
宇宙がもたらしているものをうけ入れること


「良くない」状況が結局は
よりよい結果につながり、
「いい」ととおもっていたことが、
かならずしも最良ではなかったことに気づく。

たとえば実験的な治療法や新薬が
一時的に功を奏しても、
結局は副作用の方が大きいことがわかる
ようなものだ

なにが最良なのかはわからない
というのが真実である。


(ろくろく)キューブラー・ロスの考えは
日頃感じていることととても近いところのものです。
ひきつづきよろしくおねがいします。


2007/08/01(Wed) 21:19 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
失って得るもの
 物質とは、精神の崩壊だに。精神が崩壊すると、物質となる。結晶は、精神が崩壊した後に残るその精神の余韻から生じる。
 精神の崩壊から物質が生まれるのだから、思考が物質ならば、思考は精神の崩壊を意味する。つまり、思考は、精神を失ったところに生じる。
 精神が、物質に捉われた気、これは不規則な状態だが、この不規則な関係のなかに進入すると、神経が生じる。だから、思考は、神経の崩壊により生じる。
 精神が、気に捉われた心、これは不規則な状態だが、この不規則な関係のなかに進入すると、筋肉が生じる。だから、感情は、筋肉の運動(崩壊)により生じる。
 精神が、エゴ(利己)に捉われた心、そして、その心に捉われた不規則な気に進入すると、骨が生じる。だから、意志は、骨の崩壊により生じる。

 人間の精神(魂)は、神経の崩壊、筋肉の崩壊、骨の崩壊により、思考、感情、意志を得る。これらの体験は、精神(魂)に跳ね返り、永遠に魂のものとなるのに対して、神経、筋肉、骨は、崩壊し、捨てられていく。
 前者、つまり精神を蛇に例えると、崩壊し失い捨てられていく後者は、脱皮の皮になるじゃ。
 これをニーチェは、脱皮しない蛇は死するといっただに。つまり、崩壊しない精神は、死する堕落した魂であるといえるだに。
 つまり、日々人間は、失い、崩壊させ、体験、経験として、死後、それを携えていくというだに。この世で束の間に過ぎ去る脱皮の皮、つまり財産、名誉、利害などは、捨てていく運命にあるじゃね。どうせ捨てるのだから、拾っても虚しいだけである。
 それよりも、魂の内部にある、精神を取り出し、崩壊させていくことが肝要だに。精神は使えば使うほど、体験すればするほど、叡智に富み、神々の意志を認識できるようになるというだに。
2007/08/01(Wed) 11:25 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
思考を自分から切り離す
 ある意味、正しく思考とは物質だに。物質といっても、物質を生む記憶、つまり物質の素といえるだに。
 私は思考するというが、実際は、私が思考しているのではないじゃ。「我思う、故に我在り」ではないだに。
 思考のなかに、我を見る。我は思考すると勘違いしておるだに。思考は、我なくても、物質のように存在する。我は元から我ある。思考の虜になると、我が思考していると錯覚しておるだに。
 「私は思う、私はいかに考える」というのは、本当は間違いで、「私は思考を所有する。私は、この思考を利用したい」という意味になるじゃ。
 思考を自ら切り離し、思考を所有せず、認識を深めると、過度な感情が押し寄せるというだに。この感情も切り離し、感情を所有せず、思考や感情から自由になると、意志の力が現れるというだに。
 宇宙の至るところから、この意志が、押し寄せ、意志の共存を図ることができるように、心を統一することが、瞑想の目的だというだに。
 だから、瞑想は、何の思考も、感情も、意志ももたない虚、無我の境地に至ることを表すようだに。
 神々の意志の海のなかに生きる人間は、本来、「神々の意志により生きる人間」といわれるじゃね。これが聖書の記述の楽園、エデンの園にいた人間のことじゃ。
2007/08/01(Wed) 10:51 | URL  | 錬金術者 #-[ 編集]
明け渡しのレッスンー続き☆
明け渡しと降伏には大きなちがいがある。
降伏とは、たとえば致命的な病気の診断を受けた時に、両手をあげて「もうだめだ。これでおしまいだ!」ということだ。

しかし、自分を明け渡すことは、いいとおもった治療を積極的に選び、もしそれがどうしても無効だとわかったとき、大いなるものに身をゆだねる道を選ぶことである。

降伏するとき、我々は自分の人生を否定する。
明け渡す時、我々はあるがままの人生を受け入れる。

病気の犠牲者になることは降伏すろことである。
しかし、どんな状況にあっても、常に選ぶことができると考えるのが明け渡しなのだ。

状況から逃げ出すのが降伏であり、状況のただなかに身をすてるのが明け渡しである。
2007/08/01(Wed) 10:45 | URL  | マリア #-[ 編集]
明け渡しのレッスン星
死の間際にかぎらず、どんな時でも、人は明け渡すことによって、かぎりない平和をみいだすことができる。ところが不幸にも、私たちの多くは明け渡しを恐れている。屈服することを「負け犬」のしるしだと思っているのだ。

しかし、
明け渡しは負け犬のしるしではない。すべてはだいじょうぶだ。すべてうまくいくという想念に自分を明け渡すことのなかには、なぐさめと力がある。

病気や喪失の最中に『すべてよし」とおもうためには、相当な信仰心を必要とする。些細なできごとに対してさえ、自分を明け渡すことはむずかしいからだ。
私たちは状況を操作したがり、自分の手でものごとをおこそうとしたがる。活動することが力だと考え、無抵抗は弱さだと考える。

