2007年07月26日 (木) | Edit |
アルフォンス・デーケン 編著「老いと死をみつめて」同文書院より(8)


Q ある友人が配偶者を喪い、
一人きりで生活することになりました。

その後しばらくして彼女に会ったところ、
独りぼっちなったら周囲の人たちの対応が
ひどく変わってしまったと嘆いていました。

これはどういうことでしょうか。


深い人間的な出会いを求めて

A 欧米でよく言われることですが、
夫婦単位のグループの交際で、
あるカップルが相手を喪うと、

遺された妻や夫はどうしてもそのグループの中で
疎外感を感じるようになって、離れていくケースが
多いそうです。

配偶者を喪った後、
今まで友人だと信じていた人が急に冷淡になったり、
思いがけない拒絶にあったという話は体験者から
よく聞きました。

そんな苦い思いを味わう前に、
どんな危機にも耐える深い友情養っておくことは、
人間として大切な課題だと思います。

現代はとかく相手の利用価値だけを基準にして
評価する機能的アプローチが幅をきかせていますが、
これはうわべだけの脆いものです。

相手の自由を尊重しながら「共に歩む」
人格的アプローチを目指すことによって、
本当に深い人間的な出会いが得られるのです。

人間関係の真価が問われるのは、相手が逆境に沈む
時です。大きな苦しみを経た人とのこころからの
交わりは、なにものにも勝る強い精神的な支えでは
ないでしょうか。


悲嘆から成長した人たち

ここでちょっと私が主催する「生と死を考える会」
のことを申しあげましょう。

この会は、身近な人との死別体験を語り合い
生と死について学ぶための場として発足しました。

第一回「生と死を考えるセミナー」から誕生した
この会が、第三回(1984年)以降は、セミナーを主催
するメンバーへと成長したことです。

最初は一般社会に理解してもらえない苦悩や悲嘆の
数々をやっと吐き出して、そのつらさを分かち合おう
とする人たちの集まりでした。

やがてその中からまったく自主的に自分の体験を
踏まえて周囲にこころを開き、すすんで他者のために
役立とうと積極的に活動する人びとが出てきたのです。

「大きな苦しみを受けた人は、うらむようになるか、
やさしくなるかのどちらかである。」という
ウィル・デューラントの美しい言葉が示すように、

喪失の悲嘆から何を引き出すかは、それぞれの主体性
にかかっているのです。


次回につづく


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コメント
この記事へのコメント
生き返った人たちの共通点
死を恐れなくなっている
死とは単に肉体を脱ぎ捨てることでしかなかった
死の体験のなかで深遠な全体性を実感した
彼らは孤独ではなく、そばに誰かがいたとも報告している


喪失そのものに劣らず辛いのは、喪失への予感

検査結果が分るまでの時間
大手術が終わるのを待つ時間、検査結果が分るまでの時間。
愛する人が重体になり、予後が未確定な時

喪失するかもしれないという苦しみもまた、喪失のひとつ


喪失のレッスン☆ーNO4 byマリアさん
の記事の中でとても興味深かったところを
抜粋コピーさせて頂きました。


喪失への予感も喪失のひとつだということ
なんですね・・・


2007/07/26(Thu) 21:48 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
福田恆在『私の幸福論』
是非お願いします。

漢字に変換できないケースはけっこうあります。

普通はわたしの場合 IMEパット(P)にある「手書き」ソフトを
だしてマウスで手書きして出します。

もう1つはYAHOOなどで検索してみるといいです。
(今回の恆在はYAHOOで検索)

それでもない場合はひらがなで出すしかないですね。


福田恆在『私の幸福論』ちくま文庫
なかなか面白そうですね。楽しみにしております。


2007/07/26(Thu) 20:20 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
喪失のレッスン☆ーNO4
愛する人を亡くすことは、間違いなくもっとも辛い経験のひとつである。
ところが離婚や生き別れで相手を失った人が、死別だけが究極の喪失ではないことに気づく時がある。相手が生きていることがわかっていて、その相手と生活を共に出来ないという現実が、相手がこの世から永久にいなくなることよりも苦痛が大きく、あきらめるのが難しいという場合もあるのだ。相手を亡くした場合なら、心のなかで生きていると考えれば、別の意味で相手と生活を共にすることができる。

