2007年06月19日 (火) | Edit |
玄侑宗久著「禅的生活」ちくま新書より(38)


ところでこうした悟りは、
誰もが達成できるものなのだろうか。
それについては古来いろんな意見がある。

当初は人間すべてが悟れるわけではなく、
だいたい三種類の人間がいるという考え方が
一般的だった。

それは「三乗」というのだが、
「声聞乗」「縁覚乗」そして「菩薩乗」。

つまり悟れるのは三つ目だけで「声聞乗」「縁覚乗」は
そこまで行けず、初めから乗り物が別だという考え方が
優勢だった。


ご存じの方もあるかと思うが、これは地獄・餓鬼・畜生
修羅・人間・天道という六道の上にくるもので、
声聞・縁覚・菩薩・仏をあわせた「十界」のなかの三つだ。

声聞というのは、極めて現代的にいえば要するに理論派
である。人から聞いたり本を読んで解るだけではお悟り
ではないというのだ。

縁覚というのは、実際の生活のなかでさまざまな縁にふれて
自覚すということだから、経験論と云えると思う。しかし
それだけでも究極の悟りは得られないという。

「三乗」思想の場合は、この理論派と経験論派が二種類の
人間と考えられているところが面白いわけだが、究極の悟りは
両者を合体させる素質をもった人間のものということになる。

人間には初めからそうした区別があるというのである。

じつはこの問題に関しては、南都仏教の徳一大師と
平安新仏教の最澄が苛烈な論争を繰り広げた。

徳一が今申しあげた「三乗」思想、
最澄は『法華経』を典拠にした「一乗」思想を主張し、
空海もそれに味方したのだった。

「一乗」思想とは、どんな人でも仏になれるという考え方
である。世間とすれば誰でも成仏できると言われたほうが
嬉しいのは当然だから、いきおい最澄・空海を支持する
ことになる。

この論争も最終的には徳一の敗北に終わるのだが、実際
どうなのかということは、おそらく論争の勝敗とは関係なく、
今も個別に考えなくてはいけない問題なのかもしれない。

徳一の誠実さがそうした結論を導いた部分もあるだろうと
思う。

しかし禅は、徹底して誰もが悟れるという立場を取る。
いや、「現ずる」ことができるかどうかはともかく、誰にも
仏になる可能性としての「仏性」はあるというのである。

「誰が家にか明月清風なからん」と謳うのは『碧巌録』だが、
これもそうした「悉有仏性」(誰にも悉く仏性がある)の
思想表現である。

「明珠在掌」(明珠は掌に在り)という言葉も、
場合によっては幸福が身近にあるという意味にもとれるが、
みな仏性をもっているという意味でもある。

ところで、これまで我々凡夫というという言い方を気楽に
してきたが、ここで一度お詫びしておきたい。
あなたも私も、じつはいつか悟れるかもしれない。

禅は強くそう主張しているのだった。
ごめんなさい。




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コメント
この記事へのコメント
ぼん‐ぷ【凡夫】
愚かな人。仏教の教えを理解していない人。
平凡な人。普通の人。凡人。

「我々凡夫は・・・」
という言い方はわたしもけっこうしています。
日本人独特のへりくだった表現ですよね。

玄侑宗久さんはそれをわざわざ謝って印象づけて
われわれは悟ることもできない「平凡な人」などではなく
「いつか悟れるかもしれない」ということを
強調したかったのではないのでしょうか?

誰が家にか明月清風なからん

いいことばですね。





2007/06/19(Tue) 18:21 | URL  | ろくろく #-[ 編集]
ごめんなさい?
ブログの最後の表現が以外だったので、もう一度読み直しました。
「凡夫」と言ったことに、
   人に対して・・・ごめんなさい
   私にたいして・・ごめんなさい
悟りは遠くの高みにあるのではなく、どこかの特別の誰かにおこるだけではなく、我々全ての人におこる可能性があるということですね。
何度も出てくる悟りの意味がやまんばの中で定かでないので、辞書を調べたら・・・心の迷いを去り、真理を会得する・・・・
やまんばはなんでもすぐに「わかった!」だからすぐにまた闇の中。でも旅は死ぬまで続きます。
  幸せは歩いてこない~
  だから歩いていくんだねえ~
  一日一歩三日で三歩
  三歩進んで二歩下がる  ^^
  
2007/06/19(Tue) 10:05 | URL  | やまんばさん #-[ 編集]
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