人生の大半のことは自然にうまくいっているものだという事実に気づくまでは、なりゆきにまかせることには抵抗を覚える。
私たちはそもそも、壁に頭をぶつけるような状況に生きるべくつくられているわけではないのだ。だから、たえず悪戦苦闘している人は、宇宙がなにかのメッセージを伝えようとしているのではないかと考えたほうがいい。抵抗しなければ、人間は自然にリラックスするようにできている。たえず仕事や人間関係や状況の主導権をにぎっている必要など、ほんとうはどこにもないのだ。
人生はなるべくしてなるように展開しているものだということの気づけば、自然に肩の力がぬけてくる。

人生はジェットコースターのようなものだ。私たちはコースターには乗るが、それを自分で操縦しているわけではない。ジェットコースターを自分の思う通りに走らせようとしたら、どんなことになるだろうか?
軌道をはずれて操縦できないことからくる欲求不満にかられるばかりか、コースターの動きに身をまかせて、そのスピードやスリルを味わうやのしみもうばわれる。

自分を明け渡す時期にきたというサインは、状況のコントロールや競争に勝とうとする試みにつかれきったときにやってくる。必死ににぎりしめていたものを手放すときが、闘いの相手に自分を明け渡すときである。たえまない心配や消耗的なたたかいが、喜ばしい人間関係や創造性を破壊し、幸福や満足を遠ざけている。
闘争が恐怖心を生み出し、恐怖心が「たえず、すべてをコントロールしていなければならない」という誤った信念を生み出している。自分を明け渡すことは、そんな戦場を離脱し、馬に飛び乗って馬の走りたい方向に行き、流れに逆らわず、流れに乗って泳いでいくことである。

・・・・中略・・・

コントロールすることはいいことだ、コントロールを放棄して、なるようになると現実に身をゆだねることは危険だという迷妄のなかで多くの人が悪戦苦闘している。
しかし、この世の営みにとって、人間のコントロールはほんとうに必要なのか?
毎朝、夜明けまえにおきて宇宙に注意をうながさなくても太陽はちゃんとのぼってくる。
海のことなど忘れているときでも潮はちゃんと満ち干をくりかえしている。
子供に教えなくとも、子供の体はちゃんと成長する。
咲き方のセミナーなどひらかなくても時期がくれば花は咲くし、いちいち指示しなくても惑星は正確に軌道どおりに運行する。
天体の運行や植物の開花をはじめ、動物、風、陽光などなど、宇宙は驚異的に封雑な作業を信じられない巧みさでやってのけている。
そして、私達が自分を明け渡すことを恐れている相手は、じつはこの宇宙の力そのものなのだ。

困難な状況のなかに善性や教訓をみいだすのは、かならずしも楽なことではないかもしれない。何故こんなことがおこるのかと、疑問に思うときもあるだろう。しかし宇宙にとっては、困難な状況を与えることでしか人間を癒すことができないときも少なくないのだ。
なにが「よくないか」を探すよりも、ものごとをあるがままにみて、それで「いい」とおもってみてほしい。

ものごとが何故おこるのか、その理由をほんとうに知っている人などいるはずがない。
宇宙の力は人間の理解力をはるかにしのぐ、巨大なものだからだ。
理由を知るべきだと思う、その人間の心のほうが問題なのだ。
人生には謙虚さが必要だ。何故なら、命は神秘であり、謎であるからだ。あらゆる真実は、その時がくれば明らかになる。

では、どのようにして自分を明け渡せばいいののか?どうすれば闘いがやめられるのか?
綱引きゲームを終わらせる時と同じ・・・手を放せばいいだけだ。
自分がむいている方向に向かって手を放せばいい。神を信じ、宇宙を信じることを学び始めた時に、はじめてほんとうのリラックスが訪れる。

手を放すということは、ものごとがこうなるべきだとするイメージをすて去り、宇宙がもたらしているものをうけ入るjことである。ものごとがこうなるべきだなど、本当はわからないのだという真理を受けいることだといってもいい。

死の床にある人たちは人生を振り返って、そのことを学ぶ。
「良くない」状況が結局はよりよい結果につながり、「いい」ととおもっていたことが、かならずしも最良ではなかったことに気づく。
たとえば実験的な治療法や新薬が一時的に功を奏しても、結局は副作用の方が大きいことがわかるようなものだ。それでも助かることを期待して、多くの患者が新薬を使い、実験的な治療法をうけてきた。うまくいった例もあれば失敗した例もある。なにが最良なのかはわからないというのが真実である。

だからこそ、自分の将来を知りたいという欲求は手放し、つねに正邪が判定できると主張することはやめ、コントロールしようとすることは、やめなければならないのだ。

なにが最良かを確実に知っているとおもうときは、その人が迷妄と格闘している時である。
人間がすべてを知ったことは一度もないし、これからもけっしてないだろう。

『ライフ・レッスン』 エリザベス・キューブラー・ロス 角川文庫 ¥705(税別)
2007/08/01(Wed) 10:17 | URL  | マリア #-[ 編集]
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