死の床にあった人たちから、喪失に関して興味深い報告が届いている。
医学的に死亡が確認され、なんらかの理由で生き返った人たちが、共通した、ある特徴的なレッスンを持ち帰っているのだ。その報告に共通しているのはまず、彼らがもはや死を恐れなくなっているということである。次に、死とは単に肉体を脱ぎ捨てることでしかなかったのだという気づきである。不要になった服を脱ぎ捨てることと同じだと彼らはいう。三番目の共通点は、死の体験のなかで深遠な全体性を実感したというところにある。

全てのもの、全ての人と繋がっていると実感し、喪失感は全くなかったというのである。
彼らは孤独ではなく、そばに誰かがいたとも報告している。

      ★  ☆  ★  ☆  ★

ある日とつぜん妻に去られたという30代の男性がいた。憔悴しきったその男性は、私にさんざん愚痴をこぼし最後にこうたずねた。
「これが喪失ってやつですかね?知り合いにも離婚や死別で喪失体験をした人がたくさんいて、その苦しみを聞かされたこともありましたが、なかなか理解できませんでした。でも今なら痛いほどよく分ります。その人たちに会って『ごめんよ。君の気持ちが汲み取れなかったんだ』って、いいたい心境ですよ。
お陰で僕も少しは成長し、人の気持ちが分るようになりました。これからは、喪失体験で悩んでいる人がいても、今までとは違う対応ができそうだ。力になってあげられるかもしれない。きっと、自分でも考えられないような対応をすると思いますよ。その人が、以前の僕には想像もつかなかった苦しみを味わっているのだということが理解できるような気がするんです」

喪失体験はこの男性のように、人生に役立つ体験のひとつである。それは私達をひとつに結びつける。
互いに理解が深まりあう。喪失は人生のほかのレッスンとは違う形で、人間の絆を深めることに役立つ。喪失体験をすると他者を気づかう気持ちが深まり、それまでとは違った深い付き合いができるようになる。

喪失そのものに劣らず辛いのは、喪失への予感である。患者から何度こんな言葉をきいただろう。
「治るのか死ぬのか、はっきりさせてくれ!」「検査結果が分るまでの時間は耐え難いものでした」
よりを戻すかどうかで悩んでいるカップルは「ひとりでいるのは辛い。だから、また一緒に暮らしたいと思うけれど、また別れることを考えると、いっそのこと終わりにしたいとも思う」と訴える。

行く手に喪失体験が待ち受けているかどうかがはっきりしない時、人は地獄の苦しみを味わう。
大手術が終わるのを待つ時間、検査結果がわかるのを待つ日々。愛する人が重体になり、予後が未確定な時などである。子供が行方不明になったら、親は何時間も何日も地獄のなかで待つことになる。戦地で行方不明になった兵士の家族も同じ心境だろう。何十年たっても兵士の生死が不明のまま、未だに苦しみが癒されない家族も沢山いる。愛する人の死が確認されたか、または救出されたかがはっきりするまで、傷は癒されることがない。

喪失するかもしれないという地獄の苦しみもまた、喪失のひとつだ。
事実としての結果がどうであれ、その苦しみは喪失として対処されるべきものである。

『ライフ・レッスン』 エリザベス・キューブラー・ロス 角川文庫 ¥705(税別) 
2007/07/26(Thu) 12:51 | URL  | マリア #-[ 編集]
相手の自由を尊重しながら「共に歩む」☆
おはようございます☆

「相手を尊重しながら・・・」大事なことですよね。これって。

>独りぼっちになったら、周囲の人たちの反応がひどく変わってしまった、と嘆いていた。

人間、誰でも悲嘆にくれている時は、とかく自分の「都合」ばかりで廻りをみてしまうことがあると思いますし、それは致し方ないことだとも思います。

ご主人を亡くしたことで廻りが(手のひらを返すように)変わるということも、勿論人によってはあるでしょうが、それよりも「自分自身の(廻りの)見方が変わった」ことのほうが圧倒的に大きいと思います。

ただ、ご本人がそれに気付いていないだけで。

ところでろくろくさん、他にも紹介したい本があるのですが。
福田つね在(つねありの、つねの漢字がでないの。皆、どうやって出しているのか不思議!)箸
『私の幸福論』の一節を、出来れば『ライフ・レッスン』を中断して、明日から2・3日是非☆

「心構え」という点においては、今回のシリーズとも相通じるところがあると思いますので。

どうぞ、宜しくお願い致しますわ。
2007/07/26(Thu) 09:42 | URL  | マリア #-[ 編集]
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